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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

世界が終わる日はこないだオープンしたモロッコ料理で

 食べ歩きが趣味の毬花と麦子。久しぶりの麦子からの誘いで二人は最近オープンしたモロッコ料理屋を訪れる。だけどその店は微妙に残念なお店で?

 半分くらい飲み食いして、残りは少ししんみりするお話です。

「あした世界が終わるとしたら、何する?」


 そんな定番の話題が出たのはどこの店で食事をしていた時だっただろうか。

 私と麦子にとって、その問いの答えはある意味簡単で、ある意味難しい。

 どこかのレストランで美味いものを食べるのは間違いない。だが、どこで何を食べるのかは大問題だった。

 もしかすると、私と麦子は人生の最後に食べる価値のある店を探すために、この東京を延々と食べ歩いているのかもしれなかった。



◇   1   ◇



 私と麦子が出会ったのは、この店でのことだった。

 あの日の私は、当時付き合ってた男に連れられて行ったフレンチが最悪で、それがいかに舌と胃袋とフランス文化への冒涜だったかを、とにかく麻美先輩に聞いてもらいたくて、この店に来ていたのだった。

 麻美先輩は私の高校と大学の先輩で、卒業後紆余曲折を経て、今は小さなバーの雇われ店長をやっている。この店というのは、つまり麻美先輩のやっているバーのことだ。

 前菜から魚料理、肉料理、ワインにチーズ、デザートに至るまで文句をいいまくっていた私に声をかけてきたのがあいつ、道原麦子だったのだ。


 麦子は化粧っ気がないというべきかナチュラルメイクというべきか悩む童顔に、油断するとすぐに跳ねるくせっ毛をしていて、いつもニコニコしてるもんだから、顔以上に幼い印象を周りに与える女だった。

 その店に一人で食べに行って(仏蘭西料理(フレンチ)のフルコースを女一人で!?)がっかりしたという麦子と、ひとしきりその店の文句で意気投合して、それ以来、私達は気になる店に一緒に食べに行くようになったのだった。

 麦子とは、いろんな店に行った。フレンチ、イタリアン、スペイン料理にロシア料理、トルコ料理にハンガリー、ベトナム、メキシコ、四川に北京、延辺料理、牛に羊にジビエにちょっとここに書くのが気が引けるものまで。

 貧乏旅行が趣味だったという麦子は、行ったことのある国の料理を食べると、その国に行った時のことをよく話し始めた。私は海外旅行とは縁のない人生を送ってきた人間で、本で願望を満たしていた口だから、麦子の生の体験談はいつも面白かった。

 そんな麦子も今は旅行はしてないらしく、そのせいなのかは知らないが、世界のいろんな国の料理を食べることに貪欲だった。

 二人で開拓した店には当たりの店もあったが、どうしようもないハズレの店にもたくさんあたった。そんな時には麻美先輩の店に来て愚痴るのが私たちのルーチンだった。


「町田ー、最近、あいつ来ないね」


 私がそんなことを考えていたからというわけでもないだろうが、グラスを磨いていた先輩が聞いてきた。町田というのは私の名前だ。町田毬花。

 先輩に名字で呼び捨てにされるのは高校時代から続いているもので、呼ばれると、私はなんとなく学校の横にあった通称〝地獄坂〟をランニングしていた時のことを思い出してしまう。

 高校時代には、もうちょい面白おかしい思い出もあったはずなのだが、どういうわけか最初に思い出すのは毎日走っていた地獄坂のことだった。


「あー、なんか連絡来ないんですよね」

「たまには残念回やってくれないと、今月赤字なんだけど」

「いや、そんなにうちらに経営依存しないでくださいよ」


 それに残念回を前提にしないでほしい。私はいつだって、新しく行く店がいい店であることを願っているのだ。

 それはそれとして、そういえば随分ご無沙汰だなと、スマホを取り出す。

 すると、それが何かの合図だったみたいに、麦子からのLIMEが届いていた。



 ……一応補足しておくと、その男と別れたのはその店が最悪だったからではない。店を知らないなら聞いてくれればいいし、むしろ私にだって行きたい店はある、無限にある。それに、予算が厳しいなら私は割り勘でもいいのだ。

 自分の知ってる店に連れていって、男がおごるという形に拘るくせに、あんな冒涜的なフレンチとは何事だと、少しオブラートをはがして言っただけだ。



◇   2   ◇



『大黒駅近くにモロッコ料理屋ができたらしいんだけど行ってみない?』


 結構、久しぶりだったはずだが、麦子のLIMEは手短なものだった。まあ、こいつは元々こういう奴だ。基本マイペースで、口数は多いが文字数は少ない。


『いいねモロッコ。タジンにクスクス、ミントティー?』


 私の返信に対する麦子の反応は「正解です」と言っているような、どこかうざい顔のウサギのスタンプだった。

 私は週末の予定もなく、麦子もいつでも大丈夫だというので、今度の土曜に麦子が予約を入れるということで決まった。



「いや、誰だよ!?」


 待ち合わせに指定されたデパート内のコーヒーショップ、やって来た麦子に対する私の第一声がそれだった。

 私の知ってる麦子は太ってるとは言わないが、まあ、自然にふっくらした肉付きをしていた。それが、明らかに贅肉がなくなって、健康的に痩せたという印象を通り越していた。


「ダイエットで断食でもしたの」


 基本自由でマイペースな奴だが、何かショックなことでもあったんだろうか。


「まあ、そんなとこ」

「どんなとこだよ」


 これはツッコミであって質問ではないので、麦子も答えないし、私も詮索したいわけではない。それが私達の距離感だった。

 それはそれとして。


「ちょっと来なさい」


 そういって、ほぼ飲み終わったコーヒーを残して、麦子をコーヒーショップ横の化粧室に引っ張っていく。


 洗面所と壁一枚隔てた化粧スペース、鏡の前に用意された椅子に麦子を座らせる。そして、携帯用のヘアブラシで麦子の乱れまくった髪をとかしはじめた。

 距離感とか言っておいて、相手の身だしなみに口を出すのかとお思いだろうが、こいつは結構お高い店にも(一人でも)行くくせに、その辺があまりに無頓着なのだ。そして、天然なので(さすがにまったく化粧してないという意味ではない。性格の話だ)、私がいじろうと文句は言わない。

 麦子はクセっ毛なので、多少ラフな感じになってしまうのはどうしようもないのだが、さすがに今日のは乱れ過ぎだった。


「あんた、ちゃんとブラッシングしてるの?」

「いやー、風が強くてさー」


 そうだったか? 疑問には思いつつ、まあ別にどうでもいいので、気にせずにブラシを動かしていると、退屈になったのか麦子が口を開いた。


「高校でさー、女子同士が髪とかしたりしてたじゃん。私、あれ羨ましかったんだよねー、ボッチだったからさー」


 じゃんといわれても、麦子と私は同じ高校だったわけではないが、まあ、確かにそういうことをしてるのを見たことは私もある。女子高だったしな。

 そして、麦子がボッチというのも何となくわからないではない。


「あんた自由だから、女子グループとか馴染まなそうよね」

「あははー」


 能天気に笑ってるから、別に嫌な思い出ががあったりとかではないんだろうが。


「はい、おしまい! なんなら、三つ編みにでもしてやろうか?」

「え?」


 ん?



 百パーセント冗談だったのだが、麦子がやけに乗り気だったもんだから、それこそ高校時代ぶりに他人の髪を三つ編みするという経験をした。

 童顔な麦子が髪をお下げにしていると、懐かしのアニメとかで観る赤毛のアンみたいだ。まあ、本人が嬉しそうだからいいか。


 コーヒーショップの入ったデパートを出て、車道脇の道を百メートル程歩く。脇道に入っていくと、なにやら国際色豊かな飲食店の看板が目についてきた。タイやベトナムの定番アジアン、トルコやレバノンといった地中海系。モロッコはアフリカ大陸の北西の端で、北は地中海に面しているから、地中海系でいいのか?

 ただ、オスマン帝国に支配されたことはなかったから、トルコ料理の影響は少ないんだと、うちの本棚のモロッコ料理の本には書いてあった。

 自分の足で世界を旅してきた麦子と違って、私は旅エッセイや世界の料理の本を読んでは妄想を膨らませてきた口だから、文字ベースの情報が無駄に頭に入っている。


「やっぱり定番所のタジン料理とクスクスは外せない。ワインはロゼで、食後にはミントティーも……」

「あいかわらずシミュレーションしてるねー」


 店のメニューも見る前から、脳内でシミュレートを繰り返す私を、何故か楽しそうに麦子が見ていた。


「あ、ここここ」


 麦子が一件の建物の二階を指さす。そこには確かに『モロッコの台所から』という、どこかのメーカーの飲み物みたいな店名が書かれていた。


 喫茶店のようなセピア色の木製の扉を開けて中に入ると。店内はテーブル席が三つほどで、これも同様のセピアの色合い。カウンター席のようなものがあるが、そこには段ボールが置かれていて、客席にはなっていないらしい。壁には赤字に緑の星のモロッコ国旗、その隣にサントリスビールのポスターが張られていた。


「イラッシャイマセー」


 店内を見ていると、口髭と顎髭を短く生やした外国人男性が出てきた。

 麦子が予約した客であることを告げると、テーブル席の一つに通される。


 テーブルには冊子のメニューと、お勧めドリンクや料理のカードが数枚置かれていた。

 まずは最初のドリンクということで、ドリンクメニューを探す。ワインをボトルで飲むなら、初めからワインでもいいだろうか。だがモロッコのビールがあるなら、それでもいいかもしれない。

 ドリンクメニューを開く。


 サントリス・プレミアムモルト(生)


 一行目がそれであった。

 ……いや、私だってビールは好きだし、プレモルも嫌いではない。ここが居酒屋なら一杯目はこれにしただろう。

(まあ、どんな店でも日本の普通のビールを飲みたい客はいるんだろうしな)

 気を取り直して目を下に転じれば、ワインの文字。二ページ程に渡って並ぶワインは、しかし、フランス、イタリア、チリ、オーストラリアに南アフリカ。

 ……モロッコのワインはない、のか?

 ロゼは? 見れば、赤、白の次にプロヴァンス(南仏だ)のロゼが一つだけ載っていた。


「とりあえず、カヴァにしとく?」


 何が面白いのか、葛藤している私を笑顔で見ていた麦子が提案してくる。

 カヴァはスペインのスパークリングワインだ。シャンパンよりも手ごろな値段で楽しめるから、スペイン料理屋に限らず人気がある。ページをめくると、ボトルワインのリストの次にグラスワインがあって、確かにそこにはカヴァが載っていた。


「……そうしよう」


 モロッコ料理屋でカヴァを飲みたいかというと微妙なところではあるのだが、正直、ビールにもワインにもモロッコらしいものはないから、一杯目をグラスのスパークリングワインにするのは無難なところだろう。一応、スペインはお隣(お向かいか?)だしな。


 カヴァを注文して、料理のメニューに移る。

 前菜・サラダから……シーザーサラダ?

 シーザーサラダはメキシコで生まれたロメインレタスをドレッシングで和えたサラダで、日本でも既にお馴染みだ。だから、このサラダに出会うこと自体は珍しいことではない。だが、モロッコと何か関係があるかというと……


 いかん、私の脳内のハズレ警報機がガンガン鳴り始めてきた。

 待て、落ち着け、店を出てからは好き勝手なことを言うが、店にいる間は最大限その店を楽しむ努力をする、それが私のはずだ。それが、同席者や払う自分の金、食材、そして、自分にとってはハズレだったとはいえ店への礼儀だと思うからだ。

 助けを求めるように視線を下にずらす。するとどうだ、サラダはシーザーサラダだけではないではないか!


「……モロッコサラダ、にしよう」

「いいねー」


 モロッコサラダは写真を見る限り、胡瓜やトマトをサイコロ状に切った〝羊飼いのサラダ〟の仲間のようだった。羊飼いのサラダというのは、私の中ではトルコ料理だが、トルコに留まらない地中海地域で人気があるサラダだとも知っている。そして、このサラダに関しては、モロッコも地中海文化圏の仲間ということなのだろう。


「メインは羊のタジンのクスクス添えかな?」


 麦子が私の苦悩に気づかないように、というかそれを面白がるように、楽しそうに提案する。

 タジンというのは、モロッコの独特な調理器具だ。底の浅い鍋と円錐状の重い蓋がセットになった陶器の鍋で、このタジンを使った料理のこともタジンと呼ばれる。タジンで作った煮込み料理は、じんわりと材料に火が通り、蓋の重さで圧力鍋のように肉が柔らかくなるのだと、これも本で読んだことがあった。

 ちなみに、実際に食べるのは今日が初めてであり、私にとっては今日のハイライトと言えた。

 クスクスはタジンと並ぶモロッコ料理の有名どころで、パッと見は黄色がかった米のようだが、粒状をした〝世界最小のパスタ〟だ。これに肉や野菜を煮込んだスープをかけて食べる。フランスでも日本のカレーのように親しまれているらしく、私も大衆フレンチを謳うビストロで食べたことがあった。

 私はタジン料理とクスクスを別々に食べるシミュレーションをしていたが、この店ではタジン料理にクスクスを添えて出すスタイルらしい。モロッコ料理というとやっぱりこの二つが定番だから、両方楽しめるようにしてやろうという親切心なのかもしれなかった。そして、


「まあ、羊だわな」


 メニューを見れば牛や鶏のタジンもあるのだが、私達は二人とも羊が選択肢にあるなら羊を選ぶ羊食系女子なので、麦子も他の候補をすっ飛ばして言ったのだろう。

 モロッコでは羊もよく食べられるらしいし、逆に日本では羊は日常でそんなに食べるものではないから、やはり羊が一番異国情緒を楽しめる。

 その他にはイワシのフライと、食後にはミントティーとデザートを頼んだ。


 注文してからも、私がぶつぶつと考えていると、髭の店員氏がカヴァのグラスを持ってきた。


「はいはい、毬花ー、乾杯しよ。はい、かんぱーい」

「乾杯」


 カヴァはよく冷えていておいしかった。相変わらず何が楽しいのかよく笑う麦子の顔とカヴァの炭酸が、ハズレ警報に苦しむ私の気分を上げてくれる。

 麦子がなんで私とツルむのかはわからないが、少なくとも私にとっては麦子が一緒の方が飯も酒も美味くなるのは間違いなかった。


「カヴァといえばさー、あのバル最近行ってないね」


 あのバルというのは、某駅前にあるスペイン・バルで、カヴァのグラスが手頃な値段で飲めるのと待ち合わせに便利なので、私達には珍しく数回訪れた店だ。まあ、一番多いのはぶっちぎりで先輩の店なんだが。


「私、こないだ行ったよ。店長さん、今度独立するんだって」

「そうなの?」

「オープンしたら、そのうち行こう」

「……そうだね」


 私と麦子は、とにかく新しい店を開拓したい人間なので、同じ店に二回行くということがほとんどなかった。

 というよりも、二人で行くのは新しい店を開拓する時というのが正しい。一度行った店が気に入れば、他の友人を誘って行ったり、約束のない休日に一人でふらっと行ったりすることもある。

 つまり、私達は当たってもハズれても先輩の店で愚痴ればOKという合意の取れた、新店開拓仲間なのだった。


「ハイヨー、モロッコサラダおまたせー」


 早速サラダがやってきた。

 テーブルに置いてあった取り皿にそれぞれ勝手にとって食べ始める。

 賽の目に切られたトマト、胡瓜、玉ねぎをフォークですくって口に放り込むと、レモンの酸味と、ほのかにエキゾチックなスパイスの香りがする。噛むと玉ねぎの刺激がきて、最後に胡瓜の甘味を感じた。うん。


「おいしー」


 幸せそうな顔で麦子が言う。実際悪くない味だが、麦子を見ていると、店の人もさぞかし作り甲斐があるだろうなと思う。

 生まれつき可愛げというものを母親の腹の中に忘れてきた私には真似のできないことだった。まあ、母親の方も私の置いていった可愛げを有効活用している様子はないから、遺伝を疑うべきなんだろう。


「こういうサラダって、向こうでも食べた?」


 麦子はモロッコの安宿にしばらく滞在していたことがあると聞いているので、話を振ってみる。


「うん、食べた食べた。すごいんだよ、モロッコのおばちゃん。トマトも玉ねぎもまな板つかわずに切っちゃうの」

「は? 玉ねぎも?」

「こうやってさ」


 麦子が身振りで説明しようとする。玉ねぎを手のひらに乗せて、ザクザクと包丁を入れて……わかるようなわからんような。


 次に出てきたイワシのフライを食べ終えて、いよいよ次はタジンの登場だ。

 最初にモロッコ料理というものを知ったのがいつだったは覚えていないが、うちにも何冊かモロッコという国やモロッコ料理に関する本はある。

 それだけ興味があったくせに今までモロッコ料理を食べたことがないのは、まあ、巡りあわせという奴だ。同じくらい興味がある料理が、私には世界中にあるのだ。

 とはいえ、モロッコのタジン鍋は、その中でもパッと見に特徴的なので、やはり気になる存在だった。

 三角帽子のようなタジン鍋でコトコトと煮込まれる羊肉に、ゴロっと切られた野菜達。出来上がってテーブルまで運ばれるタジン鍋、その蓋が私達の目の前で満を持して開けられる……

 そんな光景を私は夢想していたのだ。


「ハイヨー、羊のタジンネー」


 そう言って店員氏が私達のテーブルに置いたのは、青と白で描かれた華やかな柄の深皿だった。その中には茶色く煮込まれた塊肉と野菜。その脇には米よりも小さい淡い黄色の粒々がターメリックライスのように盛りつけられていた。三角帽子は影も形もなかった。


「タジンは?」


 ほとんど無意識に質問が口をついていた。


「ないカラ、圧力鍋で作った。おいしいヨ!」

「は?」


 ……圧力、鍋?

 百歩譲って、テーブルにタジン鍋が出てこなかったのは良しとしよう。

 テーブルにまで自慢げにタジンを出してくるのが正しいのかと言われると議論の余地はあるんだろう。とはいえ、ここは日本で、タジン鍋が当たり前に存在しているモロッコではない。だから珍しいタジン鍋をテーブルまで運んでくるような演出があった方が正直なところ私は嬉しいし、出てこなければ残念だ。だが、それでもちゃんとタジン鍋を使っているのなら、それはちょっと残念という程度の話だ。

 しかし、そもそもタジンを使わずに、圧力鍋で作りましたと言うなら、流石にタジンを名乗るべきではないんじゃないのか?!


「じゃー、圧力鍋タジンをいただいてみますかー」


 私が葛藤している間に店員氏は厨房に帰っていっていたので、楽しそうさと苦笑を二対一くらいで混ぜた顔の麦子が大皿にフォークを伸ばす。

 いろいろといいたいことはあるが飲み込んで、私も手を伸ばした。肉は二塊あるから一つずつ、ニンジンは大ぶりなのが一つだから切り分ける。それに大きな干し葡萄みたいなもの(プルーンか?)がいくつかあるが、とりあえず一つずつ取って、後は食べたい方が食べればいいだろう。

 ゴロっとした羊肉は柔らかくて(圧力鍋だからな)、おいしくはある。スパイスの香りはあるが控えめで、むしろ、何かひどく懐かしい味がした。

 例えるなら肉じゃがみたいな。

 ……うん。スパイスや羊肉特有の香りがあるものの、自分で言っておいて何だが肉じゃがというのは妙にはまる。

 ……これは、もしかして…………醤油を使っている??

 いや、何か違う食材のマジックでこういう味になるのか? そう思って、現地でタジンを食べたことがあるはずの麦子の反応を窺ってみる。


「……日本人向けって感じだよね」


 麦子が笑いをこらえた顔でこちらを見た。

 限度があるわ! という突っ込みをすんでのところで私は飲み込んだ。

 店にいる間は最大限楽しむ努力をすると同時に、文句があっても店では言わないのもまた私のルールだった。この味が好きでこの店に来ている人だっているんだろうから。


「おばあちゃんのタジンってか」


 複雑な想いをそんな言い回しに込めてみる。

 カヴァの後に頼んでいたロゼワイン(フランス産)をぐいっと飲み干すと、「まあまあ、飲みなされ」と、麦子が笑いながらおかわりを注いでくれた。

 それで怒りが収まったというわけでもないが、気を落ち着けて次の一口をナイフで切り分ける。食べれば、実際、婆ちゃんの家で食べた肉じゃがが思い出されてならない。婆ちゃんの家は山梨なんだが。

 そして、これはクスクスよりも……



 本日のハイライトだったはずのタジンには出会えず、感情の起伏の激しい夕食だったが、それも終わり。謎の疲労感を感じつつ、後はデザートとミントティーを待つばかりとなった。


「ハアイ、オマチカネのデザートデスヨー」


 店員氏はそう言ってデザートとミントティーを置いていったが、私の視線はデザートよりもミントティーの方に吸い寄せられる。

 耐熱ガラスに金属の持ち手を組み合わせた容器、その中には赤茶の液体、そして、容器の端には糸が伸びていた。

 ……これはまさかティーバッグ、か?

 ティーバッグの紅茶に、申し訳程度のミント、そしてスジョータのスティックシュガー。それがこの店の〝ミントティー〟だった。


「……ミントティーって、紅茶なの?」

「うーん、粒々になった緑茶を使うのが普通だったかなー、多分、中国の。それに砂糖は勝手に入ってるのが普通」

「ガンパウダーってやつね」


 ガンパウダーというのは火薬のことだが、ここでは小さな粒状になった茶葉のことだ。それを直火にかけたポットで煮出して作るのだと、私は本で読んでいた。


「そうそれ」


 私はテーブルに突っ伏した。麦子かおかしそうに「やめなよー」とか言ってるが知ったことか。


 一応付け加えると、デザートは胡麻の入った素朴な焼き菓子でおいしかった。そして、私だって別にティーバッグの紅茶なんて飲めんという上等な舌をしてるわけではない。ただ、モロッコのミントティーというものを体験したかっただけなのだ。



 結論としては、まあ、ハズレであった。

 いや、普段の夕食と思えばごちそうだし、まずいというわけではなかったんだが……。あまりにも日本向けにアレンジされ過ぎだったのだ。

 外国料理を食べに来る客というのは、ただ美味しさだけを求めているわけではない。少なくとも、私や麦子は外国料理はできる限り現地の味で食べたい派だ。

 現地で食べたことがある麦子と違って私には現地の本当の味はわからないが、だからこそこういう店で、ああ、あの国の味ってこうなのかという体験をしたい。口に合わないなら合わないという体験をしたいのだ。

 だから、さすがに醤油はない。それにタジンがないというのもがっかりだった。

 まあ、がっかりだが一生恨むような話でも訴えるような話でもない。ハズレの可能性は織り込み済みで、言ってしまえばいつものことだ。私達にはその失敗を供養する儀式があった。


「……行くか」

「行こう行こう」


 私の提案に、楽しそうに麦子がのる。どこへとは言うまでもない。麻美先輩の店で残念回である。



◇   3   ◇



「あ、タクシーでもいい? おごるからさ」

「は? いいけど、あんたいつからそんなブルジョワになったの」

「ちょっとねー」


 ちなみに、今みたいに自分がだるいからタクシーみたいな場合はともかくとして、店の払いはいつも割り勘だ。お互いの誕生日でも、どんな時でも、これまでずっとそれは変わらなかった。

 まあ、これは女同士の話だから、件の男と比較するのはきっと可哀想なんだろう。奴には「女に財布ださせる男ってサイテー」みたいな女と幸せになって欲しいもんだ。



「麻美さん、久しぶりー」

「おー、生きてたか」


 先輩の店には他のお客はいなかった。いつものことだが、何故これでやっていけているのかはわからない。

 二人掛けの小さいテーブル席も一つあるが、当然のようにカウンターに座る。さて、まずは何を飲むかな、と思ったところで、隣でガタン、と音がした。

 カウンターの少し高い椅子に座り損ねて、麦子が体勢を崩したようだった。


「何やってんの、って、ちょっと」


 麦子はカウンターについた腕に顔をつけて動かない。見れば明らかに顔色が悪い。


「ちょっと、あんた、ひどい顔色」

「……あー、うん」


 一拍置いて顔を上げた麦子がバツが悪そうに答える。


「今日は止めて解散にするか?」

「いや、大丈夫」


 とてもそうは見えない。


「……いや、うん。説明するからまず座ろ」


 そう言って、麦子は慎重にカウンターに腰掛けた。


「麻美さん、トニックウォーターだけもらえる?」


 トニックウォーターは炭酸飲料で、普通、ジンとかの蒸留酒を割ってカクテルにするためのものだが、そのまま飲んでも美味いは美味い。バーでそういう注文をする人はあまり見たことがないが。


「じゃあ、私はジントニック下さい」

「あいよ」


 先輩が冷蔵庫から二本のトニックウォーターを取り出すのを見ていると、


「私さ」


 突然、別れ話でも始めるみたいに麦子が切り出した。誤解のないように言っておくが、別れるも何も私達はつき合っているわけではない。


「実は今入院しててさ、今日も病院から来たんだ」

「は? いつ退院できるのよ」

「うん……できない、かも」


 できない? 退院が?


「ちょっと、それどういう」

「最後にもう一回だけ毬花と食事に行きたくてさ、無理行って許してもらったんだ」

「は?」


 青天の霹靂。そりゃ驚くわ、という意味の言葉だ。



「落ち着いた?」

「……落ち着いた」


 一番絶望のどん底にいるはずの麦子に気遣われて、私は答える。

「はあ!?」とか「なんで、そんなこと、今まで」とか、日本語の文章になっていないことを散々言ったあげくに、そんな言葉も尽きてジントニックを呷った後のことだった。


 そりゃ、私は大丈夫だ。

 自分が死ぬわけでもないし、さっきも言ったようにつき合っているわけでもない。友人とは言っていいと思うが、泣いてすがるような関係でもない。というか、私がそういう人間ではない。

 無理をいって出てきたというからには、本当は病院の外に出したくないと思われる程度にはちゃんとした医療は受けているんだろう。それで駄目……というなら、素人の私に言えることなんて何もない。

 しいていえば、もっと早く言ってくれというくらいだが、早く言われたからといってできることがあるわけでもない。別れの機会を作ってくれたんだから感謝、するようなことではないにしても文句はないはずだった。

 ただ、疑問はある。


「……なんで、あんな店が最後なんだよ」


 あんな店とはご挨拶だが、謝れと言うなら後からいくらでも謝るから、今は許してほしい。


「第一、初めての店に行かなくたって、今まで美味い店だってたくさんあっただろ」


 ハズレもたくさん引いてきたが、美味い店だってたくさんあった。

 豚の全てが好きすぎるバスク料理屋だって、シードルの品揃えとデザートの塩キャラメルクレープが最高だったガレット屋だって、私にとっては麦子との思い出の店と言っていい。ここはまた来たいって言ってたじゃないか。

 んー、と麦子は顎に指をあてて考える。

 そして、「わたしはさー」と、気負いのない調子で切り出した。


「もし明日世界が終わるとしたら、新しい店に食べに行きたいんだ」

「は?」

「美味しかったら最高だし、ハズレでも毬花となら最高に楽しいもんね」


 迷いなんて何もないみたいな笑顔だった。


「……なんで世界が終わる日まで私が一緒にいる前提なんだよ」


 私の問いに何故か嬉しそうな顔をして、だけど、その表情を少し曇らせて麦子は続ける。


「もう海外旅行は絶対ダメっていわれた時さ、なんかもう、世界が灰色になったみたいで、あとはもう死ぬまでの時間をゾンビみたいに潰していくのかなって思ってたんだよね。だけど、毬花と一緒にレストラン巡りしてたら東京のレストランすげー、変な店もあるけど面白って思えて、すごく楽しかった」


 つまり、私と出会った時には、もう残り時間が限られていたということか。


「……私なんて日本から出たことないっつーの、レストラン都市東京なめんな」


 乱暴な私の言葉に、麦子は優し気に目を細める。


「あー、でも今日の店はちょっといまいちだったねー」


 最後の晩餐に身も蓋もない感想を言い出す麦子。


「ミントティーって、そうじゃねえだろって」

「……あのなんちゃってタジンとか最悪」

「泣くなよー」


 そういって、麦子が私の頭をポンポンとなでる。


「泣いてねーよ! ていうか、なんで醤油が入ってるんだって話だよ」

「地味においしいのが、腹立つよね」


 ぷぷっと笑いをこらえながら麦子がいう。

 麦子は文句をいいながらも、一応はその店のいいところを見つけてしまうタイプだった。比較して、不平不満に終始してしまう自分の人間の小ささを私は痛感してしまう。

 いずれは改めた方がいいんだろうが、それは今日じゃない。

 麦子が望んでいるのは、いつも通りの私の暴言なんだろうから。


「クスクスより白飯が欲しくなるっつーの!」

「わはははは」


 ランチでモロッコ定食とか出したら食べにいくけどね、とか他愛のない話で、他に客のいないのをいいことに声も抑えずに盛り上がる。


「まあ、圧力鍋は向こうのおばちゃんも結構使ってたけどね」

「え? そうなの? ……じゃあ悪いことしたな」

「別に何もしてないじゃん。いや、わたしには鞠花が頭ん中で怒り狂ってるのは見えたけどさ」


 そういって、可笑しそうに笑う。


「ていうか、タジンって言っちゃってるんだから、がっかりするのは仕方ないよねー。あと、さすがに醤油はないな」

「本当になっ」


 湿っぽい空気にならないようにと必死で思いながら、だけど、一方であまりにいつも通りな会話に、私はこれが最後だなんて信じられなかった。



 時間を忘れて盛り上がっていると、バーの扉が開いた。私達も声のトーンを抑える。


「姉さん」


 入ってきた男性は店内を見渡してからそう言った。


「あ、お迎えがきちゃった」


 いつもの口調で、だけど寂しげな表情で麦子が言った。

 麦子の弟らしい人物はカウンターの私達の反対側の端に座った。先輩がその人にジンジャーエールを出しているのが見える。

 それを見守った麦子が私に向き直った。


「毬花、今までありがとう……今まで、本当に楽しかった」


 髪をお下げにして子供みたいな顔をした麦子が、大人みたいなことを言う。


「……ああ、私も楽しかったよ」


 絞りだすようにそれだけを言った。「また」と言いそうになって、何言おうとしてんだ馬鹿と自分で自分を責める。

 他に言うことも浮かばないでいると、


「じゃあ、ね」


 そう言って、麦子がカウンターの端に座る弟さんに声をかけた。まだジンジャーエールが半分ほど残っていた弟さんが、もういいのか? とでもいいたげにこちらをうかがっていた。



 弟さんに頭を下げられて、タクシーを見送って、私は先輩の店のカウンターに戻った。


 私にはわからない。どうして麦子があんな店を最後の店に選んだのか。

 どうして最後に新しい店に行きたいなんて言ったのか。少なくとも私なら、最後に行く店は思い出のある、最高に美味い店にしたい。普通そうじゃないのか?

 注文もせずにカウンターに肘をついている私に、先輩が何も言わずに、丸い氷の入ったロックグラスを出してくれた。

 琥珀色の液体は素直に考えればウイスキー? ラスティネイルみたいなカクテルかもしれない。だけど、それを知りたいと思う心の余裕が私にはなかった。液体の量の半分ほどを口に流し込む。

 甘くて、苦くて、喉が焼けるみたいに熱かった。


 ……私は、まだ麦子とバカな話がしたかった。

 初めて会った日みたいに先輩に呆れた顔をされながら、意識高い系のシェフをこき下ろしたかった。

 実現の可能性なんて考えもしない、夢みたいな改善プランの話がしたかった。

 私がどんな本を読んでその店に行きたいと思ったのか、どんな期待をしてどんなふうに裏切られたのか語りたかった。

 麦子が旅してきたその土地の味がどうだったのか、どんな風にその日食べたものと違ったのかを聞きたかった。

 文句を言ってるくせに、全然怒ってるように見えない麦子の顔をみて呆れていたかった。

 まだまだ、全然足りなかった。


「……?」


 アルコールが回った頭で何かに気付く。今、私が思い出していたのは、いつものごとく行った店がハズレで先輩の店であーだこーだ言っていた時の光景だった。どうせなら、最高に美味しかった店での食事のことでも思い返せばいいものを。

 ……だけど、そういうものなのかもしれない。

 振り返ってみたら地獄坂が懐かしくなるみたいに、二度と戻れないと分かった時に思い出すのは、何度も繰り返してきたことなのかもしれない。

 私達は美味しかった店でもほとんど一度しか一緒に行くことがなかったが、先輩の店では何度も残念回をやって来た。見栄えばかり豪華なイタリアンがサイゼ以下だった時も、ロシア料理屋のボルシチがトマト味だった時も。

 私がぶっちゃけた文句を言って、麦子が微妙にフォローになってるんだかなってないんだかわからないことを言って、あまりに店の立場が分かってないことを私達が言いだすと、麻美先輩にたしなめられる。そんなことを私達は繰り返してきたのだ。


 ――ああ、そうか


 私はやっと気づいた。

 麦子は世界が明日終わるとしたら新しい店に行きたいと言ったけど、違うんだ。

 世界が明日終わることになった麦子は、最後に先輩の店で、いつもみたいにハズレだった店の話を、あーでもないこーでもないと私と言いあいたかったんだ。


「……なんだそれ」


 おかしいだろ。私は行った店で抱え込んだ鬱憤を吐きだしていただけだ。

 一人で腹を立ててるよりは百倍マシだが、行った店がおいしい方がいいに決まってる。

 だけど、もう会えないとわかって私が思い出すのも、この店でのこと、麦子とバカな話をしていたことばかりだった。

 これで最後だったのに、私は何も言えなかった。ありがとうの一言さえも。

 私は馬鹿だ。

 だけど、仕方ないじゃないか。

 どうして今日になって突然そんなことを言い出すんだ。もっと早く言ってくれたら……言ってくれたら……そうしたら私に何ができただろう。


 バッグからスマホを取り出す。


『atraのタレーズに17:30ね』


 LIMEに残されたいつも通り手短な麦子のメッセージ。もし、麦子が本当に言った通りなら、これが麦子からの最後のメッセージになるんだろうか。

 思いついた恐ろしい考えは、だけど何一つ間違えていなくて、私は腹の中のものを戻してしまいそうになる。

 幽霊みたいな手つきで、私はその後にメッセージを打ちこんだ。


『羊料理屋の跡、貴州料理の店が入るんだって』


 それは、元々、今日麦子にあったら言おうと思っていたことだった。

 貴州料理は中国の貴州省の料理だ。四川料理や湖南料理をも凌ぐ激辛として中国では知られているらしい。

 初めて湖南料理の店に行った時は先輩の店で「いや、辛過ぎんだろ!」と盛り上がったものだった。だから、この貴州料理も美味いかどうかはともかく、行ったらきっと先輩の店で盛り上がることになる、そういう店のはずだった。

 それに貴州は中国の蒸留酒、白酒の銘産地でもある。その店は有名な茅台酒は当然として、貴州省や近隣の銘酒を揃える予定だと聞いた。小さい体の癖に酒豪の麦子は珍しい酒にも目がない。

 だから、きっと麦子には気になってたまらない店のはずなのだ。


 最後にもう一回だけと線を引いた麦子の気持ちを無視して、往生際の悪いメッセージを私は送信した。



 麻美先輩の店のカウンターで私は目を覚ました。

 肩にかかった毛布は、先輩がかけてくれたんだろうか。

 細いステンドグラスの窓から差し込む日の光は、既に夜が明けて大分立つことを知らせていた。

 ふと見ると、カウンターに〝買い物行ってくる〟と書かれたメモがあった。その横にあるペットボトルの水をグラスに注いで飲む。


「そうだ、LIME」


 机の上に出したままになっていたスマホのロックを解除する。

 私が送ったメッセージには既読がついていた。

 だけど、麦子からの返信はない。それはそうだろう。私のやったことは未練を断ち切ろうとした麦子に往生際悪く縋りついたみたいなものだった。

 涙が滲んでくる。

 先輩がいないのをいいことにカウンターに涙の雫を落とした。

 カッコつけたがりの私は、人前で泣くこともできないのだ。


(泣くなよー)


 頭の中で、昨日私の頭を撫でた麦子の声が甦る。

 その時、私のメッセージに返信が付いた。


『毬花のおごりね』


 いつも通りの短文だった。


「……なんだよそれ」


 思考が止まって、呆れて、思わず笑ってしまう。

 なんだよそれ。

 私の涙は行き場をなくして、最後の一滴を落として引っ込んでしまった。

 麦子はどんな思いで、これを書いてくれたのだろう。

 私達はいつも割り勘だった。お互いの誕生日でも、どんな時でもそうだった。二人で出し合って、少しでも美味いものを、少しでも珍しいものを食べて、楽しみたかったからだ。

 それをおごれとは。私の未練がましい態度に仕方のない奴だと呆れているんだろうか。

 だけど、そんなの安いものだった。もし、麦子が本当に帰ってきてくれるなら……そんな夢を見させてくれるというなら。


『満漢全席だって、おごってやるわ』


 格闘漫画の悪の親玉みたいなスタンプをつけて送信した。

 麦子からの返事は「確かに聞きましたよ?」みたいな煽りポーズのウサギのスタンプだった。

 ……最悪の場合、これが最後のメッセージになるのか?

 最悪のくだらない想像に、私はまた笑ってしまった。



◇   4   ◇



 あれから一年。食べ歩きの相方がいなくなって、わたしは新しい店の開拓をしなくなった。

 それでも、仕事が一段落した日なんかには、今まで食べ歩いて気に入った店に一人でふらっと行ったりする。いつだって期待通りの料理と、いつも通りのサービスでもてなしてくれる。私の一生の財産といえる店達だった。

 職場の同僚と休日に会う機会もあったが、麦子と二人で見つけた店に、他人を連れていきたいとは思えなかった。

 麻美先輩の店で愚痴を言うこともなくなったが、赤字になって文句を言われたくないので、いたって真っ当にカクテルやらなにやらを飲みに通っている。


「どしたん、難しい顔して」


 カウンターでスマホをいじっていた私に先輩が声をかけてくる。私はさっきからネットで検索をしていて、期待した情報が見つかっていなかった。

 ダメもとで先輩にも聞いてみることにする。

 でも知らないだろうな……その辺の店で簡単に出せるものじゃない。


「先輩」

「んー」


 棚にグラスをしまっていた先輩が視線をよこす。


「満漢全席食べられる店知りませんか」


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