chapter2.06
幅広く、逞しい翼を持つ鳥が上空を流れる緩やかな風を捕え、二度旋回して折り返し、羽ばたくことなく北の方角へ飛んでいく。
「嘘でしょ……?」
無意識に口から出てしまった台詞。
霞夏は切り立った崖に慎重に近づき、姿勢を低く、立膝の状態でそっと下を見る。
つい先ほど鳥が旋回して見せたあたりの崖下へと視線を走らせると、そこには黒い人影がもうすぐ終わりを迎える岩壁との根競べに挑んでいる姿が映る。
黒地に橙のドライスーツにヘルメット、そして大型のバックパック。
もちろん霞夏も仕事で観測作業に従事する際はスーツを含め、標準的なサーヴェイアの装備となる。
だから今、壁に張り付く人物がどの程度の装備重量なのかは想像がつく。いや、野営をしながらの長距離移動ができる装備ならば、通常以上なのは間違いない。
粗い壁面を幾筋も縦にはしる亀裂と、それらが朝の光で作り出す陰影。
左方向から差し込む少し強くなってきた朝日に照らされ、上へ向かい手を伸ばし続けるサーヴェイアの姿に霞夏は思わず見入ってしまう。
ルートを見定めてハーケンを打ち込み、安全環を掛けて岩を掴み登る。次のハーケンを打ち込み安全環を掛けると、先のハーケンを引き抜き次のルートを見定める。
慎重な動作でそれを繰り返し、ゆっくりと、焦ることなく頂上へと確実に近づいている。
ときには大きな岩の裂け目に両手を差し入れ、重ねた手の握りで身体を固定して身体を屈め足をを裂け目に突っ込み、中で引っ掛けたまま両手を引き抜き岩を掴む動作までやってのける。
普通なら無謀としか思えないこんな動きを、落ち着き払った所作で淡々をこなす人物に、霞夏は驚き以上の感情を持つ。
見ていて信じられないと感じるのは、この険しく高い崖を登ってくることよりも、その危険な行動を見た自分が危なげなく感じてしまう落ち着きと安定感に向けられている。
そして恐らくは数時間、この崖に張り付いていたであろう、その集中力にである。
暫くの間時間の経過も忘れ目を奪われた自分に、縦膝の姿勢のまま肩を落とし悄然とする霞夏。
(これは、私なんかじゃとてもできない。……気力も体力も技術も敵わないってことか)
霞夏は自嘲を帯びた溜息を、自分に向けて零す。
上だけを見つめてひたすらに登ってきた人影は、間もなく頂上にその手を掛けるだろう。
霞夏はそっと首を引っ込め、ゆっくり立ち上がる。
(……どうしよう)
登ってきた人物と、どう接したらいいのかわからない。
サーヴェイアとして先輩であり、一つだけだが年齢も上の自分。
その自分が到底できないであろうことを、目の前でやってのけた相手が来る。
もう、ハーケンを打ち込む音は崖のすぐ真下から聞こえている。
霞夏は小さく後ずさり、踵を返すと一番近くの樹木まで足早に移動する。
「別に、迎えに来たわけじゃないし」
近くにいても聞こえないであろう、ヘルメットから漏れることもしないような小さな声で呟き、足を速める。
(私……何やってるの?)
太い樹木の幹に駆け寄り、隠れるように崖と反対側に回り込む。
「頼まれたわけじゃないし」
言いながら背中を幹に押し付けるように凭れかける。
(情けない、みっともない)
「別に案内しなくったって、ここまで来れたら街に着くでしょ」
凭れた背中を引きずるようにその場で膝を折って座り込む。
(……隠れたって、仕方ないのに)
思う本心と裏腹な言葉を呟き続ける自分に我ながら呆れかえり、溜息を吐いて目を閉じる。




