【一話】ゆうしゃさま、はじめてのおやすみ
「……勇者様、本当に行ってしまわれたな」
帝国騎士団本部。
石畳の中庭に集った騎士たちは、誰からともなく空を見上げていた。
「魔王軍が討伐されたとはいえ、帝国の安寧が保証されたわけではない」
「それでも、国王陛下がお許しになったことだ」
若い騎士が腕を組んで唸ると、年嵩の騎士が小さく肩をすくめた。
「十年以上だ。剣を置く暇もなく、世界のために戦い続けてこられた。褒章の一つや二つ、あっても罰は当たらんさ」
「だが、よりにもよって褒章に望んだのが――」
「「「休暇、とはな」」」
騎士たちの声が綺麗に重なり、全員が頭を抱えた。
*
東京都墨田区。
空を貫くようにそびえ立つ巨大な塔の真下に、一人の少女が立っていた。
長い鴇色の髪を一つに束ね、まだあどけなさが残る顔立ちに、輝く金色の瞳。そして、この世界では明らかに場違いな鎧姿の完全武装。
人々は一瞬だけ彼女を見て、視線を逸らす。
見なかったことにするには、少々目立ちすぎる存在だった。
少女――リントゥーエルンは、ゆっくりと息を吸った。この世界の空気を、肺いっぱいに満たす。
「……瘴気なし。今のところ魔物の気配もなし」
満足そうに呟く。
手首にはめられた魔道具が、微かに震える。外見は異界の腕輪――この世界で言うところのスマートウォッチに酷似していた。
『リントゥーエルン、周囲は安全か?』
雑音混じりの声が響く。
長年、背中を預けてきた魔法師のしゃがれた声が、すでに懐かしく感じる。
「問題ない。マナは薄いが、活動に支障はないかな。治安も悪くなさそう」
『……視覚共有が効かん。そちらの世界、マナが不安定すぎる』
「確かにね。大きな魔法は使えないかも」
『危険度の低い世界を選定したはずじゃが、一応気をつけろ』
「誰に言ってるんだか」
勇者は微笑み、魔法師は鼻で笑う。
『しかし、なぜ異界で休暇を?』
リントゥーエルンは、少しだけ考える素振りをしてから答えた。
「どこへ行っても“勇者様”と呼ばれるのは、正直疲れる」 「隠居は退屈だし、旅に出ても既視感しかない」 「それなら誰も私を知らない場所で、自由に過ごしたい」
思いの丈を述べると、数秒の沈黙が流れる。そして、
『貴様ァァァァ!!』
怒声が魔道具から噴き出した。
『そんな理由で一世一代の大魔法を使わせおって!!』 『転移座標の固定がどれほど――!! 調整が!! 計算が!!』
言葉は次第に悲鳴に変わり、雑音に飲み込まれていく。
『この阿呆が……っ……な……!……』
ぷつり、と通信が途切れた。
「……切れたな」
リントゥーエルンは魔道具を軽く叩く。
「やはり、マナが不安定だ」
視線を上げた先には、東京スカイツリーがある。
石でも、魔力結晶でもない素材。魔法の理に従っていないにもかかわらず、あれほどの規模を保つ建造物。
「――なるほど」
勇者は目を細めた。
「異界のダンジョンか」
仲間の血と、魔物の臓腑に塗れ、一瞬の油断が世界の終焉に直結する戦場を生き抜いてきた彼女は、生まれて初めて「使命のない時間」を手に入れた。
勇者という役割を脱ぎ捨て、ただの少女として、異世界に降り立ったにもかかわらず、その内側から芽吹いた欲望は、驚くほど単純で、純粋だった。
「あのダンジョン、攻略したい」
――彼女は、生まれながらの勇者だった。




