4.Side フェレーナ
フェレーナは開け放した窓から月を見上げていた。
群青色の空に浮かぶ冴え冴えとした月を眺めていると、心が穏やかになって淀みが洗い流されるような気がする。
そうして心に凪いだ海のような平穏が訪れると、全てがどうでもよくなってしまった。
(もう疲れたな……)
青白い月明かりがぼんやりと室内を照らしている。
エドガーは健やかな寝息を立てて寝台で眠っていた。
疲れていたのか、葡萄酒をいくらも飲まないうちにうとうとし始めたのだ。
(兄様……)
結局、薬は使わなかった。
誰かの不幸の上に幸せは築けない。
保身のために計画を実行しても、それは一時的なことで、またいずれは辛い年月を積み上げていく結果に繋がってしまう。
卑怯な手を使ったフェレーナを、いくらエドガーでも許すことはないだろう。
父親は怒り狂うだろうか?
フェレーナを追い出すだろうか?
フェレーナは幼い頃に読んだ童話のように、このまま朝になったら泡になって消えてしまいたいと思った。
そうして、誰の記憶からも消えてしまいたい。
暗い碧色の瞳から涙が頬を伝った。
(わたし、男に産まれてきたかった……)
幼い頃から何度となく思い描いてきた。
男だったら剣術を習い、領地を治める父を手伝い、エドガーの親友になって彼の恋を応援するーーーーーー男でさえあれば、そんな充実した人生が送れたのに。
女の身に産まれた自分が恨めしかった。
こんな人生に何の価値があるだろう。
何一つ充足感を得られることのない人生。
明日からは身を寄せる場所すらなくなるかもしれない。
フェレーナはふと窓の下を覗きこんだ。
ここから落ちたら死ねるだろうか。
高さが足りない?
でも、怪我をして傷物になれば、もうエドガーにも誰にも嫁がなくて済む。
きっと父も今度こそ見向きもしなくなるだろうーーーーーーそれこそ叩き出されてしまえば父に罵倒されることもない。
フェレーナにはそれが最良の選択に思えた。
風に揺れるカーテンを避けて、フェレーナは窓枠から身を乗り出したーーーーー。
「駄目だよ」
ぐいっと力強い腕がフェレーナの体に巻き付き、後ろに引き寄せられる。
寝ていたはずのエドガーがフェレーナの体をしっかりと抱きしめていた。
「フェレーナ」
「離して……っ!」
潤んでいた瞳からポロポロと新たな涙がこぼれ落ちた。
エドガーは少し腕の力を緩めると、フェレーナを自分の方に向かせた。
「おれでは君を助けられないかな」
真剣な眼差しでエドガーはフェレーナを見つめていた。
彼に迷惑をかけたくない。
彼の重荷になりたくない。
フェレーナは首を振って俯いた。
「フェレーナ?」
「だって……女のわたしは誰にも必要としてもらえないもの……」
力なく答えたフェレーナの体をエドガーは労るように抱き締めた。
その体はフェレーナのように柔らかくはなく、エドガーが男性であることを否応なしに意識させられた。
幼い頃から憧れと尊敬の眼差しで追いかけ続けた兄のような従兄。
でも、本当は小さな恋心に気付かないふりをしてきた。
エドガーに相応しくなれない自分がずっと惨めだった。
誰からも必要とされず、誰の一番にもなれない……何の魅力もない自分が悲しかった。
「おれはフェレーナが大事だよ」
「……」
「伯父さんの考えてることは分かってた。フェレーナをおれと結婚させてさ、自分の血筋を残したかったんだろう?別にそれは構わないんだ。フェレーナがおれと結婚して幸せになれるんだったらね」
エドガーは淡々とそう告げた。
フェレーナはエドガーの胸を押して顔を上げる。
「エドガー兄様は自由でいたいのでしょう?それなのに、わたしと結婚するの?」
フェレーナの言葉にエドガーは驚いたような顔をして、それから笑い出した。
「それは建前だよ」
「え?それじゃ、嘘なの?」
「嘘ではないよ。正確には半分本当、くらいかな。自由でいたいけど、もう自由は大分謳歌したから、そろそろ落ち着きたい気持ちもあるんだ」
「そう……なの?」
「うん。フェレーナとなら幸せな家庭を一緒に作っていける気がするしね。でも、フェレーナに結婚したい相手がいるなら応援するよ。……おれが認めた奴に限るけど」
「……そんな人いるわけないわ」
フェレーナは自嘲めいた笑みを浮かべた。
こんな冴えない自分が誰かを好きになるなんて。
(ありえないわ……)
エドガーはフェレーナの髪に触れ、一房掬い上げるとそこに口付けた。
「フェレーナはおれが嫌い?」
「いいえっ!兄様を嫌うなんて!」
予想外の質問にフェレーナは慌てて首を振る。
エドガー以上に大切に想う相手などいない。
「それなら結婚しよう、フェレーナ」
「結婚!?」
「そうだよ。おれはフェレーナとなら幸せになれると思うんだけど、フェレーナはどうかな?」
「わたしは……」
幸せになれるに決まってる。
エドガーみたいに優しい人なんて他にいないから。
フェレーナはそっとエドガーの胸に顔を伏せた。
「わたしも兄様と結婚できたら幸せになれると思うわ。でも、」
「ありがとう、フェレーナ」
エドガーは途中でフェレーナの言葉を遮り、ぎゅうっと抱き締めた。
その後に続く言葉を予想して、言わせないようにしたかったのだろう。
それからエドガーは少し体を離して、フェレーナに口づけた。
びっくりしたが嫌ではない。
目を閉じたフェレーナに何度か唇が触れるだけの口づけを繰り返していたが、何度目かに触れた時に唇を割って舌が滑り込んできた。
「んっ……」
フェレーナはすがるようにエドガーのシャツを握り締め、それを受け入れる。
口内を探るように蠢く舌にフェレーナは段々苦しくなって、ついにはエドガーの胸を強く押しやった。
フェレーナの力で体を離すことはできなかったが、意思は伝わったようでエドガーは最後にもう一度触れるだけの口づけをして、ようやく唇が離れた。
とろんとした瞳でエドガーを見つめると、彼は困ったように微笑んだ。
「ところで」
「はい……?」
「とりあえず兄様はやめようか」
「……はい」
果たして自分がエドガーを名前で呼べるようになるのか分からなかったが、その努力は今までのどんな努力よりも魅力的に思えた。
人の不幸の上に幸せは築けない。
けれど、彼の幸せの側でなら、自分も幸せになっても良いのかもしれない……と、フェレーナはいつにない満ち足りた気持ちでエドガーに身を寄せる。
そんな二人を月明かりが優しく照らしていたーーーーー。