プロローグ
ベットが軋む音がする。明かりの消えた部屋の中で、壁を叩くような激しい息遣いが、夜の帳の向こうに泳いでいた。俺はただ、夢中で手を伸ばしていた。無防備になった少女の上に覆い被さり、床に打ち付けるように何度も腰を落とした。
ギシッ
ギシッ
少女は右手で顔を隠して、溢れそうになる声を抑えていた。
上着は来たままだった。はだけたシャツの下に見える肌が、かすかな明かりの中に透けていく。俺は欲望のままに腰を動かしていた。そこに感情はなく、彼女に対する思いやりもない。
「…ん、ふぅ…」
右足にかかったままの下着と、床に転がったままのジーンズ。彼女は美しい女性だった。美しく、大人びた女性だった。それ以外のことは何も知らなかった。俺たちは今日の夜、知り合ったばかりだった。いや、“知り合ったばかり”と言うのは、少し語弊があるかもしれない。俺は彼女を以前から知っていたし、顔だって何度か目にしていたからだ。
彼女は有名人だった。
「ハァ…ハァ…」
なんでこんな状況になってるかって?それは俺も知りたい。昨日のことだった。1年間付き合っていた子から、突然振られた。そこまではまあ、別に良かった。よかないけど、振られるには理由があるだろうし、そうなった原因は俺にあるだろうしさ?
ショックだった。
そう言われた直後は、どう整理すればいいかもわからないくらい。だけど、受け止めるしかなかった。理由はちゃんと聞いた。なんで?って、——ただ、それだけを。彼女は教えてくれなかった。俯いたままで、「別れよう」って、小さく頷くだけで。わけもわからないまま、学生寮の部屋に戻った後のことだった。立ち直れない俺の目に届いたのは、1学年上の先輩と寝ている動画だった。俺のスマホに突然送られてきた。響き渡る喘ぎ声に、脱ぎ散らかした服。
嘘…だろ…?
送り主は不明だった。なんで送られてきたのかも、何が目的だったのかも。ただ、映像の向こうにいたのは紛れもなく彼女だった。いつも隣にいた、——あの。
「来て…」
必死に腰を動かす俺とは反対に、淡く潤んだ瞳を向けてくる。SEXをするのは初めてじゃない。元カノ、——レイナとは何度かしていた。目の前にいる彼女は“初めて”だった。俺を誘ってきた割に、まだ誰とも経験したことがなかった。当然痛がっていた。“挿れた”時は。もう2時間以上もベットの上にいる。時間を忘れるように、俺は無我夢中で彼女の体を抱き続けていた。俺が俺じゃないみたいだった。まるで、理性の何もかもが持っていかれてるような。
「中に…出すぞ」
「うん」
俺は何を言ってるんだ?強く抱きしめてほしいと訴えられた気がして、彼女の唇を押さえつけるようにかぶりつく。背中に回してきた彼女の足が絡みつき、がっちりと俺の体を掴む。中に出すなんて正気じゃない。彼女のことを考えるなら、ゴムをつけるべきだ。大体なんで俺は彼女と寝てる?知り合ったばかりで、まだどんな人なのかもよくわからない。彼女が有名人なことは知っていた。有名と言っても、ある“界隈”でだけど。俺のクラスは普通科特進コースで、商業科の奴らとはあまり絡みがなかった。彼女は“商業科のアイドル”と呼ばれてて、男子生徒の憧れの的だった。「学園一の美少女」だった。東京都第3支部高等学校の2年で、俺とは同い年で。
「…ハッ、…あッ」
キャンパス内にある学生専用のバーで、俺は飲んだくれてた。何もかも忘れてしまいたいと思ってた。レイナとは高校(普通の学生)の時に知り合って、一緒にミッションとかをやっていくうち、互いに惹かれていくようになった。レイナは優等生だった。なんでも器用にこなして、俺とは正反対の几帳面な性格だった。ギャルっぽい見た目の割にはちゃんとしてて、勉強だっていつも真面目に取り組んでた。
(…なんで、…あんなやつと)
映像に映ってた先輩は、俺もよく知ってる先輩だ。同じ学科で、授業も一緒にすることがあった。合同演習では先導役をやってた。さぞモテるだろうなって感じの顔つきで、成績も優秀な人だった。でも、どうしても…
「…少し、…ゆっくり…」
俺は止まらなかった。彼女の指が、——足が、背中に食い込んでくる。中で締め付けてくるのがわかる。もうすぐイクんだろうなって思った。俺は何も考えられなかった。頭の中にあったのはレイナのことだ。忘れたかった。拭い去りたかった。あの映像を、目に焼きついたものを消したい一心で、目の前にいる彼女の体を求める。中に出した後、上着を脱がせた。何も付けないままの裸の彼女を撫でるように、中に出したものをかき混ぜる。ついさっきまで処女だったとは思えないほど、彼女は甘く鳴く。痙攣した足と、無防備になった膣。その根本から、愛液が糸を引いていた。四つん這いになった彼女の後ろから、俺は再度強く体を求める。
「…あ…だめッ…」
それから、どれだけ時間が経ったのかはわからない。ベットが軋む音は、一晩中続いた。俺は獣みたいに腰を動かし続けてた。訳もわからず、ただ壊れた時計の針のように。自分が自分じゃないみたいだった。酒が入ってたっていうのもあるかもしれないが、意識は不思議とハッキリしてた。だからなおさら、変な感じだった。得体の知れない力に引き寄せられていく感じ。体の奥から、言い表せられないほどに湧き上がる熱量。
やるせ無い気持ちと、どうしようもない欲望がない混ぜになって、
それで…
パンッ
パンッ
気がつけば夜が明けていた。
カーテン越しに差し込む光が、濡れたシーツの上にこぼれ落ちてきた。
…そうだ
彼女の名前はなんて言うんだったっけ…
遠ざかる意識と、——記憶。
一体今何時であるかもわからないまま、マラソンで走り切った後のように、ベットの上に倒れ込んだ。
出すもの出してしまったような感じだった。なにもかも、遠ざかっていくかのような——
*
「いい加減目を覚ましたらどうだい?キミの裸を見るのも、もう飽き飽きしてるんだけど」
…う
誰かの声がして、頭痛のする頭を押さえ込むようにゆっくりと瞼を開けた。なんだってこんな頭が…。っていうか、どこだ、ここは…?
ジャラジャラッ
身動きが取れず、音のする方向へ目を遣った。天井からぶら下げられた鉄の鎖。巨大な動物を拘束するのかっていうくらいに太い金属が、がっちりと俺の両手首を掴んでいた。多少の“遊び”はあった。肘を曲げたり、肩に力を入れたりするくらいは。
「…誰…だ?」
驚いたのは、その状況だけじゃなかった。牢獄のような無機質な部屋に、椅子が1つ。照明は少なく、薄暗い。自分の身に起こっている状況が理解できなかった。目の前には見知らぬ男がいる。中性的な顔立ちに、細身の体。見た感じ近い年代だなって思った。けど、同じ学校の生徒じゃない。礼装のような整った服装と、パーマがかったクシャクシャの髪。同じ学校の生徒なら制服を着てるはずだ。学校の紋章だってスーツに入ってるはず。もちろん生徒だからって、制服を着なければいけない訳じゃない。プライベートで着る服装に制限はない。そのルールを知らないわけじゃなかった。目の前の男が誰であるにせよ、“学校の生徒じゃない”と決めつけるには、あまりにも早計だった。ただ、直感的にそう思ったのには、理由があった。ズキズキする頭の奥で、ぼんやりと浮かび上がる輪郭があった。あの黒い上着と、ネクタイ。どこかで…
「…やれやれ。ようやく目が覚めたか。今の気分はどうだい?」
「気分…?」
「何が何だかって感じの顔だね。この指は何本に見える?」
「3…本?」
「正解だ。じゃあ、次の質問にいくよ。キミの名前は?」
…俺?
俺の名前…
そんなの、考えなくてもわかることだった。直ぐに答えようとは思った。反射的に口を動かそうとする自分がいて、——反面、声が思うように出てこなかった。訳もわからない息苦しさが、喉の奥から込み上げてきて…
「…俺は、…あれ…?」
「…はぁ、思ったより重症だな。これは一度解剖した方が早いか?…いや、そうなると手続きやら何やらでめんどくさいか。まあいい。キミは今“治療中”で、絶対安静の状況にある。それと同時に、重要な“被害者“でもあってね。今から僕の聞くことに簡潔に答えてほしい。昨日、キミは何をしていた?」
…昨日?
昨日は、確か…
記憶がこんがらがっている。自分が何者かはわかっているつもりだった。わからないのはこの場所と、目の前にいる「誰か」だけ。思考を巡らせようと頭の中をつっつく。昨日”何をしていた“か。直ぐには思い出せなかった。色とか景色とか、そういう漠然とした心象さえフィルターがかかったようにぼやけていた。学校があって、友達に会って、授業を受けて…それで…
具体的な日時、時間。
何もかもが宛てのない砂漠のように、ハッキリした「線」を届けなかった。シンプルに考えようとはしていた。それでも…
「オーケー。じゃあ、彼女に見覚えは?」
目の前にぶら下げられた一枚の写真。そこに映っていたのは、見覚えのある少女だった。
ピンクのアッシュに、金色の髪。髪の色に似た綺麗な瞳は、どこか冷たい印象さえあった。垢抜けた外見とは裏腹に、氷のように冷ややかな視線が、写真の中の存在感を深めている。物静かで、力強く、わずかな“たるみ”さえそこには無い。どこまでも清楚で、美しい表情をしていた。誰も寄せ付けないほどの強烈な印象の内側には、ライオンのような気高さがあった。誰もが“憧れていた”。「学園のアイドル」だった。“アイドル”という派手やかな肩書きとは対極にある、気品に溢れた少女。
獅童あやめ。
…そうだ。
彼女は確か…、商業科の…
「彼女がどうかしたのか…?」
「昨日の夜のことは何も?」
「…なにも」
「覚えてない方が、人生にとって良いこともある。単刀直入に話そう。キミは“ペルソナ(異常磁気物質)“と接触した。この意味はわかるかい?」
ペルソナ。
その言葉の意味を、俺は瞬時に理解できた。それと同時に、“そんなわけない”と思えた。記憶が飛んでたっていうのもあるけど、それがどれだけ深刻なことかを、痛いほど身に沁みていたからだ。俺の家族は、ペルソナに殺された。「ペルソナ」っていうのは、この地球に棲みつくようになった怪物たちのことだ。呼び名は国によってばらつきがある。“エッグモンスター”であったり、“ソウルハント”であったり、“デスゲイズ“であったり。
ヤツらがどんな生き物かは、痛いほどわかっていた。俺がアンダーテイカーになろうと思ったのも、奴らを駆逐しようと思ったのも、——全部。
「今回キミが接触したペルソナは、現在行方不明だ。僕が到着した時はもぬけの殻だった。感謝しなよ。こうして“治療”していなければ、キミは今頃あの世だったんだから」
「…あの世?」
「少し今、困っていてね。というのも、この写真の子。すごい美人だよねえ」
「…それが、どうかしたのか?」
「彼女もペルソナと接触してる。いや、正確には、ペルソナに体を奪われてる。早いとこ救ってあげたいんだけど、手がかりがなくてさ」
彼女も…?
今の状況を整理しようと必死になった。大体なんで俺は鎖で繋がれてる?…っていうか、なんで裸なんだ?わかっているのは独房のようなこの部屋と、見覚えのある服を着た男だけ。
俺の名前…
…そうだ、俺の名前は…
「日向坂爽介君、だっけ?」
「…あ、はい」
「困ったことに、手がかりは今キミだけなんだ」
「は?」
男は深刻そうな表情を浮かべるでもなく、不敵な笑みを浮かべながら俺の前にしゃがみ込んだ。上から下までジロジロと見てきては、「立派なイチモツだね」の一言。なんつーモラルのないこと言ってんだコイツは。意識はハッキリしないが、流石に突っ込みそうになった。
「手っ取り早いのは、キミの細胞を採取して痕跡を辿ること。だけどその場合、キミを殺さなくちゃならない」
男は平然としてた。平然と、冷ややかな言葉を投げかけてくる。まるで舌の上で飴玉を転がしてるようだった。トーンに歪みはなかった。真剣さとはかけ離れた声のトーン。その音程の奥には、シャボン玉のような軽やかさがある。どこまでも軽やかで、感情の起伏さえ見えない。不気味だった。目の前にいながら、同じ目線で会話しているような気にはなれなかった。見た目はさして俺と変わらない。どこにでもいる高校生のようで、見た感じ2〜3個離れた年上っぽかった。どこかヤンチャっぽくて、それで…
「冗談だよ。真に受けないで」
本気なのか本気じゃないのかがわからない。コイツの言ってることが全部怪しくなってきた。そもそも俺がペルソナと接触したという確証はない。記憶がないのが証拠だ。それにこの状況…。まさか、…コイツ。
「おっと、変な妄想はやめてくれよ。さっきも言ったように、僕はキミの“命の恩人”なんだよ?そんな目で見られると傷ついちゃうなぁ、ボク」
「そんな話急に言われても信じられるかっつーのッ…!大体どこだよ、ここは!?」
「ここ?ここは医務室だ」
「嘘つけ!こんな無機質な医務室があるか!治療中とか言ってたが、胡散臭いんだよ!」
「キミの想像の中にある”医務室”がどういうところかは想像しかねるけど、ここは立派な治療室だよ。余分なものが何もない。知ってる?人体を“改造する”時は、寝てるより立ってる方がやりやすいんだ。今のキミみたいにね」
「…何訳わかんねーこと」
くそッ
天井からぶら下げられた鎖はびくともしなかった。いつもの俺ならこんな拘束ワケもない。ただ思うように力が入らない。頭はグラグラするし、吐き気がするほど目眩がする。頭の中によぎったのは、コイツ自身が“ペルソナ”であるという可能性だった。ペルソナにはいくつかタイプが存在する。人型のものもいれば、体長が10m以上のデカブツも。
「僕は執行課の人間だ。ほら、見なよ」
必死に拘束を解こうと躍起になっているそばで、男は襟の裏側についたピンバッチを見せてきた。「E」の頭文字を土台にした、角ばったデザインのロゴ。黒いネクタイについた銀色のピンには、“東京保安部”のシンボルマークが。
「なッ…」
「どうやら、知ってるようだね。このマークのこと」
「…知ってるも何も、まさか…」
「理解したかい?僕が誰であるかを」
男が「誰」か。それは、すぐにわかった。…そうか。そのスーツ。どこかで見覚えがあると思った。“東京保安部の黒スーツ”と言えば、「暗部」と呼ばれてる闇の部隊のことだ。表向きは執行課と呼ばれてるが、実際は“公安”の名を借りた「ヤクザ」だって…
「保安部の連中が、どうして…」
「どうしてって?決まってるじゃないか。ペルソナを駆除するためだよ」
「防衛軍は!?あんたらの仕事は地域の取り締まりだろ??」
「防衛軍?生憎、そんな大がかりなことにはまだなってないんだ。僕はある事件を調べててね」
「…事件?」
「まあ僕というより、“僕たち”かな。最近少女が失踪する事件が頻発しててね」
「少女…が?」
「最近といっても、もう2年くらいかな。最初の失踪は静岡の方で起きた。それから約二十数件だ。今回は、同じ“反応”が起きたという情報をキャッチしたんだ。類似してるんだよ。今回キミの身に起きたことと」
少女が失踪してる。その発生箇所は不規則で、広範囲に及ぶそうだった。東京保安部が動いているのは他の都市部、——つまり被害があったエリア担当区の部署と合同調査に乗り出しているからで、男はたまたま、過去の事件と類似性のある今回の”事件”への調査を依頼されたらしい。どうやら俺は、学生寮に住んでいる生徒に発見され、病院に運ばれたそうだった。発見された当初は裸で、生気を失ったように“しわくちゃ”になってたらしい。男が言うように、ほとんど死にかけていた。それがホントか嘘かは知らないが、過去の事件でも同様のことが起こってたっぽく、失踪した少女の近辺でミイラ化した男性が見つかったそうだ。骨と皮だけになった、“抜け殻“が。
「キミはまだ運が良かった方なんだよ。過去の事件を見ると、発見当初で生きていた男性はほんの一握りだって。タイミングもあるんだろうけど、現状生き残っているのはキミだけだ。発見当初は生きていた人たちも、そのあと程なくして死んでるから」
「…ちょっと待て、…つまり、こうか?その写真の子が、今は失踪してると…?」
「そういうこと♪そこで相談なんだけどさぁ」
男は上着の内ポケットの中に手を忍ばせ、“ある物”を取り出した。「ナイフ」だ。ナイフと言っても、そこまでゴツゴツしたものじゃない。バターナイフのように小さく、戦闘には不向きそうな華奢な作りをしている。手慣れた手つきでクルッとそれを回転させながら、ニコニコ笑みを浮かべた。ナイフの先端は丸み帯びていた。光沢感のある刀身は冷たく、細い。ピトッと、俺のおでこにそのナイフをあてがってきた。優しく皮膚の上を撫でながら、品定めするようにゆっくりと視線を預けてきて。
「キミの脳みその一部を、僕にくれない?」
…はい?
男の手つきは滑らかで、奇妙なほどに落ち着いている。突如発せられたその「提案」に、すんなりと頷くわけにもいかなかった。男の発したその「言葉」、——脳みそって言ったよな?今…。何度か頭の中で反芻していた。もし言っていることの意味が”そのまま“なら、承諾するわけがなかった。
「何言って…」
「安心して。何も全部ってわけじゃない」
「そう言う問題じゃねーだろ」
「もらった分はちゃんとお返しするし」
「…はぁ?」
「僕が欲しいのはあくまで“一部”だけだ。もらった一部の代わりに新しい細胞を移植する。キミの知能が低下することはないし、なんなら今より脳を活性化させることだってできるよ?本来だったら、それ相応の手術費を取るところだけど」
イカれてんのか?
脳の一部が欲しい?…って、どんな悪趣味だよ…。俺は今治療中なんだよな??安静にしてなきゃいけないってさっき言ってなかったか?言ってることが真逆なんだが…
「…本当に保安部の人間かよ」
「心外だなぁ。どっからどう見てもそうじゃないか。こう見えても優秀なんだよ?」
「本当に優秀な奴はそんなこと言わない」
「“中途半端に優秀な奴は”、ね?本当に優秀な奴は自分のことを理解している」
「何が言いたい?」
「主観的に見ても客観的に見ても、僕は優秀だって言うこと。わざわざ誤魔化す理由もないでしょ?」
…やべー奴だな
多分、ペルソナじゃない。それはなんとなくわかった。ペルソナには色んな種類がいるが、大抵はバケモノみたいな奴らで、知性のかけらもない。目の前の男が“執行課”の人間なら、それはそれで納得のいく部分もある。良い噂を耳にしたことがほとんどなかったからだ。平気で人間を殺すような奴らで、見境もあったもんじゃないって
「で、どうするの?」
「どうするもこーするも、ダメに決まってんだろ!」
「残念だなぁ。これから人助けをしようって言うのに」
「人助け…?」
「キミはこの少女を助けたくはないの?」
「…助ける?…助けるったって、どうやって…」
「キミは昨夜この少女といた。ふむ。あやめちゃんと言うんだね。本当に覚えてない?」
「…全然」
「今回目星をつけてるペルソナは、“精神系”のペルソナだ。人間の肉体を媒介し、自らの生命力を強化する。これ、コピーだけどあげるよ。保安部のリストの一部だ」
足元に落ちた一枚の紙。『Zoffy』。紙の一番上にそう書かれてあった。名前の下には切り抜きの写真が印刷されていた。写真に写っていたのは、どこにでもいそうな小さな体を持つ“蜘蛛”だった。
「ゾフィー?」
「コイツは何らかの目的で女性の体を乗っ取ってる。厄介なのは、親玉がまだ見つかっていないってことだ」
「親玉??」
「僕たちが発見しているのは、あくまで使い魔であるこの”子蜘蛛”たちだ。研究所で分析した結果、この蜘蛛たちを操ってる「親」がいると推測してる。子蜘蛛たちは人間の体の中に侵入し、全ての神経系を支配する。丁度蜘蛛の巣を、全身に張り巡らせるようにね?目的はわかってないが、多分自らの子供を産ませようとしてるんだと思う」
「ちょっと待て、話が見えてこないんだが…」
「キミは“養分”になったんだよ。「子供」を産ませるための」
「それと俺の脳みそになんの関係が…?」
「キミの「記憶」を拝借したい。そのために、脳の一部が必要なんだ」
俺の記憶…?
記憶って言っても、それがなんの役に立つって言うんだ?男が言うには、俺は子供を産ませるための養分になったそうだった。ストローで吸われた後のプラカップみたいに、中身がすっからかんになって干からびた。失った“組織”を戻すために、安静にしてなきゃいけないそうだった。
「キミがいつ、どこで、ゾフィーと接触したのかが知りたい。いちいちキミが考えなくても済むように、代わりに僕が、キミの頭の中を見ようって話」
「待て待てッ。そのためにわざわざ脳を!?」
「そうだよ?」
「もっと他に方法があんだろ!後遺症とか残ったらどうすんだよ」
男は軽くため息を吐きながら、手にしていたナイフを光の下に翳す。俺の言葉が気に食わないのか、そっけない表情を浮かべていた。終始にこやかな顔をしていたのが嘘のようだった。覗き見るようにナイフを見た後、ぼそっと呟く。
「だから言ってるでしょ。僕は“優秀”だって」
元々身動きは取れなかった。わずかな遊びがあるとはいえ、ほとんど自由は利かない。“死にかけていた“と言われたように、体全身の倦怠感がひどく、ダルかった。それでも少しずつ回復している兆候があった。数分前より、今の方が断然。
「違和感」を感じたのは、男が翳していたナイフとは別の手。
——なんだ、…あれ
ドクンッ
瞳孔が開く。喉の奥が急速に乾いていく。背中に悪寒のようなものが走って、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。男が左手に持っているもの。“それ”が何かを、すぐには理解できなかった。赤黒く、歪な形をしていた。筋のような線がところどころに入っていて、突起している部分が何箇所かある。驚いたのは、それが自発的に“動いていた”ことだ。一定の間隔で伸縮していた。そう、——それはまるで、生きているかのような…
「それ…は…?」
声にならなかった。自分の目にしているものが何か、考える時間が少しあった。ただ、それはほんのわずかな時間に過ぎなかった。俺の体の中で何かが消えている。その違和感に気づくのに、10秒も必要なかった。立っているようで、立っていない。サーっと汗が引いていく感覚と、領域。自分の意図とは裏腹に、目が“止まった”。釘付けになった。男が持っているものをまじまじと見て、それが自分の体の一部であることに気付いたんだ。耳の中から消えた「音」を探すように。何かを無くした感覚を、暗闇の中で探るように。
心…臓…?
「デモンストレーションだ」
男はほくそ笑みながら、手にひらに乗せた「それ」を前に突き出す。血生臭い臭い。間近に迫る鼓動。目には見えない透明な「箱」に入れられたように、その物体はドクンドクンと動いていた。空間から隔絶されたような“断面”があった。体から引きちぎられたような痕じゃなく、ましてや、鋭利な刃物で切られたような痕でもない。物体そのものを丸ごと移動した。印象としてはそれに近かった。ガラスショーケースの中に、そっくりそのまま瞬間移動でもさせたみたいな。
「僕はアンダーテイカーだ。キミたちの目指している、“異能者”の1人。その意味はわかるでしょ?」
「あんたが…?」
別に不思議なことじゃない。アンダーテイカーと呼ばれる異能者は、年々増え続けている。防衛軍に入る人間の約半数は、特別な力を授けられたものたちだった。保安部の人間がアンダーテイカーであったとしても、さして驚くようなことでもない。問題は、——そう、他にあった。仮に男がアンダーテイカーであったとしても、こんな“能力”、見たことが…
「これはほんのパフォーマンスだ。僕を信じてもらうためのね」
パフォーマンス…だって…?
胸に手を当ててみようにも、繋がれていて動けない。本当に心臓に無くなっているどうかを、確かめる手段はなかった。ただ確かに、心臓の音は消えていた。俺はアンダーテイカーの候補者で、ただの人間じゃない。常人よりもはるかに感覚は優れている。聴覚、嗅覚、視覚、触覚、——ありとあらゆる器官に優れ、身体能力だって同じだ。だからこそ、違和感を感じた。生きている心地がしなかった。アレが本当に俺のものなら、こうして立っていることも…
「そう強張らなくても大丈夫だよ。コレはまだキミの“手元”にある。僕の手にかかれば、メスを使わずともキミの体を解剖できる。ぽっかりと空いたキミの胸に、犬の心臓を当てはめることだってね♪」
「どういう…」
「“保存力“については、キミもよく知っているだろう?生物本来が持つ“存在しようとする力”で、物体そのものに内包される固有エネルギーだ。授業で習ってるだろう?違う?」
「まあ…」
あらゆる生物には“結び合う力”がある。これを「結合力」と言って、「個」を形成される時に用いられる力の源を指す。ここで言う「個」とは、…ややこしいから省くが、ある単位空間に存在できる「量」のことであり、物質を構成する原子同士の結びつきの強さの度合いを表している。
1箇所に留まろうとする力。
要約するとそんな感じか…?宇宙学の先生によれば、あらゆる条件下に於いて「同じ状態」を持つという空間や時間が存在していないらしく、“実体”という概念そのものが存在しない。宇宙が膨張しているという話を聞いたことがないだろうか?宇宙初期、——ビックバンが起こった138.2億年前から、現在進行形で宇宙は広がり続けているという。先生が言いたいことは複雑で、難解だった。“エネルギー”にまつわる話だった。アンダーテイカーと呼ばれるものたちには特別な力が宿っているが、その力の源となっているのは、物質本来が持つ“情報を保存しようとする力=原子核内の各核子(陽子、中性子)同士を結合している力“だそうだった。これを研究者たちの間では「核力」と呼んでいる。男が言う「ポテンシャルエネルギー」と言うのは、詰まるところ物体の内側に眠る潜在能力のことで、“場に留まろうとする力”のことを指している。物質は、原子という粒が集まってできている。原子には、正の電荷を持つ原子核と、負の電荷を持つ電子が含まれている。より掘り下げて言うと、原子のまん中に原子核と言うものがあって、その周りを電子が取り囲んでいる。“原子という粒が集まってできている”という物質の特性上、あらゆる物質には原子の“数”が存在し、原子の並びが決定づけられている。
なんのこっちゃって感じだろ?俺もよくわかってないんだ。ただ、その先生が言うには、原子や電子は絶えず振動していて、この振動が止まることはないそうだ。これを「原子運動」と呼んで、物質の硬さや壊れやすさ、生体機能の起源など、物質の特性に反映されている。
「僕は「改変(alter)」の能力を持っている。この“空間”は、僕自身が作り出した空間だ。「治療室」と呼んでいるのはそのためだ。この空間に於いて、僕は自由に物質を改造することができる」
「…チートじゃねーか」
「そんなことないよ。“基本原則”は変わらない。原子と原子を結ぶ原子間力。原子間力の結合の強さによって決まる、物質の性質。——“Ð(ドライブ)“のことは知ってるだろ?ドライブがもたらす強い核力は、物事を改変するだけの力がある。この領域はそれに基づいて形成されたものだ。「僕」という物質組織の原子間を外に押し広げたもの。つまり、この“場”において、キミは僕の“一部”と同義だ」
ドライブっていうのは、近年発見された未知の粒子のことだ。ドライブという素粒子を理解する上で、以下の文献を参考にしたことがあった。
■ 陽子・中性子はクォークと呼ばれる素粒子が3つ集まってできている。量子力学の基本的な原理であるパウリの排他原理によると、同じ状態のクォークが同じ場所に存在することはできない。これが陽子・中性子間に働く核力の短距離で現れる斥力の原因の一つと考えられているが、未だに実験的な検証がされていなかった。
■ 陽子内のクォークの種類を変化させた新奇な粒子と陽子とを散乱させ、クォークのパウリ原理で禁止される状態を作ることで、粒子間に働く力が極端に強い斥力へと変化することを明らかにした。これはパウリ原理による斥力の起源を検証し、その芯の堅さを実測したことに相当する。
■ 核力は、湯川秀樹博士の中間子論の研究で進んだが、引力だけだと原子核はつぶれてしまい、物質は存在できない。芯の本質に迫る今回の成果で、物質が安定して存在できる理由の理解が進むことが期待される。さらには新しいクォークを含んだ拡張された核力の解明が大きく進むと期待される。
この文献では、「物質が安定して存在できる理由」についての分析が行われていた。原子核を構成する源の力である核力は、陽子と中性子が比較的離れたときには引力だが、陽子と中性子が重なり合うような近い距離では大きな反発力(斥力)へと変化する。この神秘的とも言える引力と斥力のバランスのおかげで、原子核は自身の引力で潰れることなく安定的に存在することができている。しかし、この斥力を生み出すメカニズムの理解は、長年の課題だそうだった。
“なぜ核力が強い斥力の芯を生じるか”、——この謎の解明に向け、ドライブという素粒子は大きな貢献を果たしてきた。というのも、ドライブは原子間力に働く引力と斥力の中間の「場」を一時的に拡張することができ、それによって物質の性質を自由に変化させることができる領域を形成することができるためだ。アンダーテイカーたちは、このドライブと呼ばれる素粒子と自らの細胞を結合させることで、特殊な「力」を得ることに成功してきた。身体能力を強化したり、念動力のような意思の力で物体を動かすことができたり、自らの心象風景を具現化することができたり。
「僕は“変化系“の能力者だ。アンダーテイカーは三つの系統に分かれていることは理解しているかい?」
「それは勉強してる」
「オーケー。じゃあ話は早い。ドライブがもたらすもっとも重要な作用は、物質を構成する原子核内の運動の規則性を破ることだ。——つまり、一つの系の変形しうる度合い、【ある物理系の運動状態または平衡状態を表すのに必要な、任意に独立に変化させることができるものの数】を自由に増減させることができる。さて、ここで質問だけど、キミはこの世界をどのように捉える?」
「…は?世界??」
「僕たちアンダーテイカーが、”存在するようになった理由“。そのことについて」
「…そんなの、考えたこともない」
「そうなんだ。僕はしょっちゅう考えるよ。ペルソナたちが現れて、世界は一度壊れた。壊れた世界をもう一度作り直そうとして、僕たちは新たな「力」を手に入れた。この世界に実体はない。運命という概念も。魔法という便利な道具も。あるのは何の縛りもない「自由」だけで、そこに善と悪の境界はない。だから、さ。僕たちが得たこの「力」は、もしかしたらこの世界の”本来の姿”なのかなって思うんだ」
「本来…?」
「キミが抱える感情の一つは、何のために存在していると思う?キミはこれまでの人生で、何を目標にして生きてきた?」
「…復讐だよ」
「いいね♪じゃあその怒りの矛先は?何をもって「復讐」と定義付けてる?」
俺が、何を目標にしているか。
アンダーテイカーを目指そうと思ったのは、この腐った世界に抗おうと思ったから。家族を殺されて、大事なものを全て失った。昨日まであったものが、跡形もなく突然消えた。目の前で家族が殺されたんだ。友達も、大切な場所も、——何もかも。
「…奴らを、皆殺しにしてやりたい」
「奴らっていうのは、ペルソナのことかい?」
「それ以外に何があるってんだよ!」
「相当辛い思いをしてきたんだね。心中お察しするよ。でもね、僕が考えるに、僕たちがこうして何気ない日常を送っているのは、今世界で起こっていることと何も関係がないんじゃないかな、ってことだ」
「はあ??どういう…」
「僕たちの体を構成している物質は、原子という“粒”が集まってできている。原子の1つ1つは、素粒子と呼ばれる“粒”で結ばれている。こう考えたことはない?僕たちの「心」はどこにあって、「魂」はどのように構成されているのか」
「…全然」
「例えばキミが、ペルソナを憎むのも、憎まないのも、自由に選択できるとしたら?」
「意味が…わからないんだが」
「僕たちが自由に思考し、目の前の選択を選び取ることができるのなら、素粒子自身の“振る舞い”にも、自由な「軌道」や「余地」が存在するとは思わないかい?」
「振る舞い…つーのは?」
「考えてみなよ。原子核では絶えず原子運動が起こっている。原子の電子状態と運動状態の間の相互作用によって生じる現象を、“量子もつれ”という。『時間』と『分岐』はどこで発生するのか?『自由意志』とは何か?世界を構成する要素が「現象」という要素に束縛されているなら、この時点で僕たちに“自由”は無いということになる。なぜなら“現象”は僕たちが存在している、いないに関わらず、絶えず“起こって”いるからね。ということは、物質という固有情報は「存在」という定義に固定され、永遠に事象の“外”には出られなくなる。…ああ、悪い癖だ。ごめんね。話をややこしくしてしまって」
「何が言いたいんだよ…」
「そうだね。例えば僕が病院に行ったのは、“熱が39度を超えたから”とする。体温計を見た瞬間、僕は病院に行く決断をし、その後すぐに家を出た。まさにその瞬間に、病院に行く歴史が選択された。では体温計を見た瞬間が決断の瞬間で、この瞬間が病院に行く歴史と行かない歴史の分岐点に当たるというのは適切なのか?この例で言うと、哲学者が定義する「分岐点」とは、熱があって病院に行く歴史と熱がなくて病院に行かなかった歴史の双方を遡ったときの、その2つで共有する最後の歴史事象の時刻のことだ。体温計を見て、熱があったと分かった瞬間は、熱が無かった歴史の中では決して共有されないから、それは分岐点ではない、というロジックがある。そして自由意志が判断を下した分岐点はいつなのか?と問い出し、結局それは存在していないと述べる。このように、目の前の現象に寄与する要素の一つ一つは、さまざまな角度からの「自由」の境界が局所的に点在するんだ。僕たちの思考がいつ生まれ、また、それがいつ「分岐する=現在となる」のか。ドライブとは、物質の量、——【ある限られた時間や空間の中で連続的に動き回れる位置と範囲】の自由因子だ。世界はまだどの方向にも転ぶことができ、また、“いつでもサイコロを振り直すことができる”。だからこそ、ドライブという素粒子と結合した僕たちには、想像し得ない力を発現し、それをカタチにすることができるんだ」
男は心臓を俺の体の中に戻し、話を続けた。体に異変はなかった。少なくとも、異変らしい「異変」は。この奇妙な空間は男が作り出した空間だそうだが、胡散臭いことに変わりはなかった。“脳の一部を提供するかどうか”。話はまたそれに戻り、少女の顔が視線に入る。
獅童あやめ。
彼女のことはよく知らない。話したこともないし、目を合わせたことだって。そりゃ、助けられるもんなら助けてあげたい。彼女の身に何が起こったのか知らないが、何の罪もない人間を救いたいと思うのは、至って自然なことだ。“アンダーテイカーの候補者”といっても、か弱い女の子に違いはないんだ。”助けない“という理由がなかった。
「俺の脳を使って、どうやって助けんだよ」
「いい質問だね♪まあ、これは一種の賭けみたいなもんさ。今回のターゲットであるゾフィーは、人間の肉体を媒介して子蜘蛛たちの移動範囲を拡張している。あやめちゃんの体を乗っ取る前に、彼女に接近した人物がいる可能性があるんだ。例えば、彼女の友達とか、家族とか。「運び屋」と言った方がいいかな。ようは、子蜘蛛たちをばら撒いている「ブローカー」がいて、全国各地で暗躍してるってワケ」
「…それで?」
「キミの脳に保存された情報は、非常に貴重な資料になり得る。脳というのは、キミが思っている以上に“万能”なんだ。目に見えている情報だけが、脳の情報処理領域じゃあない。…おっと、またベラベラと喋っちゃいそうだから、この辺にしておくよ」
「彼女と、昨日会ってたって言ったよな?」
「そうだね」
「あんたどこまで知ってるんだ?」
「それはどういう意味かな?この事件のこと?それとも、キミの個人的なこと?」
「…場合によっては、どっちも」
「ふむ。実はキミが目覚める前に、ほんの少しキミの記憶を覗かせてもらったんだ。もちろん、常識の範囲内で」
「…覗いた?じゃあ、わざわざ脳を取り出さなくたってよくないか??」
「いやいや、あくまで“覗いた”だけだよ。僕が今求めているのは、キミの脳みそ。取り出したキミの脳と僕の脳を融合するんだ。そうすることで、覗き見るとは比べ物にならないほどの情報を得ることができる。キミが昨日いつ、何をしていたか。顕微鏡で覗くみたいにね」
「怖…」
「悪用はしないと約束するよ。君のプライベートに興味はないし。あくまで今回の事件に関わること、それについてのみ利用させてくれたらと思ってる」
「拒否権はあんのか?」
「もちろん♪キミの意見は最大限に尊重する」
「…そのわりに随分楽しそうだが?」
「僕は人と対話する主義でね。自分の都合だけを押し付けたくないんだ。だってそうだろ?「言葉」は常に対等じゃなきゃ。力ずくで物事を解決したって、そこに「品位」はない。解決しようと思えばいくらでも方法はあるけれど、僕はキミの協力の元、この事件を解決したいんだ」
「…何で??」
「その方が美しいだろ?僕がいなければ、キミはもうこの世にはいない。この出会いを大事にしたいんだ。今日という「出来事」をね」
言ってることがよくわからないが、男に敵意はないことは感じられた。少女を助ける。そのために脳の一部を提供する。何が正解かなんてわからなかった。鎖で縛られたこの状況で、抵抗する力さえなかった。心のどこかで、“どうでもいい”とさえ思えた。助けたって何になるんだ?俺には俺の人生があるし、「脳」の一部だぞ?後遺症はないって言うが、そもそもそういう問題でもない気がした。第一、提供したってそれが役に立つとは限らないんだろ?
「あ、そうそう。言い忘れたけど、キミがまともな思考ができているのは、この空間にいるからと思った方がいい」
「へ??」
「キミが接触したペルソナは、キミとも直接接触してる。ゾフィーはただのペルソナじゃない。危険度はBか、それ以上だ。ヤツはキミの心に侵入し、キミの精神を崩壊させた。肉体を破壊する前に、まずは精神からってね。ゾフィーはキミに幻覚を見せたんだ。キミを“壊す”ための幻覚を。その幻覚は実際の出来事に通じるほどの質感と刺激を神経系に与えていた。キミの精神を攻撃し、内側から操ったんだ。負の感情は、ペルソナたちにとっての“養分”だからね」
「…どんな、幻覚を?」
「それについては思い出さない方がいい。それでも、思ったより深いダメージだったみたいだね。キミの脳の一部をもらうと言ったのは、キミを助けるためでもあるんだ」
「俺を…?」
「キミのこの1年間の記憶を消去する。良いことも、悪いことも全部ね。それと、キミにとって都合の悪い感情も削除してあげよう。ここだけの話、「復讐」とか、そんなつまらない理由でアンダーテイカーは目指さない方がいい。いつか限界が来ると思うよ。本当に優秀なアンダーテイカーになろうとするんだったら、だけど」
ほくそ笑む男の表情はどこまでも軽快で、隙がなかった。脳を提供することで、この1年間の記憶を失う。そんな代償を払いたくはなかった。今は記憶が混同してるが、この1年間であったことは、俺の人生で大事な時間だった。それは、思い出すまでもなかった。アンダーテイカーとしての知識、技、能力、——そして何より、クラスの友達や、レイナのことが。
…あれ?
「どうかしたの?」
「アイツの顔が思い出せないんだ…。いつも一緒にいたんだ。俺の、俺にとっての…」
「キミにとっての?」
「大事な人…」
…なんで、思い出せない?
ずっと近くにいた。いつも隣にいた。出会ってまだ一年だけど、彼女から色々教わったんだ。戦い方や、日々の過ごし方。何より、初めてできた“友達“だった。高校に入ってから、閉じていた心に光が差したんだ。少しずつ、何気ない日常を過ごしていく中で——
「うわああああああああああああッ——」
突然の頭痛。激しい痛みが、全身を襲った。彼女の顔を思い出そうとすると、ナイフで切り裂かれるような鋭い感触が、頭の中を駆け巡った。わけがわからなかった。
「このままキミを外に出すこともできるけど、多分キミは、立ち直れなくなるんじゃないかな?」
「………ハアッハアッ………………なに…言って……」
「どうするの?提供する?しない?」
手首から血が滴り落ちてくる。苦しみのあまり頭を掻きむしりたくなって、暴れまくった。そのせいで手首の拘束具が皮膚に食い込み、肉が千切れた。痛みで気を失いそうだった。
レイナ
…レイナ
思い出しちゃいけないことが、頭の中にある気がした。レイナの名前を頭の中で呼び起こすたび、ぐちゃぐちゃになる景色があった。昨日のこと、——一昨日のこと。継ぎはぎの時間や映像が割れたガラスのように飛び散って、頭の中を駆け巡る。灼けつくような熱さがこびりついたように離れない。彼女の瞳、笑顔、——それから…
「人間の心は、僕たちが思っている以上に繊細で、脆い。放射線物質を大量に浴びた人間の体は最終的にどうなると思う?細胞の内部にまで損傷が及び、ひどい時は人間の形さえ留めない。DNAを傷つけ、修復不可能な状態にまで陥るんだ。ゾフィーはキミの精神を破壊した。直接神経に働きかけ、より高度なダメージを与えたのだろう。“完璧な養分”へと熟成させるために」
「……ゼー…ゼー……」
「修復するには記憶を消し去るしかない。“物理的に”なかったことにするんだ。それとも、自力でなんとかする?」
男が何か言っている。苦しみでどうにかなりそうだった。思い出しちゃいけないことがある。口に出しちゃいけない言葉がある。それが何かははっきりわからなかった。噴き出る汗がボタボタと床に落ちて、痙攣のような震えが、下から這い上がってくる。その時、俺は幻覚を見た。…いや、それが幻覚であるかどうかは、正直わからなかった。床には隙間もないほどに覆い尽くされた蜘蛛がいた。黒く、野球ボールくらいの大きさの蜘蛛たちが、波のように押し寄せてきていた。
「うわああああああああ」
近づくなッ
離れろッ!!!!!!!
足元から這い上がってくる。両足にはもうすでに皮膚が見えないほどの数が、列になって登ってきていた。このままじゃ殺られる…、このままじゃ——
「おい、あんた、なんとかしてくれよ!!!!」
「それは合意したという認識でいいのかな?」
「なに悠長なこと言ってんだ?!見てわかるだろ??今すぐ何とかしないと、俺の体がッ」
「大事なことなんだ。承諾もなしにキミの体の一部をもらいたくはない」
「わかった、わかったからッ!早く何とかしてくれ!!!!!」
「そうかい♪じゃあこの契約書にサインして?後からギャーギャー言われるのはめんどくさくてね。じゃ、鎖を外してあげる」
ガチャンッ
錠が外れて、俺は無我夢中で差し出された紙とペンを手に持ってた。近づいてくる蜘蛛を追い払いながら、急いで壁に紙を押し付ける。
「ほらッ、これでいいんだろ!??」
「上出来だ。それじゃ、手術を始める前に伝えておくことがあるんだけど」
「何だよ!!?」
「手術後、もし困ったことがあったら都内の保安部を訪れるといい。この会話を思い出すことはないだろうけど、「僕の存在」は、キミの脳の中に植え付けておく。おそらく、自然と導かれるはずだ。その時にまたお茶でも飲もう。この件以外で、キミに少し興味があってね」
「どうでもいいから、早く何とか……!」
「はいはい。わかったよ」
それからどうなったのかは、よくわかっていない。迫り来る蜘蛛たちを振りほどきながら、にこやかに近づいてくる男の姿があった。沸き立つような全身の痛みと、静まる気配もないノイズと。俺の身になにが起こっているのか、振り返れるだけの余裕もなかった。急いで何とかしなきゃいけないと思った。俺の中で、何かが壊れていく感覚が、時間を追うごとに加速していって——
レイナ
最後に彼女の名前を思い出した時、俺は彼女と付き合い始めた頃のことを思い出していた。学校の図書館。本をよく嗜んでいた彼女が、ハシゴを使って俺の代わりに“ある本”を探してくれていた。1900年代にベストセラーになった古い小説。俺は本に興味はなかったけど、授業の一環で復習しておかなきゃいけなかった。ネットで調べることもできた。ただ、どうせなら直に触れてみようかなって思って。
彼女とは、度々街の図書館で会う約束をしていた。頭が悪かった俺は、彼女に教わりながら色んな本や資料に触れていた。彼女と一緒の大学に行きたくて、日常の合間に少しでも勉強しようと思ってたんだ。彼女に比べて俺はろくに勉強もしてこなかったし、将来の目標だって、ずっと曖昧なままだったしさ?
今頃、彼女はどうしてるだろうか。
元気にしてるだろうか。
もう一度、彼女に会うことはできるんだろうか——




