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chapter2.15

 重い扉を押し開き、室内に入ったユキ。


 薄暗い室内は香と花のかおりに満たされていた。

 それらに紛れ、甘く感じられる木の匂い。


 扉から手を離し一歩進んでみると、排煙のためだろうか、薄暗い室内の上部に設置された横長の倒れ窓から差し込む光がひどく眩しく感じ、右腕で軽く目を覆う。

 背後では、低く軋みを立てながらゆっくりと扉が閉まる。肩越しに隙間なくぴったりと閉まった扉を見たユキは、まだ暗さに慣れない目を薄く開きながら正面に向き直る。

 数歩前にはまるで花壇のように供えられた、とりどりの花がある。

 花に視線を向けるユキの視界の左の片隅で、ささやかに揺らめく火。


 それを感じたユキは、花に注ぎかけた意識を自然と火に移し、引き寄せられるように揺らめく光に向かって歩き出す。

 室内には一歩、また一歩と僅かづつ早まるユキの足音と、小さく軋む音が柔らかく反響する。


 招くように揺らめく光に辿り着いたユキの前には、室内に灯された一対の蝋燭に照らし出されて輝く、艶のある黒い鉱石と、磨かれた断面に彫り込まれた父の名がある。

 言葉もなく立ち尽くし、ただ見つめる父の名。

 何度も心を乱し、焦がれることさえあった肉親。

 ユキは刻まれた父の名を見つめながら、落ち着いているようにも思える自分を不思議に感じる。


 もしも、もっと早くここを訪れていたとしたら、三咲組の人々と過ごした時間と経験を持たずに此処の存在を知り訪ねてきたとしたなら、きっと自分は取り乱し、泣きじゃくっていただろう。

 ユキはそう思いながら周囲を見てみると、鉱石が置かれているのが小さいながら、故人それぞれに設けられた祭壇であること気付く。

 何となく想像していたような厳かさや慇懃な飾り付けがあるわけではないが、それらは手入れが行き届き、物清く保たれている。

 

 蝋燭の横に置かれている線香の束が目に止まり、手に持ったままの鍵をしまってから手を伸ばし、一本だけ線香を持って蝋燭にかざす。

 静かに立つ煙を見ながら小さな線香立てに挿し、手を合わせてみる。

 作法も良く分からないが、そうするのが良いと思い、手を合わせて目を瞑る。

 心で父を呼んだり、何かを想うことはなかったが、本心では決して落ち着いているわけでもない。

 実感が持てないのだ。

 

 10年という年月を経て、父と同じサーヴェイアとなって、父も身に付けていたであろう黒地に橙のラインがはしるスーツ姿で旅をして、辿り着いて、今ここにいる。

 今、自分は何を想えばいいのだろう。そんな疑問がうっすらと浮かぶ。


 小さく息を吐き出し、合掌を解いて顔を上げるユキ。

 ユキは父との記憶を一つ二つと思い出しながら、再び刻まれた名を見つめ、多くの犠牲者と同じく惜しまれ、今こうして手厚く遇されていることに安心を覚えた。


 視線を下に向けると、祭壇の下に小さな鍵穴あがることに気付き、しまい込んだ鍵を取り出す。

 鍵穴に鍵を差し込み、回すとカチリとした手ごたえと共に錠が開く。

 祭壇の下は小さな引き出しになっており、引いてみるとそこには父の遺品がいくつか並べられていた。


 古びたハンドライト、皮のカバーのついた小さな手帳、そして傷ついた指輪。

 それらを見た途端ユキは小さく息を吸い込み、やがて吸った量の数倍を微かな震えと熱を伴って、ゆっくりと吐き出す。

 

 見覚えのある物。

 急激に感情を揺らす実感。

  

 父が身に付けていた母のものと対になる指輪、夜の部屋を照らしていたハンドライト、語る話が書かれていた皮カバーの手帳……小さな引き出しに納められたそれらは全て、父の生と共にユキの思い出の中に在った。 

 否応なく引き摺り出される記憶と、体温と匂いすら感じる生前の父の面影。


 何故か上手く動かない両手でゆっくりと手帳を持ち上げる。

(……もっと大きいものだと思ってたよ)


 記憶の中の父の手帳を思い出しながら、掌に収まる大きさの手帳を開いてみる。

 そこには、何時か父が語ってくれた冒険譚が、はしり書きで残されていた。 


 文字は歪み、まともに読めなくなったが、代わりに記憶の中で父の声がもう一度語ってくれた。

(……この狼の話し、怖かったな……。ああ、この池に落ちた話は面白かったよ)

 しゃくりあげることもなく、嗚咽を漏らすこともなく、ただ涙を流すユキ。


 捲っていたページが指から外れてしまい、乾いた音を立てながらパラパラと捲れた後、何かが挟まったページで止まる。

 幸せそうな笑顔をレンズに向け、切り取られた時間の中で睦まじく寄り添う親子。

 男性は女性の肩を抱き、女性は胸に幼子を抱きしめている写真だった。


 恥ずかしそうに笑う父と、屈託なく白い歯を見せて笑う母、一点の曇りなく満面の笑みを浮かべる自分。

 

(……ああ)

 顔も思い出せなくなっていた、遠い昔の記憶の母。


 父を亡くしてから過ごした施設に戻って、倉庫でユキの家から運ばれた荷物を探せば、きっと写真の一枚くらいはあるであろうことは分かっていた。

 それをしなかったのは、これ以上自分を惨めにさせないために、自分を庇っていたのだろう。

 思い出せないふりで、何処かわざと忘れることにしていた、母の姿。


(ごめん……母さん)

 本当は忘れてなどいなかったはずだ。

 その面影を追うことをできなくしていただけ。

 気のいい笑顔を浮かべる、綺麗な人だと思う。


 父は細面で優しそうで、照れたような笑顔に人柄を滲ませていた。

 そんな父に苦笑いを浮かべるユキ。

(……俺、父さんより母さん似かもしれないな)


 写真を手に取り、何気なく裏を返すと大きく書かれた父の文字が目に飛び込む。


――『愛する家族』 


 十年という年月。

 長いのか、短いのかは分からない。

 それでも、ユキは静かにひとつの区切りを迎えられたと実感した。

 

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