chapter2.31
雨の気配を感じる森林地帯には独特の匂いと共に、立ち込める霞が少しづつ濃くなっていた。
風で流されない霞は山崩れの傷痕の残る麓に、そっと置かれたように留まり、いつしか空との境さえ見失わせる。
(何だか今日に似た日だったな)
そう思いながら言葉を選び、ひとつひとつ確認するように語り始めた霞夏の言葉に、いつの間にか風が止んでいるのを意識しつつ時折相づちを打ちながら静かに聞き入るユキ。
――あの日も夏の終わりだった。
廃墟地帯のくすんだ景色に、濁った雲がいっぱいに広がる空。
視界には鮮やかさなど一つも見当たらない、霞夏にとってつまらなさしか感じることのできない、一面の灰色。
そんな霞夏は三咲組が所在を置く第一地区の南西、第四地区予定地の一角にて車両から機材を降ろす一鉄一葉、田羽多の様子を少し離れたところから眺めていた。
専門的な機材や設備は、既に地質調査のため葦利工業が持ち込み設置されていたが、今日行う調査で邪魔になる瓦礫を撤去するための重機や工具等を含めた装備だけでも結構な重量になる。
手伝おうともしない霞夏に厳しい視線を送る一葉は、その日の朝にあったことを思い出す。
本来ならば第三地区に戻った後の観測を想定し、野嶽と共に森林地帯の観測助手として同行するはずだったが、今日の野嶽の観測地は地形的に非常に険しく、とても経験不足の霞夏が同行できるとは思えなかった。
目の休息のため事務所で電話番を兼ねて待機する稲葉を除き三咲組の他のメンバー全員は、急遽優先せざるを得なかった行政区からの依頼である地質調査への協力をする。
かねてから整地が進められているこの地区で暴徒に遭遇する率は極めて低い。おまけに今日は大人数での作業であり軍の同行もある。
一葉は一鉄に相談の上で安全を考慮し、霞夏に廃墟地帯での作業の現場へ編入を指示したのだが、霞夏はそれを聞いた途端不平を口にし、野嶽との作業を希望したのだ。
結局は野嶽本人からの説得でようやくこちらへの同行を納得した。不貞腐れつつ、渋々にだ。
一葉は霞夏が成長し、空太と同じサーヴェイアとなって三咲組を訪れたことは本当に嬉しく思う。
久しぶりの再会で、数日前に霞夏が到着してからついつい一緒にはしゃぎ過ぎてしまった感もある。
幼い時を共に過ごした一葉にとって霞夏と雲秋は結花と同じように姉妹、姉弟のような存在だ。
本心では可愛くて仕方がない。
しかし、仕事は仕事。危険地帯での仕事は作業の違いはあれど、常に死の危険が付き纏う。
自分だけの問題ではないのだ。
未熟さは仲間の負担となり、甘さは危険を増大させることにつながる。
それが解らない者は、危険地帯に出入りする資格すらない。
霞夏に苛立つ一葉に気が付いた一鉄は、注意を逸らすように言葉をかける。
「おーい一葉。コンテナ降ろすからよ、クレーン頼むわ」
一葉は一鉄の思惑などお見通しではあるものの、仕事中に揉め事は避けたい。現場の和を保つ意味ではこれでいいとも思う。
「はいはい。親父はボタン3個以上ある機械操作できないもんな」
「うるっせぇな! 待ってんだから早くしろよ!」
そんなやり取りをしながら、一葉は思う。
(ある意味ではいいんだけどさ、そんなんじゃプロにはなれない。親父だってわかってるはずだろ?)
考えがまとまらないながらもフックに荷降ろし用のバンドを掛け終えた田羽多と連携し、押釦コントローラーを操作し正確に作業を進める一葉。
「よーう、お嬢。相変わらず別嬪だなぁ」
不躾に背後から声をかけられた一葉は更に苛立ちを募らせる。
聞き覚えのある声に対し、無言でジロリと睨む様な視線で背後に目をやると、そこには一方的な親しみを押し付けてくる中年男性がこちらに近づいてきていた。
男の背後には少し間を空けてスーツを装備した数名の男の姿が見える。
以前三咲組に所属していた時期があるその男は妙に馴れ馴れしく一葉に接しようとする。
男は一葉の肩に触れようと左腕を上げるが、一葉はコントローラーを操作しながらスルリとかわす。
「ここを何処だと思ってんだ? スーツもまともに装備しない奴が寄ってくんじゃねぇよ。私が今何してるかもわかんねぇのか」
重量物を吊り上げているのだ。万が一荷崩れでもしたらヘルメットなしでは簡単に命を落とす。更にそれを操作している人間に背後から不用意に触れようなど充分に事故を起こす原因になり得る。
(こいつに何言ってもわからねぇだろうけどさ)
声は荒げることなく、しかし一度も目を合わせずにはっきりと言葉をぶつける一葉に、男は振り返って背後から付いてくる男たちに肩をすくめてみせる。
男はスーツをツナギか何かのように下半身だけ着用して袖を通していない腕部分を腰で結び、ヘルメットすら被っていない。
上半身の無駄に露出が高いタンクスーツは、全体的に不必要に日焼けした肌に趣味の悪いアクセサリー、更に両肩と腕の数か所に施されたタトゥーを見せびらかしたくて着ているのだろう。
体躯は大柄ではあるが鍛えられたような肉体ではなく、中年らしくだらしない贅肉もついている身体はわざわざ人様に見せるようなものではない。
脂でも滲んでいるようにテラテラ光を弾く顔は何故か自信ありげな表情で、わざわざ整髪料で逆立てた短髪、似合いもしないピアスとネックレス、意味もなく大きな声、偉そうで厚かましい態度……。
枚挙に暇がないほどの理由で、一葉はこの男が大嫌いだった。
ヘルメットを被った一葉の、しかも背後から声をかけて『別嬪』とは。
どうせスーツ姿の尻でも見ながら言ったのだろうと思う一葉。
一葉の苛立ちを察知した一鉄が資材の影から顔を出し、あからさまに顔を顰める。
「葦利、一葉が言ったのが聞こえなかったか? そんな恰好でウロチョロしていいと思ってんのか?」
「お、おいおい。鉄さんまで随分冷てぇじゃねぇか、元戦友によ」
さすがに一鉄相手には尊大には出ず、友好的であるようにとりなそうと若干声の勢いを落とす。
「お前にそんな呼び方される覚えはねぇぞ。どうせ作業は後ろの者がやるんだろうが。怪我しないうちにさがってろ」
一鉄は相手にするだけ面倒だ、と適当にあしらう。
男の名は葦利 丈丑。
約2年前三咲組に所属していた男だ。と言ってもほんの三ヵ月だけであり、当時続出した三咲組に仕事についてこれなかった人間の典型のような人物だった。
何の自信があったのか、入社直後はやたらと威勢が良かったが日を追うごとにしょぼくれ、ひと月も経てば腕を痛めたの体調が悪いのと理由をつけてはサボりがちになり、三月めには突然「任期満了」と言い出した。
そんな契約はしていなかったが、既に荷物が纏められていることに呆れた一鉄は何も言うことはなかった。
葦利はその後も他所でサーヴェイアを続けたようだが続かず点々とした後、一年ほどで親の営んでいた会社『葦利工業』に転がり込み、ごく最近父親の引退を機に会社を引き継いだ。
葦利工業は南方行政区で観測機材の製造とメンテナンスを主な生業とする中規模の企業であり、一葉のように自前でメンテナンスをこなせる者がいない観測企業にとって世話になる機会は多いだろう。
先代は堅実であり、技術者を大切にする経営で信頼のおけるイメージだったが、言うまでもなく最近の評判は悪くなる一方だった。
(随分と甘やかしちまったもんだぜ。こいつにはもっと早く教えなきゃならんことがあったろうに)
仕事の上で先代とも親交のあった一鉄は、厳しいながら魅力的な人物だった先代社長の引退が早すぎたと思うのだった。




