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見覚えはあるが見慣れない、薄暗い静かな部屋で目を開けるユキ。
(ここどこだっけ?)
無意識に体を動かそうとするが、無意識に入る力だけでは体の何処も言う事を聞かず、結局諦めてしまう。
スーツは身に付けていない。危機は去った。それだけは間違いないようだと思いながら、視線であたりを見渡す。
目の前にある庭に向け開け放たれた障子と、その手前に置かれた低く大きな欅のテーブル、少し曲がった壁の時計、そして自分が横たわる、深く沈みこんだ柔らかいソファで、今居るのが三咲家のリビングであると分かる。
月の明かりが差し込む薄暗い部屋には、時計の針の音だけが聞こえる。
(静かだな、皆どうしたんだろう)
何とか体を動かそうと身をよじると、頭の下で肌触りのいい感触がもぞもぞと動く。
「んー……、ユキ起きたの?」
眠そうな結花の声の聞こえる場所と頬の感触で、ようやくソファに座る結花の腿を枕にして横たわっている自分に気づく。
結花は一葉から借りたらしいショートパンツで、ユキの頬には生足が当たっている。
焦って起き上がろうとするが、足も背中も腕も、全身の筋肉が動作の命令を痛みで返す。
「なにこれ?」
結局自分の口から思わず出た台詞に一人勝手に納得する。
この状況にも、役に立たない自分の身体にも、端的で無駄がなく、的を得た疑問。
「まぁまぁ、ゆっくりしていきなよ」
静かな部屋で、もう聞きなれた結花の声が耳に残る。
穏やかに、呟くように話す言葉に安心を覚えるユキ。
(ああ、やっぱり終わったんだ。良かった)
『良かった』と思った自分を咎めるように、脳裏に焼き付いた検問の記憶が過る。
きっと忘れられそうにない地獄の風景。忘れてはいけない。犠牲は、あったのだ。
結花たちがそれを目の当たりにすることがなかったのが、せめてもの救いに思えた。
そんな気持ちを口には出せず、誤魔化すように結花に説明を求める。
「父ちゃんと一鉄のおっちゃんとコタローさんは病院。三咲ん家の人たちをを連れて行ったんだ。……軍の人たちもたくさんだったよ」
ユキは相槌を打ちながら、唇を噛む。せっかく穏やかだった結花の声が小さく曇ってしまった事が残念だった。
「野嶽のおっちゃんはスーツ着てなかったから――」
「そうだ! 大丈夫なのか?」
気を失う前に見た野嶽の肩は真っ赤に染まっていたのを思い出すユキ。
「骨は何ともないって。おっちゃんはかすり傷だって言ってたけど……」
ユキはますます悄然とする結花の声に自分を情けなく思う。
「俺、気を失ってばっかりだな。もっと――」
「そんな事はないよ! 皆言ってた。ユキがすごく頑張ったって」
(俺、結局動物と森を走ってただけな気がする……)
そこまで考えたユキは思い出して結花に聞いてみる。
「ニナは?」
「ニナは八重樫の爺ちゃんのとこだよ。大丈夫。疲れただけだって」
「そうか。俺、ニナに無理させちゃったな……」
「でも! 皆ちゃんと帰ってきたよ。本当に良かった!」
そう告げる声は明るく、ユキを元気づけようとする結花の意図が感じられる。
(いつもこうなるな)
いつまでもこうしているのもどうかと思い、立ち上がろうとするユキを押し戻す結花。
「ほらほら、せっかくのご褒美なんだから、有難く頂戴したまえ」
「これ、ご褒美だったんだ」
「何だよ! 失礼なヤツだな。喜ぶ殿方もいるって!」
いつもの調子に戻った結花は楽しそうに笑う。
ふっと覆いかぶさるように影ができたのを感じ、視線を天井に向けると、結花の唇が近づいてくる。
「それとも、もっとご褒美が必要かね?」
小さな声で耳にくすぐったく残る結花の声。悪ふざけの口ぶりで迫ってくる結花だったが、ユキは動かない。
(え、嘘?)と思いながらも、冗談ではない事を期待する気持ちがある自分にも驚くユキ。
結花は自分と目を合わせ、狼狽えていないように見えるユキに期待外れと感じながらも、近づいたユキの瞳から目を逸らせない。
二人の間には今までにない距離感と感情があり、互いの鼓動と、吐息の熱を感じるほど近づいている。
「おーい! 飯買ってきたきたぞ!」
玄関を無造作に開け放つ音と無遠慮な稲葉の声。
我に返り、反射的に動こうとして呻くユキと、テコのように身を起こす結花。
エンジン音が聞こえていたはずだが、全く意識になかった二人。
「おお、ここにいたのか。明かりくらいつけろよ」
リビングに入ってきた眼鏡をかけた稲葉が見たのは、爆笑するユキと結花の姿だったが、例え稲葉の視力が良かったとしても、薄暗い部屋で耳まで真っ赤になっている二人の顔色までは気が付かなかっただろう。
結花の膝枕で腹筋を押さえながら苦しそうに笑うユキを見て、稲葉は舌打ちをしながらリビングに入ってくる。
「おーおー。お前らまでイチャコラしちゃってよー」
ユキは少し慌てたが、結花は全く動揺することなく稲葉に返す。
「そーだよ、コタローさん。邪魔しちゃダメだって!」
「あー、そりゃ悪かったね」
興味なさそうに照明のスイッチを付けようとするが、結花に止められる。
「コタローさん、虫が入るよ。消しといて!」
あーはいはい。と答えながら台所につながる廊下に向かいながらユキに声をかける。
「ユキ、動けるなら一葉ちゃん呼んで来い。検問で瑠依ちゃんと一緒にいるから」
「はい」
自分ばかり休んではいられないと思い何とか体を起こすユキに、先に立ち上がった結花の両手が差し伸べられる。
無言でその手を取り膝に力を入れ、どうにか立ち上がったユキの右の頬に柔らかいものが触れた。
痛みに耐えて目を瞑っていたユキだったが、何が起こったのかは理解できているつもりだった。
未だ薄暗い部屋で、呆然と結花の唇と吐息の名残を感じ、右手で頬を押さえる。
「あーびっくりした。ああいうタイミングってホントにあるんだねぇ」
結花はもうユキの背後の廊下の入り口まで移動しており、そこから声が聞こえる。
その声は何事もなかったようにいつも通りで、ユキは気のせいだったのかと思うほどだったが、いつもと変わらないはずの結花の目は以前よりも真っ直ぐにユキを見つめ、表情は柔らかく女性的に感じてしまう。
結花を完全に異性として意識させられてしまったユキは、平然としているように見える結花に敗北感のような物を感じつつも、誤魔化すように玄関に向かう。
(やっぱり、好い反応するなぁ)
実際、本心では決して平然とはしていない結花だったが、俯いてそそくさと部屋を退散していくユキに対しては、細やかな加虐心を覚えてしまうのだった。




