物語のはじまり
◇◇◇◇
白い翼を持つ神獣が見守る前で、魔物を束ねる夜の魔女と、人間の信仰を集める聖女が戦っていた。
夜の魔女は杖を振り上げて、安定をもたらす闇の魔法を放ち、
聖女は両手を祈りの形に組んで、変化をもたらす光の魔法放つ。
闇と光の魔法が正面から何度もぶつかり合い、ある瞬間に大爆発を起こした。その衝撃で次元の壁(世界を区切っている壁)に大穴があき、魔女と聖女と神獣を吸い込み異世界へと放り出した――
◇◇◇◇
――その日は丁度夏至だった。
浪原彩友美は、いとこの佐々岡凌士を伴って、家から徒歩三分の場所にあるドラッグストアに向かっていた。
二人は揃って、三十分前に起きたばかりのような格好をしていた。あくびをかみ殺している凌士の頭は寝ぐせが暴れているし、部屋着のワンピースの上にカーディガンを羽織った彩友美は、縁側から庭に出る時用の祖母のサンダルを、そのままはいて出てきてしまっている。
そこは、車の入ってこられない細い路地だった。彩友美はスマホでクーポンを探し、凌士はヘッドホンで音楽を聴きながら、道の丁度真ん中を歩いていた。
突然スマホの画面に影が落ちた。顔を上げた彩友美は、自分たちの周りだけが薄暗いことに気付く。上からバサッバサッとい大きな羽音も聞こえてくる。何だろう……と、彩友美が何気なく空を見上げる。隣を歩いていた凌士も彼女の視線を追う。
「……え?」
「……は?」
よく晴れた空から、どんどん巨大化する黒い『何か』が落ちてこようとしていた。
◇◇◇◇
夜の魔女と聖女が暮らしていた世界では、闇の神が司る夜の力と、光の神が司る光の力の量に差がなかった。天秤が一時的な衝撃に揺れたとしても、どちらか一方に傾くことはない。片方だけが強くなる、或いは弱くなるということはなく、完璧な均衡が保たれながら、安定(闇)と変化(光)をもたらすエネルギーは世界を循環し、時間を動かし続けていたのだ。
しかし、次元の壁にあいた穴を潜り抜けた先は、人工の光の登場によって、夜の力がどんどんと弱まっている世界だった。しかも今日は夏至。一年で昼の長さが一番長い日だ。
聖女の目を通して見たその世界は、色鮮やかでとても美しかった。視界に映る何もかもがきらきらと輝き、まるで彼女の来訪を祝福しているかのよう。呼吸する度に全身に力が満ち溢れていく。体が羽根のように軽い。
聖女の体はゆっくり、ゆっくりと優雅に地面へと舞い降りていった。……実際には、大きな翼を持つ神獣が、両手両足で聖女の右肩あたりを掴み、必死に羽ばたいて落下を遅らせてくれていたのだが。
一方、夜の魔女の目を通して見た景色はまるで違っていた。そこは濁った凸レンズを通して見たような世界だった。すべての輪郭がもやもやと崩れていて、ぼんやりとしか形を捉えられない。急激な目まいと脱力感と共に、体の中で何かが膨れ上がっていくような感覚があった。喉がつまって上手く息ができない。
夜の魔女はもがき苦しみながら地面に向かって落下していった。まるで、熟れすぎて腐り落ちてゆく果実のような姿で……
◇◇◇◇
「ど……どどどど……どうしましょう? クトカさま」
聖女はおろおろしながら、神獣クトカに尋ねた。神獣は白い小猿の姿になって、ちょこんと聖女の右肩に乗っている。
聖女リンネムは『かつて夜の魔女だったモノ』が纏っていたローブの上にぺたんと座り込んでいた、大きく地面に広がった布の端から血が滲み出し、じわりじわりと道路に広がり続けている。
「アタシがこの姿になれたってことは、ココでも普通に魔法が使えるっていうことヨ。いつもと同じようにすればイイワ。下の二人を潰したのは先に落ちた魔女ということになるデショ? 夜の一族によって壊されたモノは、光の魔法で元に戻すことができル。ホントに、アタシたちが先に落ちなくてよかっタ。あなたが潰していたら、元に戻せなかったワネ」
白い小猿は甲高い声でそう言ってから、大きく周囲を見渡す。
「ここは、光の力が強いケド、ゴチャゴチャして臭いところネ。同じなのは、空の色くらいだワ」
神獣は不快そうにくしゃみをした。血の匂いに混じって、古い油のような嗅ぎなれない匂いがする。
ここは右も左もわからない異世界だ。まず最優先でやるべきは、衣食住の面倒をみてくれる存在を確保すること。だがそれも目星がついている。自分たちは本当に運がいい……
「……ま、下敷きになっている二人に恩を売れば、全部何とかなるデショ」
神獣クトカは底抜けに明るい声でそう言うと、目と口を三日月の形にして笑った。
「はい、クトカさまの仰せの通りに」
聖女はまだ己の置かれた状況を理解できてはいなかったが、反射的に背筋を伸ばし従順に頷いた。そして、すぐさま祈りの形に手を組み呪文を唱え始めた。彼女は『聖なる獣の言動はすべて正しい』と盲目的に信じ込んでいたのだ。
聖女リンネムの体が眩く輝き、圧倒的な量の光が周囲に放たれる。『かつて夜の魔女だったもの』は、その光の中に吞み込まれて見えなくなった……
――こうして、知られては都合の悪いすべてが隠蔽されたのだった。
うっすら目を開けると、翼を持った白い小猿が、彩友美と凌士の顔を交互に覗き込んでいた。
「アナタたちは、この世界を侵略しにきた魔女の最初の犠牲者となったのヨ。アタシと聖女リンネムが魔女を倒して、アナタたちを復活させてあげたノ。つまり、アナタたちにとってアタシとリンネムは命の恩人! アタシたちを庇護し養う義務があるのヨ!」
猿には翼がないし、ましてやぺらぺら喋る訳がない。これは夢だ! そう思い込もうとしたが、全身に鈍く残る傷みと耐えがたいまでの倦怠感が、今が現実であると彩友美に告げていた。
自分の身に一体何が起こったのか全くわからない……覚えていない。
(空から何か黒くて大きなものが降ってきた……)
それから? それからどうなったのだろう。わからない。そこから先の記憶がない。
隣では凌士が痛みに呻いていた。呪文のようなものを唱えている女性の声がして……あたたかな金色の光が彩友美と凌士の全身をふわりと包み込む。痛みと倦怠感が一瞬にして消え失せると同時に、隣から聞こえてきていた呻き声も止んだ。
「癒しの魔法ヨ。これで信じたデショ」
中学生二人はゆっくりと体を起こし、ここでようやく、神獣クトカを肩に乗せている人物との対面を果たした。
ひゅっと喉を鳴らした凌士は、目を大きく見開いて驚愕の表情を浮かべる。彼は瞬きも忘れて聖女の顔を凝視した。
今目の前に、まさに理想を詰め込めるだけ詰め込んだような、可憐な少女が存在している……
「あ……あの、よ……よろしくお願いいたします。わたくしたち、その、行く当てがないのです……」
聖女リンネムは潤んだ瞳で凌士だけをじいっと見つめた。これは小猿の入れ知恵だった。
一瞬にして凌士の顔が真っ赤に染まる。真っ白なドレスに身を包んだ儚げな美少女に涙目で懇願されれば、多感な時期の少年がすっかりのぼせ上ってしまうのも無理はなかった。
彩友美と凌士はその場で相談し合って、聖女と神獣を佐々岡家にて匿うと決めた。幸か不幸か凌士の両親は長期海外赴任中だったのだ。
人生経験が浅い中学生二名は、何一つ疑うことなく、命の恩人の神獣と聖女に衣食住すべてを提供した。何もかも神獣クトカの目論見通りに――




