chapter2.05
この島で一番大きな街がある西方で、最も名の知れた観測企業である三咲組からの電話連絡が宮司家に入ってから四日目の朝。
霞夏は三咲組が所在を置く街から、遠く離れた北のこの地域へやってくるという新人サーヴェイアを一目見るために森林地帯へ入ったのだ。
迎えに来たつもりはない。そんな気になれないのだ。
父のことはもちろん尊敬しているが、霞夏にはもう一人憧れる人物がいた。
三咲組に所属し、西方はおろかこの島でも屈指のプロフェッショナルと呼ばれる野嶽 光圀。
特に森林地帯に関して野嶽以上に精通する者はいないと言われている。
知らないものが見れば、口数の少なさと厳しい顔つきが豪然たるの肉体と相まって、近づきがたい雰囲気を纏う壮年期の野嶽。
しかし相棒である一鉄の愛娘や、同僚の幼い子供たちに絡まれて困ったように笑う顔や、膝を擦りむいて泣いていた霞夏をどうしていいか分からず、怖々と抱きかかえて焦る姿は野嶽の本質と不器用さを表すようだった。
霞夏は父が所属していた頃、何度も遊びに行って可愛がってもらった記憶もある。
古参でありながら、今も現役第一線で活躍を続ける野嶽に弟子入りしたがるものは多いだろうが、実際に指導を受けられたものはあまりいない。
霞夏もまた、研修と言う名目で三咲組を訪れながらも、直接指導を受けることが叶わなかった一人なのだ。
そんな野嶽が観測助手ではなく、自分に追随させて直接指導を施した17歳の駆け出しサーヴェイアがこちらに来るというのだ。
霞夏は正直、嫉妬している。お門違いなのは本人も承知している。
宮司家が守る墓を訪れるということは霞夏にとって、あの大事故で大切な誰かを失った者同士でもある。
この大森林を徒歩で、しかも単独で旅してくるというのだ。心中は察するに余りある。
そして同じく森林地帯での活動を得意とするサーヴェイア。おまけに年齢も近い。
霞夏はそんな人間を温かく迎えてやることもしようとしない自分を心で罵る。
(……一体どんなヤツだろう)
低い姿勢を保ったまま、微かに草を揺らす音以外は殆ど音を立てずに移動する。
身を隠しているわけではないのだが、山深く野生動物が比較的多く生息するこの地域では常に警戒が必要だ。
その身のこなしはサーヴェイアと言うよりも獲物に迫るハンターのものに近く、柔軟で力強い足腰、更に軽量化したスーツであることを差し引いても俊敏である。
霞夏の視界の奥に見えているのは、自分の移動する大地が急激に途切れて遮るもののない空。
地殻変動で裂けて隆起してできた崖の淵に近いのだ。この付近はまだ観測が盛んではなく、正確な高さはよくわからないが、目視でも数十メートルはあるだろうことを知っている霞夏は移動速度を落とす。角度も険しく切り立った崖はもはや渓谷と呼んでも差し支えないだろう。足を踏み外して転落でもすれば怪我では済まない。
霞夏にとっては自分の行動範囲であり、庭のようなものだ。この崖の危険も、沈む夕日が崖下の森をどれだけ美しく彩るかもよく知っている。
霞夏は崖を東に迂回して森を抜け、坂道を下って崖下へ回るつもりだ。そうすれば恐らく目的の人物が通るであろうルートに先回りして待つことができる。
もしも仮に別のルートを移動していたとしても、霞夏にはそれを逃さない自信があった。
現場に出て半年程度の新人ならば、単独で移動しながら野営を繰り返し、出発して四日目の午後までにこの地域に辿り着ければ大したものだと言える。
危険地帯と呼ばれるのは伊達ではないのだ。普通ならば自殺行為にも等しい。
しかし三咲組と、何よりも野嶽がそれを認め、ここを徒歩で訪れると言うのだ。
(きっと、私なんかよりずっと優秀なんだろうな……)
まだ時刻は早い。少し行動開始が早すぎただろうか。
もう少しゆっくり移動しようかと考えていたその時、右手の上空から鋭い鳴き声が空に吸い込まれ、崖下に響いた。
思わず足を止め、弾かれたようにその方向に視線を向ける霞夏。
林を完全に抜け、樹木がなくなった岩場から見る上空には、声の主である幅広な翼を持つ鳥が旋回しているのが見えた。




