第1話:剣聖の一生
二振の剣がある。
名を、白鴉と黒鷹という。
双方共に華御家に代々伝わる名刀だ。
「こいつがうちに代々伝わる宝刀かぁ」
ある少年がまじまじと、刀座にて飾られた二振を見やった。
この二振にはある不思議な力が宿っている――その手の話は、幼い子どもならば誰もが関心を惹こう。
肝心の不思議な力については、実は未だよくわかっていなかった。親に聞いても知らないとだけ返された。
いったいどのような不思議な力があるのだろう。成長していくにつれて、子どもの頃の関心など薄れていく。
そうなるのが普通だが、その少年は違った。
「――、ふむ。今日もこれといった成果はなしか」
青年はそっと一息吐いた。あの時の幼子は齢十八を迎え、今やすっかり大人びている。
あどけなさがわずかに残ってはいるものの、端正な顔立ちは凛々しい。
赤々とした輝きを宿す眼光は優しく、それでいて炎のようにとても力強い。
すらりと伸びた身長は五尺六寸と、平均身長が五尺ほどの男子にしては高い。
そんな青年の手には、あの二振がしかと握られている。白鴉と黒鷹である。
双方共に刃長は二尺三寸で、重ねが非常に厚く剛刀と呼ぶに相応しい造りだ。
そして最大の特徴は、白と黒――本来の刀にはない輝きを有していた。
他にはない魅力はこれまでにも数多くの武芸者たちの視線を奪った。
それだけの魅力ある刀だが、肝心の不思議な力については未だ謎に包まれたままだった。
「もし、坊ちゃん」
妙齢の男がそっと声をかけた。名を、権蔵という。数少ない彼の従者である。
「ん? あぁ、権蔵さんか。どうかしましたか?」
「いえ、今日も朝早くから修練を成されていると思いましてね」
「修練は俺にとってはもう日常茶飯事ですから――今更やめようなんて思いませんよ」
「へぇ」と、権蔵は静かに頭を下げた。
「ところで」と、権蔵が不意に口火を切った。
「いかがですか? 進捗のほうは」
「全然だめですね」と、あっけらかんと返す青年。
「あれこれと色々と試してはいるんですが、これといって未だ成果は出ずってところですね」
「そうでございますか――まだ、坊ちゃんは不思議な力について探求されているのですね」
「もちろん! どんな不思議な力があるのか、ぜひとも俺は見てみたいんです」
青年の言葉に嘘偽りはない。ぎらぎらとした眼光と同じように鋭く真っすぐな言霊だ。
「だが、このままじゃあいつ成果が出るかわからないのもまた然り。どうすればいいのか……」
不意に「そうか」と、青年はもそりと呟いた。
「坊ちゃん?」と、はて、と小首をひねる権蔵。
そんな彼に青年はにっと不敵な笑みを返す。
「天下無双だ」
「え?」
「天下無双……つまり誰よりも強くなればきっと不思議な力がわかるかもしれない!」
青年の言葉はやはり真っすぐだ。己の発言について彼は一切疑っておらず信じ切っている。
「いや、それはちょっとどうかと……」
権蔵が困惑するのも無理はない。青年の発言はあまりにも常識から外れている。
とはいえ、肝心の青年の耳にはもう権蔵の言葉は届いてすらいなかった。
「そう言えば、近々西と東で大きな戦があるとかなんとか言っていたな……よし、それにまずは出てみるか!」
「いやいやいやいや! い、いくらなんでもそれは早計がすぎやしませんかね!?」
「善は急げって言うじゃないですか」
「いや、だからって自ら死にに行くようなことをしなくても……」
「権蔵さん。俺は必ず、天下無双の男になってきます。その時までこの二振、預けておきますので!」
「あ、ちょっと坊ちゃん……って、行ってしまわれた……」
権蔵の制止も虚しく、青年はその場を颯爽と去っていった。
やがて、西と東とで大きな戦が起きた。
天下分け目の大合戦と謳われたそれは正しく、歴史に名を残すほどの凄烈さを極めた。
勝敗は、辛くも西軍が勝利した。そうしてついに、泰平の世が訪れた。
争いのない世界は、やがて人々の暮らしを穏やかに、豊かにしていく。
その一方で、影を落とす者たちがあふれた。戦という生業を失った彼らは、武士たちであった。
「――、結局。ついにこの二振の謎を解くことは叶わんかったかぁ……」
雷神――かつてそう畏れられたほどの男も、例外なく年を取る。
いかに強かろうと人であるからには、時間という概念の前ではあまりにも無力だ。
鍛え抜かれた四肢も枯れ枝のように細く、それこそ呆気なく折れてしまいかねない。
顎から伸びた白髭は立派だが、瑞々しさを失ってしまった肌はひどく乾燥している。
炎のようにぎらぎらとした瞳も今や、風前の灯火が如く。燃え尽きてしまいそうな儚さをそこに宿していた。
「ワシ……俺は確かに天下無双にまで昇った。雷神とか剣聖とか、色々と言われるようになった。じゃが……それでもついにお前たちは応えてくれんかったのぉ」
もう握ることすらもままならない両手に、件の二刀を握る。
重い。若かりし頃は棒切れのように絶え間なくぶんぶんと振るっていたはずの太刀が、鉛のようにずしりとして重々しい。
持つことさえもやっとの状態だ。二度と振るう、などという真似はできそうにもなかった。
すっかりジジイになってしまったな、と老人は自嘲気味に小さく鼻で笑った。
戦なき後もずっと戦いに没頭した。しかし時間ばかりがいたずらに浪費された。
そして現在、いよいよ最後の刻を迎えようとしている。老衰である。
「はぁ……これが俺の最後、かぁ。まぁ、ある意味俺らしい終わり方ではあるが」
老人はふっと空を仰ぎ見やった。
清々しいぐらい青く、雲一つなかった快晴。
それが少しずつ、色鮮やかな茜色に染まりつつあった。
ここ、刀神山は剣豪たちの間では聖地として崇められている。
標高はおよそ五町と、霊峰不屍山と比較すると決して高くはない。
だが、老体で山頂まで昇るのは過酷の一言に尽きよう。老人は、それを見事成し遂げた。
「ふぅ……ここから見える景色は格別じゃなぁ」
夕陽がゆっくりと沈んでいく光景は、正に絶景だった。
自然が生んだ芸術の前では、どれほどの美術品もたちまち路傍の石へと変わる。
二振の宝刀とて、それは例外ではない。
「……なぁ、刀神山に住む神様。ワシは、これまでの人生に悔いはない。だが、二つだけ強いて心残りがある……」
老人はそっと二刀の視線を落とした。
「一つ目は、この刀が持つ不思議な力とやらが知りたかった。そして二つ、これはまぁ……生きていく中で気付いたことなんじゃが」
老人は静かに空を仰ぎ見やる。
「温かな家庭……つまりはその、女性経験がワシにはまったくないんじゃ。周りでは家内や子どもの話をする同志も多くいた。若かったころのワシはそこまで興味なかったが、今になってすこぶる興味がある」
独白し、老人は自嘲気味に鼻でふっと笑う。
もうすぐ死ぬ身だ。あれこれどう思ったところで過去には戻れない。
後悔先に経たず。実によくできた諺だ。老人はすこぶる本気でそう思った。
「だから、神様よ。もしこの先、ワシが再び人として生まれ変わることができたのなら……その時は、素敵な恋というものがしてみたいのぉ」
そこで老人はそっと目を閉じた。
ぐらりと老体が崩れ、そのまま地にどかりと横たわる。
たちまち心地良い睡魔が訪れ、老人はそれに抗わず自ら身を委ねる。
「えぇで」と、ふとどこかから流暢かつ軽い口調の声がした。女のようだった。
(……なんだ、今の声は。もしかして……)
そこまで思って、老人は完全に意識を手放した。