番外編11
霞夏がニナを伴って三咲家のキッチンへ戻って来る。
少し遅くなってしまったが、霞夏と共に三咲組を訪れている相棒の熊鷹 弥七に夕食を与えるため一度中庭に出ていたのだ。
弥七は森の動物たちと同じく、ニナと心を通わせることができるらしく彼女の前ではとても穏やかだが、ユキに対する弥七の対応は相変わらずである。
「お疲れー。用意できてるよ」
結花の言葉に喜ぶニナは霞夏と手を洗い席に着く。
普段なら三咲家のリビングで食事をとるユキと霞夏だったが、今日は女性二名の酒宴の席になっているためキッチンの作業台をテーブル代わりに4人で食べようということになったのだ。
セクシーチキンは結花の提案でローストチキンに変身を遂げ、豪華な一品になった。
「うわー! こんなの家で出たことないよ。すごいな結花!」
「いや、霞夏ちゃんの刺身の方が余程すごいと思うよ。あれをやられたら敵わないわぁ。ね、ニナ」
「はい、できる女です!」
ニナの微妙な褒め言葉に大喜びの霞夏。ユキは一時はどうなることかと思っていただけに、たくさんの料理が並ぶテーブルを前に感慨深そうにしている。
誰かともなく、腹の虫が切なそうに声を上げる。全員が自分かと思い、手を腹に持っていきかけて笑顔を交わした。
「よーし。それじゃぁ食べようか!」
全員で手を合わせて「いただきます」と口にする。
普段からこんなことをしているわけではないが、今日ばかりは自然に出てしまったようだ。
苦労の末ありついた豪華な夕食は会話も弾み、とても楽しい時間となった。
場面は再び、四年前の東方。
格技場内では、菱川の動揺しきった声だけが聞こえる。
「あ、あ、ああぁぁ……!」
早瀬と密着した自分の状況に、一気に嬉しさと恥ずかしさに全身を支配されて茹で上がったような顔色の菱川。
そんな菱川を気に掛ける余裕もない早瀬は、一秒後に死にかねない状況を生き延び、全身から堰を切ったように汗が流れ、力が抜けそうになるのを堪える。
軍に長く籍を置く身として、死を意識したことは何度もあったが、ここまでの危機感に身を晒すのは久しぶりに思えた。
「……いいか、この技は実用的じゃない。絶対もうやるな。あと、その得物は訓練で人に向けるな。死ぬだろう」
この頃から既に菱川が早瀬に対して抱く気持ちは傍から見ても充分に分かる。しかし今の彼女は俯いて動けない乙女のように見えるかもしれないが、ヘルメットの中の本人は、ちょっと鼻血が出ていた。
「は、はいぃぃぃ~!」
(全く、ちゃんと聞いてるのか?)
上の空の表情で裏返りそうな声の返事をする菱川の手に、例の黒塗りが握られていないことに気付いた早瀬。
必死だったため気している余裕もなかったが、格技場内が凍りついたように静まっているのを意識しながら、恐る恐る視線を背後へ送る。
そこには格技場の分厚い壁に突き刺さったままの黒塗りと、近くで腰を抜かしたようにへたり込んだ数名の部下がいた。
早瀬に抱き寄せられ、突沸して蒸気が噴出したように赤くなる中、菱川の手をすっぽ抜けて飛び、そのままとんでもない勢いで壁に突き刺さったのだ。
「……全員、無事だろうな?」
部下たちの安否を確認し、ようやく息を吐く早瀬。菱川と密着したままだったことを今更思い出し、慌てて身体を離すが、当の菱川はより一層赤さを増し、くったりと動かない。
きゅ~……、と妙な呼吸音を漏らす菱川を見た部下の一人が、苦笑いで早瀬に言う。彼は西順の一件で菱川に手を貸した兵である。
「また、とんでもないのに好かれたもんですなぁ」
「……冗談やめてくれ、身が持たん」
賑やかな店内で、ここまでを聞いた稲葉が、思わず口を挟む。
「何だよその剣呑なノロケ話は! 物騒すぎるわ!」
「そう聞こえたのか? 肝心なのは俺の部下たちが菱川の技に名前を付けだしたことだ。ちなみに壁に刺さったカーボンスチールは対戦車榴弾と言うそうだ」
「はぁ? 何か話題逸れてないか?」
「いいや、逸れちゃいない。何せそれから暫くして、あいつの技は一つ完成している」
意気揚々と東方の営庭に入ってきたスーツ姿の菱川が、早瀬を見つけると駆け寄ってくる。もちろんその手には、黒塗りのカーボンスチールが既に握られている。
「早瀬さん! 今日もよろしくお願いし――」
菱川の手にある黒塗りを忌々し気に見る早瀬。
前回見たときよりも輝きは鈍く、傷も散見されるのは、菱川によって使い込まれているということでもある。
「待て待て待て……! それはもう訓練で使うなと言ってあっただろう」
「しかし、個人訓練でこれを使う想定で必殺技を編み出しまして、早瀬さんなら大丈夫かな、と」
「今『必殺』って言ったか? 一体お前は俺をどうする気なんだ?」
菱川の言葉に反応し、やや喰い気味で問いただす早瀬。
「そ! そんな! まだそこまでは考えてないって言うか……」
片手で目を覆い、頭を抱える早瀬と、早瀬の言葉にいとも簡単に顔を赤らめ脱線する菱川。
噛み合ってはいないが、あまり言葉数の多い方ではない早瀬と生真面目過ぎる菱川は、いつの間にか互いに立場を度外視する信頼関係となっていた。
「どうしてもそれを使うと言うなら、俺ではなくあれにやってみろ。技の講評くらいはしよう」
早瀬が必要以上に大事な部分を強調して伝え、自分の背後に向かい親指で示すのは、鉄骨の骨組みに古くなったヘルメットと軍用スーツを着せ、内部を砂で満たしたダミー人形だ。
徒手格闘の訓練や、急所の説明などに使われる。一応ファイティングポーズなどとっおり、セメントの土台に太い鉄材の支柱が立てられ、それに固定されている。もう何年もそのままで、内部の砂はすっかり固まり、石のような硬さがある。
「え~……」
あからさまに不満そうに早瀬をチラチラと見る菱川。
「今回は連日ぶっ倒れるまで練習したのに……自信あるのに」
「だったら余計に、だ! 何のための練習だ? それは一体何をする自信だ?」
菱川の言葉に微かに目元をヒクつかせて答える早瀬。
一向に折れてくれない早瀬の態度にようやく諦めた様子の菱川は、営庭の隅に設置されたダミー人形の前に立つ。
間合いを整え、精神統一をする菱川の様子を見ながら早瀬は少し間を空けてダミーの背後に回り、ダミーを挟んで菱川と対面するように立ち位置を変て両腕を組む。
評価をすると言った以上、より技を見やすくするためにだが普通なら気が散ってしまうだろう。しかし早瀬は菱川の集中力は高くかっており、これくらいでミスを犯す事はないと考えてのことだ。
距離は開いているものの早瀬もダミーを己に見立て、手合わせしたときと同じようにその技と対峙しようと集中力を高める。
全ての準備が整った菱川の瞳は迷いなく対象を見据え、表情は自信に満ちて力も入っていない。
あの日見た切羽詰った雰囲気は、いつの間にか影を潜めていた。
「いい表情をするようになっ――」
理由はともかく余計な力が抜け、いきいきとした顔の菱川を見ていた早瀬だったが、土埃を舞い上げ軽く数歩分を一瞬で踏み込み、吸った空気を吐き出すまでに、嵐の如き三連斬り。最後に振り上げられた黒塗りは両手で柄を持つ菱川の頭上を制御しきれていないであろう勢いで通過する。
しかし、胸を張るように反り返る菱川の身体は、決して体制を崩さない。
次の一瞬に目を見張る早瀬。
菱川は自分の背後に回った切っ先を右の踵で蹴り上げ、気合いもろとも背負い投げのように黒塗りを振り下ろす。
菱川が肺に残った空気を鋭く吐き出す。同時に営庭に吹いた風が、舞い上がった土埃を散らしていく。
後に残ったダミー人形はファイティングポーズなど見る影もなく、右肩から胸部中央まで陥没して右腕を地面に垂らし、脇腹から不自然な角度で折れ曲がり、左大腿部を斬新な角度に変えられている。
そして最後に放たれた大上段からの振り下ろしはヘルメットを空気の抜けたボールのように叩き潰し、割れたバイザーからは大量の砂が地面に流れて落ちていた。
「どうでしたか? 早瀬さん!」
ヘルメットを脱いで振り返り、今までで一番の笑顔を早瀬に向ける菱川。
組んだ腕を崩すこともなく強張った表情を崩さない早瀬は、やや青ざめている。
そして、何が起こったかすら理解できなかった早瀬の部下たちは、ほんの数秒で廃棄処分となり、どんどん砂が抜け出て人の形を失っていくダミー人形を見て、慄きながら口々に呟く。
「……そして兵士たちの呟きのまま、その技は『処刑』と名付けられた」
笑い声の絶えないパブの片隅で、対面で座る早瀬と稲葉。
そこだけ空気が滞るように息苦しく、うすら寒さすら感じる。
菱川をからかう度、何度も凄まれては言われていた台詞は、彼女が自分にその技を使うぞ、という意味だったらしいと気付いた稲葉。
目を見開いて早瀬の台詞を聞いた稲葉は、それはもう蒼白と言うにふさわしい顔色だった。