最終話
柔らかい風にのった芝生の匂いを感じて、リーエの意識は浮上する。
ゆっくりと瞼を開くと、朝焼けの空に薄雲が流れていくのが目に入った。
緑葉が透ける木漏れ日、それから木の幹に凭れかかり、こちらを見下ろす朱色の瞳をした男。
わりと近めなその距離と、後頭部に当たる寝心地の悪い骨と筋肉の感触によって、いま自分は彼の膝を枕にさせてもらっているのだろうなと、リーエはぼんやり理解した。
「……また、木陰に移動させてくれたの?」
「え?」
「一番最初の不聖脈の時も、こうやって台座から木陰に移動させてくれたでしょ」
「…………」
アルマンは問いには答えなかった。けれど少しだけ顔を綻ばせて、「目が覚めたなら早く起きてください」といつもの世話焼きオカンみたいな台詞を言う。
それが彼なりの肯定だと都合よく受け取って、リーエはよいしょと身を起こした。
視界がぐんと高くなると、芝生の先にある白い石版――光整者ハインの墓が目に留まる。
彼が遺してくれた、リーエ達を空に打ち上げた“飛光機”はもう背中に無い。確かに背負っていたはずなのに、塵ひとつ残さず跡形もなく消えている。
「……“飛光機”は、俺が目覚めた時には既に消えていました」
辺りを見回すリーエが何を探しているのか分かったのか、すかさず後ろの補佐官から補足が入る。
「あの莫大な動力の消費からして、最初から一回だけの使い切りだったのかもしれません」
「……そっか」
一抹の寂しさを抱きながら頷いて、そのままリーエは膝でズリズリと移動する。「歩かんかい」とでも言いたげなアルマンの視線を受けつつも、無事に彼の隣に到着し、すとんと腰を落ち着けた。
それから木の幹にゆっくりと背を預けて、リーエは自分の身体を黙って見下ろす。もう光り輝いてはいない、いつも通りの自分の身体を。
「……不聖脈のことだけど、」
そっと口を開くと、隣にいるアルマンがこちらを向くのが目の端で分かった。それでも顔は正面に固定したまま、リーエは話を続ける。
「不聖脈は、私に成り代わろうとしたんだと思う」
『そっくりな偽者を用意して、本物を知る近しい人間を消しにかかる――それで得られる結果が何なのか、よくよく考えることだね』
これは聖墓の隠し部屋でハインの手記が告げた言葉だ。この意味が、今ならリーエにも理解できる。
「私を不聖脈に似せた魔獣に飲み込ませて、真っ黒な空間……たぶん“地の巡り”の中に閉じ込めようとした」
不聖脈に触れた後、通常であれば光整者は地の巡りを通って聖墓へと運ばれる。
大地の下に張り巡らされた、目には見えない女神の力の通り路を使い、聖墓の下にある“大聖脈”へと向かっていく。
……けれどもし、その正しいルートではなく、出口のない誤ったルートに光整者を引き摺り込めたなら?
誰にも見つからない、人智の及ばない領域で終わらない幻覚を見せ続けたなら?
生身である光整者はいずれ衰弱し、本人すらも気づかないまま緩やかに死へと向かっていく。
そうして不聖脈は本物のリーエを葬り去り、彼女に成り代わろうとした。
完全なこちらの不意をつく形で聖墓に現れたのも、他の人間がいない、成り代わるための絶好の機会だったからだ。
突如として聖墓の頭上に巨大な不聖脈が現れた後、それをわざと消して聖墓から無事に帰還すれば、見事にリーエは浄化を果たしたのだと、それが本物だと周囲は信じて疑わない。
リーエが持つ記憶や感情を糧にして、不聖脈はそうするように変化した。
「……魔獣が見せた幻覚の中ではね、私は一人で不聖脈の浄化を進めてた」
不聖脈についての深い知識があって、頭も良くて。剣も槍も弓も得意で、武芸の才能に溢れていて、馬を扱うのにも長けていて。
リーエが焦がれてやまなかった、光整者として選ばれるに足る特別な人間として生きていた。
けれどその一方で、身体に無数の傷を負って、感情をどんどん殺していって、幼い頃の大切な記憶さえ、どうでもいいと切り捨てて。……ずっと心の奥底で、「誰か代わって」「助けて」と叫び続けていた。
その姿は、幻覚が見せたまやかしの自分だと切り捨ててしまうにはあまりにも悲痛で。
それはきっと、どこかでボタンを掛け違えていたら、誰かの存在が欠けていたら、充分にあり得ていた未来だった。
「……だから、だからこそ、」
そこで言葉を切って、ようやく隣に向き直る。
いつもみたいに真っ直ぐこちらを射抜く朱い瞳を、橙色の瞳が射抜き返す。
「アルマン補佐官、ありがとう。ずっと私の隣にいてくれて、私の導になってくれて」
リーエがそう告げた瞬間、アルマンは眩しそうに、まるで天高く輝く太陽を仰ぐ時のようにして目を細めた。
それから隣を向いた拍子に頬にかかったリーエの横髪を払ってやろうと手を伸ばして――指先が彼女に触れる寸前で、ぴたりと止まった。
「…………」
「アルマン補佐官?」
「……貴女に触れても?」
「うん。もちろん!」
微笑んで頷いたと同時、リーエの身体は目の前の男に抱き寄せられる。
予想の斜め上をいく触れ方をされたリーエはというと、嬉しいやら恥ずかしいやらで目を白黒させ、最終的に「お、おお……!」と腹から謎の感嘆の声を上げた。
「……これから、本を書こうと思います」
「ほ、本?」
突然耳元で告げられた執筆開始宣言に、リーエは目を瞬かせた。
「俺が持つ光整者や不聖脈についての知識や、不聖脈の浄化にあたって見聞きしたものを記した本です。……俺は数百年先を生きることはできませんが、本ならば、それも可能でしょう」
「それって……」
覚えのある言い回しに、リーエはアルマンの胸に軽く手を置き、少し身体を離して彼を見上げる。視線が交わると、隠し部屋に行く前に石段で交わした会話が脳裏に甦った。
『……アルマン補佐官が、数百年後もずっといればいいのにね』
『……俺は不老不死ではありませんが』
『ちがうちがう、そうじゃなくて。なんて言うか……私の次の光整者にも、その次にも、アルマン補佐官みたいな存在が側にいればいいのに、っていう……』
『……私はきっと、運がよかった。周りに恵まれて、何より貴方がいつも隣にいてくれた』
『でも次の代や、またその次の代の光整者も私みたいに運がいいとは限らない。どう進めばいいか分からなくなって、途方に暮れてしまうこともあるかもしれない』
『…………』
『だから、そういう時に何か手助けになるものがあったらいいのになって、思ったというか……』
それは、あの時何気なく口にしたリーエの小さな願いだった。それを今までずっと、彼は心の中に留め置いてくれていたのだろうか。
「……はるか昔から今に至るまで、不聖脈に関することは、すべて光整者頼りでした」
「…………」
「まだ貴女が選ばれる前、俺が光整者候補だった頃は、それは当然のことだと思っていました。女神の力を得て、特別な存在となるのだから、背負うものが大きくなるのは当たり前だと。……けれど、決してそうではない。そうではいけない」
「……うん」
「これから先の――あまねく輝く光整者のために、俺は生きていきます」
かつて、彼の先祖であるハイン・ディレインは、光整者の立場から後世のためにできることを模索した。
そして今度はアルマンが、光整者でない者の立場から、後世のためにできることを模索していく。
「これは、貴女が導となって俺に示してくれた道です」
「!」
アルマンのその言葉は、リーエの心を震わせるには充分すぎるものだった。
一度は彼がずっと待ち望んできたものを奪った自分だ。彼から与えられこそすれ、自分はまだ何も返せていないと、リーエはそう思っていた。
「だからどうか貴女にも、力を貸してほしい」
けれど、そうではないとアルマンは言う。リーエもまた、彼に多くのことを与えて、隣に立って強く支えていたのだと。
「これから先の未来を、俺と並んで同じ道を歩んでいただけませんか。光整者リーエ」
わずかに空いていた二人の身体の隙間を、再び埋めようと動いたのはどちらが先だったか。
そうして先程よりも近くなった距離で、リーエは瞳を煌めかせ、高らかに告げた。
「――当然です。貴方は私の補佐官ですから!」
(聖教会出版オマー・ケ著『王国偉人録』より引用)
アルマン・ディレインは、我が国の不聖脈研究において多大なる功績をのこした人物である。彼の伴侶でもある光整者リーエ・ディレインの協力のもと、彼が記した著書『光整録』は、元光整者候補であった彼の豊富な知識と、光整補佐官として不聖脈浄化にあたった経験に基づいて記された名著として有名である。
この著は後世の不聖脈浄化の際にも大いに役立てられており、光整者リーエの代から二百年後、次代として選ばれた光整者ロクスには「あの本がなければ私は不聖脈の浄化を成し得なかったであろう」とまで言わしめている。
なお、余談であるが、『光整録』には、はたから見ると妻リーエに対するアルマンの惚気にしか思えないような記録がいくつか散見されることでも研究者の間では有名であり、先述した光整者ロクスはこの著を自身の恋愛バイブルにしたという逸話がのこっている。




