追跡行
愛しがいのない兄だった。
ガランと空いたバスの一番後ろの席。山田加奈子は、携帯の留守番電話サービスに保存された兄拓也の、救いを求める鬼気迫った声を何度も聞き直しながら、兄との遠い思い出について回顧していた。
加奈子は、小さい頃から、三つ違いの兄が大好きだった。束縛を嫌う、自由奔放な性格。それが身勝手なだけだと分かってからも、加奈子の兄への執心は変わらなかった。理由などなく、あばたえくぼ式に、明らかにろくでもない点ですら、魅力のように思えたのである。それは、二十四歳になって、死んだ両親の遺産を全て兄がさらっていった後でも、変わらなかった。
その兄の家を、二日前訪ねた時、兄は不在だった。加奈子よりもカメラが好きな拓也は、大抵現像作業の為と言って家に居るのだが、その日は一時間ほど中へ入って片づけをしていても、全く帰ってくる気配がなかった。結局日付が替わった頃になって電話を掛けても出なかったので、どこかに旅行にでも行っているのだろうと思って自宅へと帰ってしまった。その次の日、朝の四時頃に兄が残したメッセージを聞いて、加奈子は血相を変えたのだった。
本気を出して調べれば、兄の足取りを掴むのは簡単な事だった。兄の家に残された旅行パンフレットに書かれた帰還日に、加奈子は兄の帰り着くべき家で待ち構えた。しかし、一向に帰ってこない。
(何かあったのかな?)
例の兄の残したメッセージの事もあって心配が極に達し、兄の帰宅予定日の翌日、加奈子は警察へと相談した。警察の対応はどこか仰々しく、奥から端正な身のこなしをした男が出てきたと思うと、そのメッセージを録音させて欲しい、と丁重に頼まれた。それでいて何も教えてくれない警察に、加奈子の持前の直感が、事件性を感じ取った。
兄が残した旅行パンフレットの会社に問い合わせても、末端の事過ぎて分からないと言い訳にもない理由を伝えられるばかりで、ろくな答えが返ってこない。尚の事疑念を生じさせられた加奈子は自らその島へ向かおうと、レンタルビデオ店を営む彼女が得た漁民の得意様に、これ以上ないほどに頼み込んで港から島への交通手段を貸して貰う約束を取り付け、その当日、港へ向かうバスへ乗った。拓也が港へ向かった日から、十一日が経った時だった。
(絶対、何かあったんだ)
加奈子は、携帯電話とパタ、と閉じて、そう確信を強めた。何度聞いても、その真に迫った声が、兄の戯れによる物とは思えない。兄は昔から訳の分からない行動をする事があったが、悪戯をする事はなかった。そう加奈子は回想し、そして、今尚、兄が危機にあるのだとしたら、救ってやらねばならないと決心した。バスから海が見え始めると、その心はより強くなっていくようだった。
終点の港前駅で降りたのは、加奈子一人だった。運賃の二百八十円を、ここぞとばかりに意味もなく溜め込んでしまった十円玉で支払って、運転手の嫌そうな顔を背に港の香りのする石道へと降り立つ。十二月前の気候としては少し寒い日だったが、加奈子は下着と上着、それに薄い秋用の防寒具を着ているだけで、薄着と言って間違いない格好をしていた。東京では心もとないが、パンフレットによれば、これから行く島は暖かいらしい。ならばこれで十分だろうというのが、加奈子の見解だった。
(……もう一枚ぐらいは、羽織ってきても良かったかな)
ぎゅっと防寒具を引き寄せながら、加奈子は見慣れた顔を探して辺りを振り見た。港と言っても面積は小さく、極めて小規模な客船が稀に出入りする他は漁民が使用するだけの物なのだが、加奈子が見た船着場には、既に小さな船が三つはやってきていた。
「お、かなさん。やっと来たかい」
その内一番手前の、見ればすぐそれを分かる漁船の上から、小柄な初老の男が加奈子を見つけて声を掛けた。その声の大きさを少し恥ずかしく思いながらも、加奈子はこんにちは、と手を振りながら、その船の前に歩み寄った。
「お待たせしちゃいました?」
「いやぁ、そんなこたぁ気にせんでいいさ。普段から、かなさんには良いモン回して貰ってるからねえ」
船の上から豪気に声を張る彼は、加奈子のビデオ店でも特に優良客で、他の客が手をつけないマニアックなアダルト作品を、週に五,六本借りていく男だった。また、加奈子がレンタル業を始めて間もない頃から励ましてくれたお得意様という事もあり、加奈子はその性癖を除いて、彼の人間性に全幅の信頼を置いていた。
「しかしまぁ、いつになく船が多いのが気になってるわな。それも全部、あの島から帰ってきていると来とる。何じゃ、財宝でも見つかったんかい?」
「ふふ、そうだともっと良かったなぁ。実は、お兄ちゃん探しなんです」
「大規模なかくれんぼか。いやいや、かなさんは本当に、兄想いの良い妹さんだの」
手を借りて、加奈子は船に乗った。漁船だから、これといった船室は備えていない。島までは、漁船の燃費を考えたスピードで航行すれば、二時間強掛かると聞いていた。
「えっへへ。ありがとうございます」
加奈子は、まだ細い娘盛りの腰に手を当てて、そう威張る振りをして、漁船長と笑い合った。
なるほど、暖かい。昔、両親に連れられて行った南国のリゾートにはさすがに及ばないだろうが、ここが東京都の一部だと思うと、不思議な感じがする。
加奈子は、島に最初に降り立った時、思わずそれまでに立てていた計画を忘れて、美しい海に手を差し出してみたくなった。そして、そんな事をすると計画が面倒な工程を含んでしまうと思い出して、その手を右後ろのポケットに運んだ。
「これ、少ないですが、燃油代の足しにして下さい」
事前に用意しておいた一万円札三枚を、加奈子は船から降りようとしない漁船長に腕を精一杯伸ばして手渡した。少し前に見た、ニュース番組での大間マグロ特集によれば、漁民は一度の漁に数万円から数十万円分の燃料を使うらしい。マグロ漁船もずっと走り通しという訳ではないから、今のような往復四時間強の道程を二度繰り返せば、かなりの額になるに違いない。三万円は、少ないものの申し訳ない気持ちを伝え得る、ギリギリの金額だと加奈子は考えていた。
「かなさんにゃ、借りがあるんだ。受け取れないさ」
しかし男は、一度手に取った一万円札を確認してから、加奈子にそのまま返した。
「それに、燃料はそう掛かっとらんのさ。うちのは、超が付くような小型だけぇの」
からからと笑う男からお金を受け取り、加奈子はそれが嘘だと分かりつつも三枚の紙幣をポケットへしまった。あまり強情で居ると、彼の気分を害してしまう。彼はわきまえている人だから、その気持ちさえ伝われば問題ないだろう。
「ほんと、ご迷惑お掛けしちゃってます。帰る時にはきっとお兄ちゃんも一緒ですから、兄ともどもお礼しますね」
「ははは、楽しみに待ってようか」
漁船長は、そう言って男らしい嫌味のない笑みを浮かべた。それから、お辞儀をして見送る加奈子に明々後日くるでな、と手を振って、操縦室へと戻っていった。間もなくして、船は、静かなエンジン音を響かせながら、海の向こうへと去っていった。