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1.

 調子に乗って飲み過ぎた。

 電車にいるうちかららじわじわとこみ上げて来ていた吐き気をどうにか抑え切り、オレは公園のトイレに辿り着く。人様に迷惑をかけまいの一心でここまで持たせた理性を、今は(たた)えてやりたいと思う。

 個室のドアを閉じるなり、和式の便器に吐瀉(としゃ)をした。数十秒はたっぷりえづいて、それからやっと人心地を取り戻す。

 焼けるような痛みが食道にある。この時ばかりは今後酒を控えようと思う。

 しかしそれもどうせ一時の事。まさに喉元過ぎれ熱さ忘れる、だ。

 どうせサークルの仲間に誘われれば、またほいほいとついていって深酒をするだろう。今まで幾度同じ後悔をしたか、数え切れるものではない。


 一息ついて腕で口元を拭う。口中の感触はよろしくないが、嘔吐(おうと)感は去っていた。

 近場の自販機で水か茶か、とにかく口をすすげるものを買おう。少し酔いが醒めた頭で思いながら水を流すと、そこで改めて公衆トイレの刺激臭が鼻についた。

 この公園は、家から最寄の駅までの直線経路上にある。だからここに公園があるのも手洗いが設置されているのも、通学途上に眺めるともなく眺めて知っていた。知ってはいたが、薄汚れた建物が(かも)し出す薄暗い雰囲気の所為もあって敬遠していた。

 だからここを利用するのはこれが初だった。そして最後にしたいとも思う。

 正直言って臭い。度を過ぎたアルコールとは別の理由で吐き気がこみ上げてくる。


 とっととおさらばしようと向き直る視界を、何かが()ぎった。

 疑問を覚えて視線を戻す。

 するとそれは個室の横手、しゃがみ込んだ姿勢を基準に表現するなら左側面の壁に貼ってあった。

 大きめの、古びて黄ばんだ和紙に短く、


『上を見るな』


 そう、記されていた。

 記された紙こそ古びてはいるが、書かれた文字はここの雰囲気に似つかわしくない、達筆な毛筆だった。

 個室の壁面には風俗関連の広告が色とりどりに貼られ剥がされの痕跡を晒している。だからもしこれが色鮮やかな広告であれば、捨て目に留まる事もなかっただろう。シンプルな手書きの文字だからこそ、逆に目を引いたのだ。


 確かカリギュラ効果と呼ぶのだったか。禁止されればやりたくなるのが人の(さが)だ。

 おそらくこの手書きを見た誰もがするように、オレもついつい頭上を見上げてしまった。

 だがそこにはうすぼんやりした電灯が、羽虫にたかられながら瞬くばかりだ。ひょっとしたら古典的にも天井に「ザマァミロ」などと書かれているんじゃないかと思ったが、その手の悪戯ですらないらしい。


 ならこれは一体何の注意書きなのだろう。

 (いぶか)しく感じはしたが、長考するには場所が悪すぎた。思考を巡らすのは後にして、俺は個室を出る。

 手洗いを済ませ、ハンカチを取り出そうとポケットを探る。

 その瞬間、ふっと周囲が暗くなった気がした。


 オレは思わず動きを止める。

 下方に向けた目ではしかと確認できないが、電灯が切れたわけではない。床は相変わらずうすぼんやりと照らし出されている。

 なのにどうして、どうしてこんなにも世界が暗く見えるのか。どうして、オレは身動きひとつできなくなっているのか。

 理由はわからない。わからないまま、オレは木偶(でく)のようにただ(すく)む。

 空気が固形化したようだった。喉がからからに乾いてで声が出ない。

 そこだけ冷静な頭の隅で、捕食者に狙いを定められた草食動物が、丁度今の俺と同じ心地を味わうのに違いないなどと考える。

 そのまま、どれくらいが過ぎたか。


 ず。


 鋭敏になった耳が、小さな音を拾った。背後から、最前利用した個室の方からだった。


 ず、ず。


 這いずるような、引きずるような音。

 わずかなりとも身じろぎしたら、その途端不可逆の反応が起こりそうな気がした。オレは目だけ上げて正面、手洗い場に備えられた鏡を見る。

 鏡面を覗けば背中側の状況が分かるだろうと思ったのだが、そんな事はなかった。鏡が映すのは蒼白に引きつったオレの顔と薄暗い便所の景色、それだけだ。それだけで、他には何もない。

 なのに。


 ずず、ず。


 音が聞こえる。かすかだが、確かに。

 何かが、いる。

 濃密な気配の他は、息遣いも何もない。だが分かる。

 それはじわじわとオレに、オレの頭上ににじり寄ってきていた。

 そう。それはおそらく鏡による視界の死角、天井の側にいる。そこを這ってきている。そこに、やって来ている。


 ずずず、ず。ずず。


 呼吸が荒くなる。まるで全力疾走の後のように、心臓は激しく早鐘を打つ。

 何だ。何がいる。そこに一体何がいるんだ。


 ず。


 音はオレの真上で止まった。

 一秒。何も起こらない。

 二秒。何も起こらない。

 三秒。何も起こらない。

 四秒。何も起こらない。

 五秒。限界だった。

 恐怖に負けてオレは天井を振り仰ぎかけ、そして天啓(てんけい)のようにあの警句を思い出した。


 ──上を見るな。


 ぎりぎりで(こら)えた。

 堪えて、オレは走った。外へ。明るい方へ。とにかく人通りのある方へ。全力で逃げた。

 音は追ってはこなかった。

 だがもし上を見ていたら。その正体を見ていたら。

 オレはどうされていたのだろうか。どうなっていたのだろうか。

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