2. 3Kの仕事
高校を中退し17歳ではろくな仕事に就けるわけもなく、いろいろと悪さをしていたので警察の厄介になることもしばしば、やがて「保護観察官」がついた。
日色さんというおばあちゃん保護観察官だ。
保護観察官がつくと毎月面談があり生活態度を報告しなくてはならない。
日々の過ごし方や雑談をしている中で私はポロッと日色さんに呟いた。
「なんか、やることないし物作りだったらやってみたいな~」
「本当に物作りをしてみたいの?」
「じゃあ、私が紹介してあげましょう!ここの社長さんを知っているから行ってきなさい。」
下町の金物工場の住所と面接時間を伝えられ、とんとん拍子に会いに行くことになった。
話しは進んで行くが自分の中の「物作りのイメージ」と実際はずいぶんと差があった。
生まれは下町葛飾、イメージしていたのは刀鍛冶だったり江戸切子だったり風鈴など、伝統工芸の物作りがしたいと思っていたが、実際に工場に行ってみると建築資材の部品などを作っていて、1メートル以上ある太いボルトや何に使われるのか、さっぱりわからない金属製の部品があちらこちらに積まれている工場だった。
素直に思った感想は、、、
「やっぱり、こんな感じだよね。」
「イメージと全然違うし汚ったねぇ。」
工場の社長と面談
「君が佐藤君か、話は日色さんから聞いている。来週から来れる?」と聞かれ、他にやる事もなかったので「来れます」と伝え、金物工場の社員となった。
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遅くなりましたが、この話の主人公「佐藤哲也」と申します。
実際の会社名や登場人物の名前はすべて仮名となりますが、事実に基づいた話になっております。
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私は工場の溶接部門に配属されることになった。
鉄やアルミなどを溶接する仕事で夏場の工場内は四十度を超え、体の中から塩分がすべてなくなってしまうほど汗をかく。
冬場は逆に工場が燃えないように建物すべてが鉄で出来ているため、熱を吸収してしまい暖房をつけても温まらず、酷寒の場所だった。
溶接とは防護面をつけた状態で近距離で花火を観察するようなものだ。
溶接の火花はいたる所に容赦なく飛んでくる。
仕事を始めた当初は、火花が背中に入った瞬間、熱さに驚き飛び上ってなかなか作業が進まずベテランの工員に怒られる。
17歳の工場正社員、初めての社会経験に面食らってばかりだった。
「これさ〜花火の中に顔突っ込んでるのと同じじゃん。背中に入るとマジで熱いしビビる。」
しかし次第に仕事に慣れていくと、火傷をしても我慢ができるようになっていったが、溶接のガンを持つ右手は皮膚病のように見える無数の火傷跡が増えていった。
夏場は滴る汗を抑えるため、頭にはハンドタオルを巻いて作業をしていた。
作業中にパートのおばさんが
「佐藤君!頭が火事だよ」と指摘される。
頭から煙が立ち上りタオルが燃えていることに大騒ぎをした。
また溶接の光から目を守る、溶接専用の面を被って作業をしていたので、光が遮断されて周りを見ることができない。
「アチィ」と思った瞬間、
「うわ〜ッ!結構な勢いで作業着燃えてるし!」
慌てて消すが穴あきズボンになってしまうこともあった。
効率を重視するあまり、溶接の面を付けずに溶接をしたり光が完全に消える前に光を見てしまったり、少しの間なら問題ないのだが、たくさん浴びてしまうと夕方になり目がゴロゴロする。
小石でも入ってしまったかのような感覚に陥るのだ。
これを隠語で「目玉焼き」という。
目を閉じていようとも溶接の紫外線は強すぎて、瞼を貫通し眼球を焼いてしまうのだ。
その夜は目の中に取れない小石が入った感覚になり、涙が止まらず眠たいにも関わらず眠れない。
「あ〜、俺アホだ。紫外線が強いなら日焼けができて、顔黒くなるかな〜?なんて試さなければよかった。」
この頃は今とは違い、ギャルは「ガングロ」が流行り、男も日焼けをしている方が健康的で良いとされている時代だった。
目を焼いてしまった時は一晩中、ゴロゴロとした異物感に
「マジで助けてくれ~」と思わず叫んでしまうくらい「目玉焼き」は辛かった。
3Kの仕事というものが、どういうものなのか生の現場の情報をもう少し紹介したいと思う。
工場で働く工員には指の無い人が多い。
(※やくざがケジメを付けたわけではない)
効率を重視するあまり、鉄などをカットする大型プレス機のストッパーやセンサーを外してしまうのだ。
昭和時代にありがちな光景だ。
この年は平成7年だったと思うが、、、
いくら慣れている工員とは言え、何十万回と作業をしていれば「アッ、いけね」と思うこともあるだろうし、二日酔いや体調の悪い日だってあるだろう。
そういうちょっとした瞬間、恐ろしい事に指を潰したり落としてしまう。
想像するだけで怖すぎる。
そして思い出すのは油だ。
鉄の強度を増すために焼入れする時、熱した鉄を油の中に沈めるのだ。
工場中に「ジュアー」という音と共に、蒸発した油が充満する。
当たり前のように普段から行われるので、気にせず作業をするのだが呼吸をするたびに口の中に油の風味が広がり、嗅覚も段々と鈍くなってくる。
油が滴る部品を加工するので手にも油が染み込んできて、爪の間は真っ黒になるのだ。
隠語「ピンク」というものを知っているだろうか?
(※卑猥な風俗ではない)(笑)
ガテン系の人なら知っているだろう。
(ガテン系、すでに死語?)
ピンクと言えば皮膚がガッサガサになる、あの石鹸の事だ。
粒子がかなり荒く頑固な油汚れも皮膚の潤い事すべて持っていってくれる強力な石鹸のことだ。
しかし爪の中の黒い汚れはピンクでもなかなか落ちない。
風呂場でボウズ頭をシャンプーで良く洗うと、やっと爪の中まで綺麗になるのだ。
汚ったねぇ油もボウズ頭があれば汚れがキレイに落とせる。
頭に汚れが残っていそうなのは決して気にしてはならない(笑)
自分の手を見つめて
「こんな皮膚病みたいな手と油が染み込んで黒ずんだ指じゃあ、いつか彼女の手も握れなくなりそうだ。」
といつも思っていた。
3Kの仕事がどういうものか、お分かり頂けただろうか。
(危険)(汚い)(キツイ)
頭文字を取って3K
昔はこういう仕事がたくさんあったし、すでに知らない世代もいると思う。
中卒の学歴では良い仕事にはつけないという経験をしたので詳しく書きたくなった。
通い始めて数日後、会社に保護観察官の日色さんが来ていたことに驚く。
「真面目にやっているか勤務態度でも聞きに来たのか?」と思ったが、今まで身分を隠していた、お貴族様のように登場し、実は先代の社長夫人で会社の会長だというネタバラしがあった。
いきなり来て、すぐに仕事につけたことをおかしいと思っていたが、こういうのは大体裏があるものだ。
3Kの仕事に付きながらも辞めずに働いていたが、日々のある出来事が自分の方向性を変えることになる。
昼休みになると、工場の最上階である4階に上がり15畳ほどの剥げた畳があちこちに目立つ部屋で、足の低い木目調の長テーブルで仕出し弁当を食べる。
昭和の高度成長期から、何一つ変わっていないような食堂兼休憩室だ。
昼食時間は決まって、NHKが流れており毎日同じ調子の放送は、時代が止まってしまったかのような空間を演出していた。
社長と工場長は学のある話し方をするが、一般工員の昼食時は決まって酒とギャンブルとスケベな話をしていた。
17歳の私には、とんでもなく下品に映り、心の声はどんどん強くなっていく。
「オヤジ達、いっつもスケベな話に競馬と酒の話題ばっかり。」
「それしか話すことないのかよ!」
「ここで長く働けば、いつか俺も同じような大人になっていくのかな?」
「なんかそれだけは嫌だな〜」
そんな思いが積み重なり「もう一度、学校に通おう」と決意をすることとなった。
この時代に中卒ですぐに雇ってくれる仕事なんて3Kの仕事しかなかった。
今でも中卒ではかなりヤバい仕事しかないだろう。
やっぱり高校くらいは卒業しておいた方が良い。
大人になってから高校に行く方がみんな年下ばっかりだし意外と楽しかったりする。