3『sample2:世話焼きの学者』
開封された銀のカンヅメが地面におかれると、ネコが一匹、その中にかぶりつく。
他のネコたちも、あちこちに置かれたエサ皿に熱心に顔を突っ込んでいたり、歩き回ったり、眠ったり、じゃれあったり、それぞれ自由を謳歌していた。
もちろん、路地の行き止まりを背もたれに座る二人の元にも、ネコたちは次から次へと、おかまいなしにすり寄って来る。
「かわいい...うへへ...」
「ミャー」
「あ、ちょっと、ほよー!?」
「こら、そいつには登るな」
フェルカの肩へ頭へ乗り上げていたネコを上からつまみ上げて、男は自分の膝に移す。ネコは大人しく眠り始める。
「気を付けろ。大柄の俺にさえネコどもは挑んで来る。なるだけ隙を見せんようにだな――――」
「うぅ...」
「――――大丈夫か...?」
男は呆れながら、フェルカの髪に引っかかったネコの毛を払う。さっきから彼は、カンヅメが上手く開けられなかったり、ネコにたかられて動けなくなったり等々フェルカが困っていると逐一手助けしてくれていた。目つきが鋭くて怖い印象を受けるが、中身は至って親切な人だ。
たまに隠れ家に転がり込むリズのことも含め、見かけによらないなあ、なんて思いながら、フェルカは男の横顔を眺める。
「どうした?」
ネコの相手をしている男が、フェルカの視線に気付いてこちらを向く。
「ほえ...え、えーっと...」
さすがに「はじめ、怖い人だなあと思ってたんですけど...」などと言えるはずもなく。腕にネコを抱えながら、フェルカは咄嗟に言う。
「わ、私、フェルカ...フェルカ・フィリーっていいます」
「フム?そういえばまだ名乗っていなかったな。まあ、元よりあの場で解散するつもりだったから無理もないか...」
「ご、ごめんなさい...んゔっ!?」
「そう肩を落とすな。ネコが登る」
フェルカの肩に乗り上げんとするネコを再びよけてやってから、男はそれを腕に抱く。
「俺はユリムだ。ユリム・ノーザーク。正直、俺以外にここに人がいてくれて助かっている」
「そ...そうなんですか?エサやりから今まで、ずっと足引っ張っちゃった気しかしないんですけど...」
「それについてはまあ、俺も擁護できんが...」
「ふえぇ...んゔっ!?」
「だから肩を落とすなと...」
ユリムは呆れ気味に、本日云回目のネコ払いをする。
「...だがまあ、いつもはネコどもの遊び道具は俺一人だからな。ネコが分散してくれるので助かっている」
「それって...生け贄が増えたってことですか...?」
「ぐぬ...ま、まあ極端に言えばそう言えなくも...おい、だから肩を落とすんじゃないと何度も...!」
客観的に見て、フェルカが来たことでユリムの苦労はいつもより増していた。彼はいわば、ネコに加えてフェルカという子どもの世話を押し付けられたようなものである。
「ミャーオ」
「どうした?フム...背中が痒そうだな。またノミ取り薬の調合を姉に頼んでおくか...」
「ミャー」
「お前はなんだ?」
「ミャー、ゴロゴロ...」
「かまってほしいだけか。ム...?さてはお前、喧嘩しただろう。逃げ際を掻かれたな」
「ンミャー!!」
「いてっ...こら、暴れるな」
引っ掻かれながらも無理やりネコをひっくり返して脚の傷を検分するユリム。
「ユリムさん、獣医さんみたいですね」
「獣医か...俺は生憎と医術師の資質は無いが、神秘科の魔法生物学専攻ではある」
「え...ユリムさん、神秘科なんですか...!?」
アカデミー大学部の四学部八学科についての詳細な説明はまたの機会にして――――神秘科の陰口に近いような評判は、当事者の耳にも届いているのだろう。彼は苦々しい笑みを引きつらせた。
「再度断っておくが、俺の専攻は魔法生物、すなわち実在が確認されている研究対象だ。至って現実的な分野であることを、強く言っておきたい」
「た、たしかに、言われてみると神秘科の他のテーマに比べれば、その...いかがわしくないですね」
「だろう」
「ミャー」
ユリムは寄ってきたネコをしばし撫でると、自分の膝や肩や頭に乗っていたネコたちを地面に降ろして立ち上がった。
「そろそろ行くぞ。始業まであと四十分ほどだ」
「え...もうそんなに経ったんですか...!?」
「ネコは人間の時間を吸い取るのが得意だからな」
ユリムはフェルカの手を引いて立たせると、足元でミャーミャー鳴くネコたちを手当たり次第撫でてやりつつ、ネコ溜まりを抜けていく。ネコたちは追いかけてはこないものの、どこか寂しそうな目つきで二人の退場を見送っていた。
「また来るからねー!!」
フェルカは元気いっぱいに手を振って、そして軽い足取りでユリムとネコ溜まりを後にした。
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その後、二人はネコの毛取り用ブラシとにおい消しで、アカデミーに行くのに恥ずかしくない身なりに整えた。
「ユリムさんって、毎朝こんなにネコの毛をくっつけてるんですか...?」
ネコ初体験のフェルカは、ブラシにネコの毛がゴッソリついているのに引き気味である。
「あそこのネコどもは人懐っこくてな。もう毛だらけになることに関しては諦めている」
におい消しの入った小瓶にコルクを押し込むと、ユリムはブラッシングの終わったローブに袖を通す。
今までは圧倒的な存在感と数を誇るネコばかりに目を奪われていたが、ユリムは知的な雰囲気のある男だった。切れ長の目には、理知的な紺碧の瞳がはまっている。目つきにメガネもあいまってか、眼光の印象は鋭い。くわえて、もともと癖っ毛なのを最低限整えたような、無造作な髪型。いかにも気難しそうな学者の出で立ちである。
もっとも、そんな見た目に反して毎日ネコにエサやりをしていたり、突然現れたフェルカに親切に接してくれたりと中身が世話焼きであることを、フェルカはもう知っている。
「どうした?まだ俺にネコの毛でもついているのか?」
「い、いえ...やっぱり、人は見かけによらないなあって...」
「?」
「な、なんでもないですっ!」
またしても言ってはいけない感想が出かかるのを慌てて引っ込め、フェルカはブンブン首を振る。ユリムは首をかしげつつも、彼女と一緒に路地を歩き出す。
「ユリムさん。私、またネコちゃんのエサやり、一緒にしてもいいですか?」
フェルカがおそるおそる尋ねると、ユリムは珍しいものを見るような目つきで彼女を見た。
「あれほど振り回されたというのに?」
「う...そ、それはたしかに、大変でしたけど...で、でも、楽しかったのも本当です。ネコちゃんたちも、すっごく楽しそうでしたし」
「ネコどもはいつもいつも好き放題だからな...まあ、そういうことなら俺は構わん。ストレスの無い程度に来てくれれば俺も嬉しい」
「ほんとですか?やったぁ...!」
フェルカは両手を空に、喜びを全身で表現。
直後、フェルカの脳がズキリと眩んだ。
「うっ...!?」
「おい、どうした?」
ふいに呻き声をあげたフェルカに、少し先を歩いていたユリムが振り返った。
不思議がる彼が立っているのは――――燦々と太陽の注ぐ、明るい道端だった。
路地の日陰に身を隠したまま、フェルカが言う。
「なんだか、眩しいんです。日が眩しすぎて、頭がズキズキしちゃって。もともと、それが原因で路地を歩いてたんです」
「フム...?フードはいかんのか?」
「ほよ?」
言われて初めて、フェルカは自分の背中に手を回し――――制服ローブに着いている、日除けにもってこいのアイテムに気が付いた。フェルカは被ったフードの布を両手でぎゅっと引っ張って、赤くなる顔を隠しながらユリムについていく。