死亡届
三日続けて酒盛りにふけった拓也だったが、今朝ばかりは早く起きざるを得なかった。
(一体、どうなっているんだ!)
午前四時ごろ、すっかり眠りに就いていた拓也は、鍵を掛けていなかった家のドアを静かに開こうとするわずかな音に、彼らしくもなく敏感に反応して目を覚ました。誰かが、入ってこようとしている。それも、こちらに悟られないように、静かに。拓也の脳は、これまでの人生でも一,二位を争うほどに素晴らしい回転を見せ、侵入者が床に散らばった空き缶を気にしている間に、窓から飛び出して逃げた。闇の中で、侵入者の顔を確認する事は叶わなかったが、たまたま手に当たった地図も手もとに置いてだ。
暗闇の中を、とにかく走る。一体、誰が、何の為に自分の部屋に入ってきたのか。拓也はそう自問したが、返ってくる答えはどれも、恐ろしい物ばかりだった。とにかく、どこかへ逃げなければならない。拓也はそう考えて、ディーの家へと向かう事にした。ビーとシーの家が無人なのは、分かっている事である。ならば、今逃げてきたエーの家を含めたその三軒は、逃げる先としては頼りないという事になる。拓也は、寝起きの自分がとても冷静なのに、内心驚きながら走ってディーの家への道を進んだ。いつの間にか出てきたらしい雲によって、島は闇夜だった。真っ暗な道に何度かつまづき、懐中電灯代わりにと思って取り出した携帯電話を見て、拓也は電話を掛ける事を思いついた。慌てた手で、受信履歴の一番上の名前を押す。しばらくのコールの後、聞き慣れた留守番電話サービスの音声が流れた。
「お、襲われた! 助けてくれ!」
拓也は、息を切らしながら、そう叫んだ。だが、留守番電話にいくらそんな声を吹き込んでも、助けは来ない。しばらしてそれに気付いた拓也は、役立たずの電話を切って、その明かりにだけ頼って再び走り出した。そうしている内に、木々の間に立派な一軒家が見えてきた。
(起きろ!)
拓也は、その一軒家の入り口に駆けつけて、チャイムを何度も何度も繰り返し押した。しかし、扉の向こうからは、全く物音がしない。チャイムよりも物騒な音を出そうと、拓也は扉を思い切り引いた。
(…………)
扉は、拓也の想像を全く裏切って、勢いよく開いた。中は、真っ暗闇。拓也はそこに、鉄のにおいを感じ取った。不気味な空間だったが、拓也は後ろから掛かっているかもしれない追っ手をそれ以上に恐れて、中に入って鍵を閉めた。部屋の中へ一歩踏み入れた時、足に、ぐにっ、という柔らかな感触が伝った。
「う……」
それが何なのかは、暗くて分からない。ただ、近付いて確認しようとすると、さっきの悪臭がより酷く鼻を突いた。恐る恐る、携帯電話の光をかざしてみる。
「わ、わあぁ!」
そこには、恐怖と苦悶の極まった、友田の顔があった。
拓也は、それでも、自分に冷静を求めた。血のにおいと分かった悪臭を吸わないように左手で鼻を押さえ、右手の携帯電話で彼の死体を一枚撮影したのである。一一〇番通報するにあたって、証拠写真が必要だろうと考えたのだった。
(一一○番……)
手が震えて、何度も打ち間違える。やっと正確に一一○と入力できたと思って耳に携帯電話をやったが、繋がらない。また間違えたか、と思ってもう一度見直すと、携帯電話は静かに『圏外』の文字を表示していた。
くそ、と、拓也はついに冷静さを失って、部屋を飛び出た。誰か、仲間を見つけなければ。イーの家へ、イーの家へ。拓也の頭は、そんな意味の文章でいっぱいになった。
「山田さん!」
ディーの家から程近い、イーの家への道中、誰かとすれ違った。その誰かは、すれ違ってすぐ、拓也の名を呼んだ。拓也は、すれ違った彼女が、追っ手かも知れないと内心警戒しながら、その声に応じて名前を呼び返した。
「朝倉か」
「はい! 突然襲われて……。たまたま起きていて、何とか難を逃れたんですが、大宮さんが……」
死んでいた、と恐怖に満ちた朝倉の表情は勝手に物語っていた。拓也は直感的に、彼女の恐怖が本物であると判断して、警戒を解いた。
「……友田もだ。追っ手が来ていないとも限らない。走って逃げよう」
拓也自身も片言と分かるほどの言葉回しだったが、朝倉は頷いて、先に動き出していた拓也の後ろに付いて走った。
四分ほど走ると、また一軒家が見えてきた。拓也は確認の為に地図を見たが、今居るはずの場所には、エーからエフの家は存在していない。しかし、家には灯が点っている。案内人の誰かの家かも知れない、と、拓也は縋るような思いで扉の前へと走りついた。
「駿河……案内人だ」
拓也は、掛かった木製の表札を見て、歓喜の声を上げた。そしてすぐ、追い付いてきた朝倉と共に扉を強く叩いた。
「おや、どうしましたか」
そんな二人の後ろから、張りのある声が聞こえた。
「緊急事態なんです! お、大宮さんが、大宮さんが……!」
「……何やら、お困りのようですね。中にお入り下さい」
駿河は、鍵を挿し込んで左に回した。それから扉を開くと、二人を先に中へと入れて、自分が後から入った。靴を脱いで部屋へ上がった拓也は、後ろから駿河が指示するのに従って、すぐ右の和室へ入って腰を下ろした。
(外から帰ってきた、とは、どういう事だ)
拓也はその動作中、そんな疑いの視線をずっと駿河へ向け続けていた。だが、それを指摘した途端に刃物を出されては堪らない。拓也は、どうすべきかを悩んで、頭を捻った。
「どうされたんですか。そう、お焦りになって」
座っても落ち着きのない二人に、駿河は訝しそうにそう尋ねた。
「友田と、大宮が、死んでいた」
「ふむ……。木田さんも、まだ見つかっていない、と。これはどうも、大変な事件のようですね」
「電話も繋がらないんだ。一体、どうなっている?」
「何らか、凶悪犯が居るのでしょう。……そうですね。お二人に、お頼みしたい事があります」
駿河はそう言うと、立ったまま頭を深々と下げた。
「真菜を保護してやって欲しいのです。私は、神子様の護衛に行かねばなりませんが、真菜の家は逆方向にある……心配で仕方ありません」
「分かりました」
凛々しい声でそう答えた朝倉を、拓也は驚きの表情で見た。何という事を言うのか。ここでじっとしていれば、少しは安全なものを。その感情は怒りをも含んでいたが、朝倉一人に行かせれば、自分もここで一人という事になり、その方がずっと悪いという冷静な判断によって、拓也はぐっとこらえた。
「ありがとうございます」
駿河は、頭を上げないままに、そう言った。
「……さ、山田さん。行きましょう」
勝手に自分まで頭数に含めるな、と思ったが、例によって冷静に、拓也は頷いて立ち上がった。いつもの黒い服以外では神子様に近付いてはならないらしく、駿河がその黒い服を和室にあったクローゼットから取り出して着替え始めたから、二人は半ば追い出されるようにして駿河の家を出た。
(……これか?)
拓也は、一軒家に併設されているトイレを見て、さっき駿河が外から帰ってきた理由付けには十分だと納得した。
地図中の“真菜クイズ”のすぐそばに、真菜の家はビーの隣です、と書かれている。二人は、地図を頼りに、真っ暗な闇の中を、周囲に最大限の注意を払いながら、ビーの家へと向かった。
「ああ、本当ですね。圏外になっちゃってます」
途中、朝倉は自分の携帯を開いて、そう言った。
「さっきまでは、普通に繋がっていたんですけど……」
「誰かが遮断したんだろう」
「誰なんでしょうね……。私と山田さんと、木田さん。それから案内人の皆さん。神子様。……山田さんでは、ないですよね?」
拓也は、必要もなくに饒舌な朝倉に、苛々していた。ただでさえ突然の悲劇に気が立っていて、警戒しつつ歩かねばならない時だというのに、この女はどうしていつまでも喋り続けているのか。拓也は、歩くスピードを速めた。
十分ほどで、ビーの家に着いた。周囲は、徐々に薄明を帯びて真っ暗ではなくなってきていて、拓也が見回すと、確かに一軒、地図にない家があった。
「……おや、山田さんに朝倉さんじゃないか。良かった、死んでいなくて」
二人が駆けつけると、その家の前で、富岡が二人を出迎えた。
「事情を知っているのか」
「ああ。友田さんと大宮さん、それに駿河が死んだ」
「す、駿河さんもですか?」
朝倉は、素っ頓狂な声を上げた。二人に少し遅れて駿河宅を訪れた富岡は、そこで死んでいる駿河を発見したのだという。内心、拓也は富岡に大きく不信を抱いた。
「ああ……。神子様は島谷が守っているから、俺は真菜を保護しにきたんだ」
と、富岡は扉を何度かノックした。しばらく待つと、中でどたばたと走ってくる音が聞こえてきて、その後そっと扉が開かれた。
「……まだ、五時なのですよ。何かご用なのです?」
「色々あったんでね。友田さんに大宮さんが、お亡くなりになった」
「神子様は、大丈夫なのですか?」
真菜は、まさに起き抜けというような格好と、髪形をしていた。長く綺麗な黒い髪は、コンパクトに後ろへとまとめられている。
「ああ。ちゃんと神社においでだ。今は、島谷が付いている」
「そうなのですか……。私達も、向かった方が良いのではありませんですか?」
と、真菜は、富岡の後ろでそのやりとりを聞いている二人を見た。
「そうだな。だが、俺も丸腰なんでね。何か武器になるような物を、探させて貰いたいんだ」
分かりましたのです、と頷いて、真菜は富岡を家の中に通した。だが、自分は入らず、むしろ外へ出てきて、拓也に向かい、
「真菜クイズ、分かりましたですか?」
と尋ねた。
「いや……。分からないままだ」
「そうなのですか。では、これを差し上げますです」
真菜はそう言うと、拓也に小さく四つ折りにされた紙を手渡した。広げた中には、走り書きの文字で『先見の明の上には穴がある』と書かれていた。
「何だ、これは」
「残念賞なのですよ」
真菜はそう笑い、中から富岡が呼んだのに応えて、家の中へと入っていった。一体、この非常時に何を考えているのか。拓也がそう呆れたのと同時に、窓の割れる音が高らかに、響いた。
窓の割られた音が鳴ってから、次に銃声が聞こえるまでには、そう間がなかった。拓也達は扉を破るようにして中に入り、音の発信源を探して廊下を走った。
「しまった……」
一番奥の洋室で、富岡が左腕を押さえながら呻いていた。
「どうしたんですか?」
「島谷だよ。あいつが、襲ってきたんだ」
富岡の言葉を聞きながら、洋室に一歩踏み入れて、拓也は思わず目を背けた。そこには、頭を撃ち抜かれて果てた真菜の体が、まだ広がり続けている血の海に浮かんでいた。長く綺麗だった黒髪は、赤に濡れて、彼女を海の奥深くへと、引っ張ろうとしているようだった。
「う……」
「こうなったら、神子様が心配だ。俺は行く、二人も来てくれ」
朝倉が吐き気を催して洋室から一歩退いたのを気にも留めず、富岡は割れた窓を乗り越えるようにして外へと出て行った。拓也は、目くるめく急展開に富岡への評価も定められなくなり、とにかく一人で富岡が走っていった事に危機感を覚えて、朝倉の手を引っ張って窓を抜け、神社の方へと駆けた。
一体、どうなっているのか。誰が、どうして、あんな事をすると言うのか。全く、理解が追いつかない。あるいは、夢なのではないか。足取りもおぼつかないまま走りながら、拓也はそんな風な思考と共に、混乱し、戸惑い、惑乱の中にのめり込んで行った。
二人が小さな鳥居をくぐって中へ入ると、富岡は賽銭箱の方を見て立ち尽くしていた。
「神子様が……居ない!」
拓也は、昨日神子の後姿があった場所から、その姿が消えているのを見た。すぐ隣に拓也と朝倉が追い付いたのを確認すると、ここで待っていてくれ、と言って建物の入り口らしい建物の右の方にある扉へと走り出した。富岡の叫び声が聞こえたのは、彼が扉の中に入ってから間もなくの事だった。
二人が、駆けつけようとその扉へ動きかけた時、扉が向こうから勝手に開いた。
「……ああ、皆さん」
出てきたのは、すまし顔をした、若く背の高い島谷だった。二人は、警戒を強めて身構えた。
「お前が、殺したのか」
「いいえ、違います。全ては、富岡による凶行でした」
島谷はそれから、いたって落ち着いた声で、富岡が犯行に及んだその動きを、つらつらと説明し始めた。既に冷静の欠片も残っていなかった二人には、その説明が、理に適っていて信用できるのか、道理を曲げていて受け入れがたいのか、それすらも分からなくなっていた。
「お前が、殺したんだろう」
「……分からない方々だ。第一、富岡の次に怪しいのはお二人でしょう」
お二人のどちらかが、富岡と協力して殺人を犯したのかも知れない、と島谷は続けた。さすがに、馬鹿らしい、と一蹴する賢明さが拓也にはあったが、そのすぐ隣で、
「やっぱり、山田さんが……!」
と朝倉が一歩、二歩と退いた。
「馬鹿な。俺に、どんな動機がある」
「知りません!」
全く論理的でない朝倉の言動に、拓也は逆に理性的に、感情を抑えて思考する事に成功した。もう、この島には、自分達二人と島谷しか残っていない。自分達二人は、犯人でないだろう。つまり、今一番に警戒すべきなのは、島谷なのだ。拓也はそれだけの説明を、どう言葉に立てて朝倉に伝えるか、それだけに頭を回した。
「……う…うあ……!」
朝倉が、ついに耐え切れなくなって、鳥居の方へと駆け出した。それによって、拓也が作りかけていた言葉達も、雲散霧消して、残ったのはただ、島谷への恐怖だけだった。拓也も、朝倉を追いかけるようにして、走り出した。
鳥居を越えて、霜月ヒイラギを抜け、船着場まであと少しという所で、拓也は前で朝倉が転ぶのを見て、走るスピードを緩めた。追いついてよく見てみると、朝倉の右足は撃ち抜かれて、滾々と血を吐き出していた。
「う、うう……うあぁ……」
朝倉の泣き声の混じった呻き声は、ダン、と高く響いた銃声によって、掻き消された。拓也は、振り返って、その姿を見た。
「お二人は、足が遅いようで。こんなに重たい物を抱えていても、簡単に追いついてしまった」
島谷だ。拓也は、既に息絶えている朝倉を飛び越えて、逃げようと試みた。その拓也の耳に、聞き慣れてしまったダン、という音が飛び込み、瞬間、拓也の視界は真っ赤に染まった。