chapter2.02
(少し遅くなったな)
予定よりも遅い野営の準備。
ライトを手元に置き、バックパックから手際よく野営に必要ないくつかの道具を取り出す。
手ごろな大きさの石をいくつか使い円形に組み上げ、拾ってきた数本の枯れ枝のうち、一本を除いて適当な長さに折って円形の中に櫓状に置くと、残った一本の枝を手に取り岩に凭れて座り込む。
ナイフの背を擦りつけて、細かい木屑を削り出して折った枝の下に集めると、バックパックから取り出しておいた、棒状に加工されたマグネシウムの塊を同じくナイフの背で軽く削ぐように動かすと、弾けるように大きな火花が飛び散り木屑に火種を産み付けた。
軽く手で扇ぐだけで火種は広がり、枯れ枝を炙りはじめる。
ユキは火が燻りはじめた枝を確認すると立ち上がり、周囲から枝を集め始めた。苔に触れ湿っている枝はその場で折って捨て、乾燥した部分は火の近くに放って集めていく。
(……さすがに腹減ったな)
腰を伸ばし、多少大きくなった火にあたりに戻るユキ。
細めの枝を折って数本放り込むと、慎重に周囲を伺ってからヘルメットを外す。
ユキはまだ少年と言ってもいいであろう17歳。
少し長めの髪、顔つきの割に幼さを感じさせない黒い瞳には、まだ小さな揺らめく火が映る。
息を吹きかけて更に火を大きくし、適度に枝を足しながら、周囲の静寂を耳と目で確認する。
鈴の音と低く響く梟の声。周囲は平静を保ってくれているようだ。
枝が豊富にあるので、消える心配はないだろうと感じたユキはバックパックのポケットの一つから小さなケースを取り出し、ブーツとインナーソックスを脱ぐ。
ケースの中からワセリンを染み込ませた小さなガーゼを数枚出し、踵に塗り付けていく。
過酷な移動による靴擦れ防止のためだ。塗り終えたガーゼを火に放り込むと、火はゆっくりと勢いを増し、徐々に炎になる。
ワセリンは適度な水分を保持してくれるため、肌に塗れば擦過防止に役立ち、火傷を始めけがの応急処置にも使える。更に石油由来のため、焚きつけの代用にもなる便利なものだ。
更に枝を追加してから、手早くブーツを履き直す。危険地帯での装備解除はできる限りするべきではないのだが、無理をしている分ケアも大切だ。
二日目である昨日は小さな川をいくつか渡ってきたので、スーツを脱いで手早く身体を洗うことができたが、今日は岩場と森ばかりで水場自体にありつくことができなかった。
予備を含め水筒の中は残り少ない。
ユキはバックパックから出しておいた、直径10㎝ほどの長い円筒を大よそ中間にある継ぎ目から、手で瓶の蓋を開けるように回転させて緩め、外した下半分の円筒のから小さな手鍋へ水を移す。
これは病原菌や大腸菌群を除去することができる0.3μの浸透フィルターと活性炭、珪藻土等の様々な助剤からなるカートリッジタイプの濾過装置である。
円筒上部を開けて水を入れておけば、濾過された水がフィルターを通過して取り外すことができる下部の円筒に貯めておける。
本体は嵩張るうえ濾過にも時間がかかるが、長時間の森林地帯活動ではなくてはならないものだ。
薄い金属で補強されたその円筒の中には、川の上澄みを慎重にすくって満たしてきた。
秘境とも呼ばれる山深い森の上流域の渓流とはいえ、澄んだ沢や湧き水と違い体調を崩す可能性を考えるとそのまま飲料水にするのは気が引けた。
森林地帯での活動に精通している者なら手製で濾過器を作ったりもするだろう。いざとなれば僅かに携帯している漂白剤で消毒する事もできるが、狂犬病や破傷風、その他考えうる感染症に対する予防接種を定期的に受けていても、すぐに拠点に戻ることができない環境で油断はできない。
ユキは屋外行動用のバーナーに火を着け、小さな鍋で貴重な水を煮沸する。
焚火でこれをやるにはいろいろと面倒なうえ、道具は煤で汚れる。更に水を零してしまっては死活問題だ。
火からは少し距離を置き、スーツの数か所に付いている小さなバルブを少しだけ緩めて内部に空気を入れる。
量的に心細い水を身体を拭くために使うことはできないため、せめて空気を入れ替えるためだ。
危険地域で活動する者が着用するスーツは特殊な繊維が織り込まれ、耐擦過性に非常に優れ、完全防水であるため通常着用時は身体にフィットしているが、着用者の体温で内部の温度を維持するためバルブを緩めることによって外気を取り込み温度を調整できる。
このバルブは水没時の浮力を調整する事もできるのだが、ユキはそのために使ったことは殆どなかった。
丈夫にできている分、身体にフィットしていない状態だとかなり動きにくくなるが、スーツの内部に入り込んだ空気が熱を帯びたままの身体に心地よかった。
辺りに注意を配りながら、煮沸の終わった湯を冷まして匂いを嗅ぎ、少し飲んでみる。
明日の飲み水も何とか確保できたことにほっとしながら水筒に戻しておく。
ぐう。と切なそうな音を立てるユキの腹の虫。
水分を飲んだせいか、身体が急激に食料を欲してきた。
本来なら、食事の前にもう少し太い枝を集めて手斧で薪を作っておきたいのだが、さすがに今日は後回しにしようと決める。
どんな状況でも腹は減り、食事はやはり一日に数回の楽しみである。
傍らのバックパックから小さな金属製ケースをいくつか取り出し、一つの蓋を開ける。中にはビスケットが入っている。
一枚口に放り込み、固い歯触りを楽しみながら他のケースも開けていく。
ナッツ類を豊富に入れて作られたとても甘いキャラメルがあるのだが、ユキはこれが楽しみだった。
一度水筒の水を口に含み、ビスケットを飲み込んでからキャラメルを頬張る。
ナッツの歯触りと少し柔らかくなったキャラメルが混ざり合って口に広がる。
糖分と脂質を同時に補給することができる高カロリー食。
野営行動食として非常に優れているものの一つだ。
そして甘さという味覚は、緊張に擦り減った精神を慰めてくれる。
更に何枚かのビスケットを食べ、水を飲むついでにビタミン剤も飲んでおく。
ビタミン剤はもちろん別だが、それ以外は全て三咲組の社長である、三咲 一鉄が危険地帯に赴く社員達のために作り、常にストックしている。
落ち着いたところで、塩漬けの干し肉をナイフで少しづつ削ってよく噛んで食べる。
ミネラルは消耗が激しいためいろいろな形で補給したいが、脂質は動物を捕獲して食料とするのは実は野営食や行動食には全く向いていない。
兎や鳥なら、銃を使えば狩るのはそれほど難しいことではない。
糞や足跡などのフィールドサインや巣を探し、視界に入らない場所を確保して身を潜め、長時間張り付いて警戒を解いたときによく狙えばハンターではないユキでもどうにかなるだろう。
しかし余程の状況でない限りそれはしない。
一時的に胃袋を満たすことはできるかもしれないが、捕獲に時間をかけ、血を抜いて皮を剥いで内臓を取り除くなどの処理をし、病原菌や寄生虫に対する衛生のために水で洗い、更に下ごしらえをして焼いて調理して食べる……ことになるのだろうが、結局のところそれほどの時間と労力を費やすような利益はない。
脂質はカロリーが高く、満足感はあるだろうが消化と吸収に多くの水分が必要なため、水が豊富に手に入る環境以外では水の補給に縛られる。
水が手に入らなかった場合、水分の摂取欲を抱えたまま行動し、渇きに苦しむだろう。もちろん安全な水が手に入るとは限らない。
仮に果実が手に入っても、それだけで満たそうとすれば、それなりの量が必要だ。
当然どこにでもあるわけではないので、採れるときに採っておこうとすれば荷は重くなり、口に入る量が増えればその分排泄の頻度も上がる。
そして無駄に時間を浪費し危険を増やす。
無用な殺生を好まないのも理由の一つではあるが、野生環境に拠点を設営して一か所で長期滞在でもするのでなければ、野生の物を口にするということは、相応の覚悟が必要な行動だ。
リスクと時間と労力を減らすことで、生存と目的達成の可能性を上げる。
そのために必要な膨大な知恵は、偉大な先人たちの犠牲と経験からから受け継いだ形のない宝とも言えるだろう。
逞しい肉体にエプロン姿の一鉄を思い出すユキ。
とりあえずは帰ったらキャラメルの作り方を教えてもらおうと心に決める。
高く見上げる天に浮かぶ、鋭い鎌のように輝く月を見ながら、ユキはもう一つキャラメルを口に放り込んだ。




