chapter2.30
「早瀬、三咲組は俺の昔からの馴染みだ。俺だけじゃない、この街の殆どの人間は何らかの形で奴らの世話になっている。そういう奴らだ。菱川の言ってるのはそういう意味だ」
端から簡単に首を縦に振るとは思っていなかった藤田が必死の説得をする菱川の言葉を後押しする。
それを聞いた早瀬は随分と抽象的な言い方だと思う。
三咲組と言えば、東方出身の早瀬でも聞いたことのある名だった。
観測屋でありながら、武装集団から何度も街を守ってきた企業。
東方で軍属だった自分ですら噂を聞くぐらいだ、恐らくはそうなのだろう。
応接用のテーブルには菱川に供された緑茶が湯気を立てている。呑もうともせず、ぼうっとした目で湯呑を眺めながらそう思いつつも早瀬は素っ気なく答える。
「俺が観測屋、ですか。……性に合うとは思えません」
侮蔑しているというほどでもないが、危険地帯で観測するサーヴェイアを何度も護衛してきた早瀬にとって観測屋とは『守られる側』でしかない。
誰かを守るために軍属を志し己を鍛えてきたはずが、最も守りたかった自分の家族を、守ることができなかったのだ。
そんな自分に『守られる側』になれと勧めてくる二人に口には出せない言葉を心で呟く早瀬。
(悪い冗談だ……もう、放っておいてくれ)
家族を失う前の早瀬ならば、いや失った今でもこの二人への信頼は変わらない。
公平且つ厳格な司令官としての藤田と謹厳実直を地でいく菱川。訓練や共同作戦によって立場は違えど付き合いは長く、自分に対しても深く理解してくれているであろうこの二人が、考えもなく観測屋への転身を進めているわけではないことはよくわかっているつもりだが、今の自分が何かの役に立つとは思えない。
そして、誰の役に立ちたくもないのだ。
さっさとこの場を去り、街からも出て行こうと思う早瀬だったが、その行動さえも起こす気力が湧かない。
そんな自分に呆れ果てて小さな溜息を漏らす早瀬。
そんな早瀬に正面を向け、藤田からは机を挟み室内で三角形を描くように立つ菱川は、胸を張り腰の後ろで両手を握る軍人の基本姿勢なのだが、背後にある書籍が納められた木製キャビネットの硝子戸に映る彼女の両手は、もどかしそうに指を動かし、握っては離し、左右の指を絡めては戻したりと落ち着きがまるでない。
どんなときも折り目正しい菱川には珍しいことだ。それほどまでに早瀬を案じている菱川の胸の内を思い、居た堪れなくなった藤田が口を開く。
「実はな、もう先方には話が付けてあってな……三咲組はこのところ随分と人手不足に喘いでいる。当日一日でいい。顔見せがてら手伝ってやってほしい」
藤田の口調と声色が変わった。親しみを感じる、砕けた話し方と緊張を解いた声だった。
早瀬はその変化を感じ取ってはいたが、藤田の言葉を聞き、抗議しようと視線を上げた。
(そんな勝手な――)そう言おうとしたのだ。
既に退役している早瀬にとって、いくら藤田と言えど強制することはできないはずだ。
しかし早瀬の視線の先に映るのは、うっかり忘れ物でもしたような恍けた老人の姿だった。
軍人の、しかも行政区を任される指揮官のそれではない。
(この人は……!)藤田の思惑を理解し、強張った表情で藤田を見つめる早瀬。
そんな無言の抗議も素知らぬ顔で、右手だけで早瀬を拝むようにして続ける藤田。
「悪りぃな、早瀬。 埋め合わせはするからよ、頼むわ」
元上官としてではなく、あくまで知人として、一人の人間としての頼みということだ。
しかし同時に、馴染みも深く恩も借りもある年長者からの頼みでもあるのだ。
早瀬は、この老人は自分がそちらの方が断れないというのを重々承知の上でやっていると分かっているから余計に言葉が出ないのだ。
苦々しく目を閉じ、一度深く溜息を吐き出して立ち上がりながら口を開く早瀬。
「わかりました。詳細は連絡を待ちます」
結局は藤田の思い通りになったわけだ。早瀬は指令室の出口に足を向けつつ、振り返らずにやや強い口調で釘を刺すように言い置く。
「一日、手伝えばそれでいいんですね」
武骨ながらも軍人らしく、特に年長者への非礼を嫌う早瀬にしてはぶっきらぼうな態度であるが、自分の為人を理解したうえでの藤田の言葉に対する細やかな反抗の現れだった。
司令官室の扉を無造作に開け、背中越しに軽く礼をしただけで早瀬が出て行く。
その姿を見た菱川は、あまりにも呆気なく帰ってしまう早瀬の背中と、磨かれた肘掛に手を置き、その背中を苦笑いで見送る藤田の顔を落ち着きなく交互に何度も見る。
「ああ、その……基地の出口まで送ってき――」
「はい!」
上官の言葉が終わる前に被せるように返事をし、物凄い勢いで退室する菱川。
「――なさい。 菱川」
言う予定だった言葉を、誰もいなくなった部屋で一応口にする藤田。
普段が必要以上に折り目正しい彼女だからこそ、早瀬がらみで取り乱す姿に愛くるしさを感じ、藤田の苦笑いは朗笑に変わる。
了解を口にする余裕さえないのに、退室の際には向き直って光の速さで敬礼をしていたのが何とも菱川らしいと思うのだ。
訓練や共同作戦を通じ何年も前から見知った仲の二人だったが、菱川は初めて訓練を共にして以来、多大な尊敬の念を抱いている。
菱川はキャリアであり、立場が全く違うため叩き上げの早瀬は困惑していたのだが、そんなことはお構いなく一方的なまでに敬愛している。
東方の小さな町が暴徒の襲撃を受け、早瀬の家族と街の住人数十人の命が失われたあの日から、ようやく一年が経過しようとしていた。
合同演習のため偶然東方を訪れていた菱川班は非常事態で応援に駆けつけていたが、既に到着していた班と共に生き残った住人の避難と保護を優先したため暴徒には手を出せずにいた。
やがて到着した早瀬は妻と息子の亡骸を目の当たりにし、制止する軍人たちの手を払い除け武装した暴徒十名余りをほぼ単独で殲滅した。
後に西方へ戻った菱川からの報告を思い出しながら藤田は考える。
(殲滅なんて言えば手短で聞きやすいかもしれないが、報告を聞く限り、あれは違う。言葉の意味通り一人残らず殺し尽くしたのだ)
射撃はもちろん、戦闘技術に於いて大概のことに秀でる早瀬だったが、中でも徒手格闘には型にはまらない才を持っていた。
だからこそ敢えて使うことを控えていた接近戦特殊兵装を装備し、全身に返り血を浴びた早瀬は最後に自らを殺そうとした。
身体を張ってそれを止めたのも菱川だった。
菱川が早瀬に対して持つ感情は、単なる憧れや好意だけで推し量れるものではないのだろうと藤田は思うのだった。




