2『カンヅメ』
レクバレン魔法学院とは、その名の通り、魔術適正者を対象とした、国内最大規模の魔術師養成機関。幼稚舎から大学院までを有している。
そんな魔法学院、通称アカデミーがあるのは、この国...エトルクの東部に位置する、ミルノラという街だった。
フェルカ・フィリーはいま、ミルノラの街を歩いている。
「うぅ...ふぁぁ〜...」
抜け切らない眠気があくびをさそう。
「ん〜〜...」
フェルカは呑気に伸びながら、まだ人もまばらなミルノラの中央広場を通りがかった。ミルノラでいちばん活気に溢れたエリアも、朝は大人しい。昼間は喧騒に掻き消されている噴水の水音が、朝の広場ではいちばん大きな音だった。
噴水そばのベンチでは、老人が静かに新聞を広げながら鼻ちょうちんなんか膨らませている。フェルカはその様子を見て苦笑いを浮かべたりしていたが、しわがれた手に握られたままの新聞がよくよく見ると古代魔術語で書かれたものだったりして、自然と背筋の伸びる思いで老人の前を静かに通り過ぎる。
呑気過ぎるくらい穏やかで、ほんの少し、知性の香りが漂う街。
それが"学問の街"の二つ名を有する都市、ミルノラなのだ。
「ン...」
ズキリと眩むような感覚がして、フェルカは手でひさしをつくる。
空を見上げれば朝の陽光。
今朝のフェルカには、どういうわけだか太陽がひときわ、少し乱暴なくらいに眩しかった。フェルカは近くの薄暗い小道へ進路を変えた。
日の当たらない路地裏は秋の朝にも増してヒンヤリしていて、若干湿っぽい匂いもする。方向さえ間違えなければ、あの広大なアカデミーの敷地のどこかには行き着くだろう。フェルカは恐れることもなく、薄暗い路地をずんずん進んでいき、そして、
「ン"ミャッ!?」
「はぅわっ!?」
出会い頭に、フェルカは小さな何かを蹴り飛ばしかけた。相手は一匹の黒ネコだった。黒いので視認するまでにラグがあった。衝突を免れたのは、機敏なネコ様のお陰に他ならない。
黒ネコはそのままフェルカの横を駆け抜けて、そして立ち止まるとチラリとフェルカを振り返る。
「ミャー」
フェルカのことが気になるらしい。
「ご、ごめんね...ほら、おいで。怖くないよ」
フェルカはしゃがみこんで、ネコに手のひらを差し伸べる。駆け寄ってきたネコは鼻先をひくつかせた後、ニャーンと鳴いてフェルカの手のひらに頭をすり寄せた。
「ふふ...よしよしー」
「ミャー」
フェルカはネコの背中や耳の後ろをさすったり、毛づくろいの様子を興味津々に観察したりと楽しむ。
「ニャー」
別の鳴き声がした。右を向けば、フェルカは路地の向こうにもう一匹、ネコがいるのを見つけた。
そればかりではない。よく見ると、そのまた後方にも影。あれもまたネコである。
「このあたり、ネコが多いのかなぁ...?」
なにぶん初めて来た道だ。フェルカは首を傾げながら、なんとなく、ネコたちのいる方向へ、黒ネコを腕に抱きながら歩いてみる。ネコたちは、フェルカが近づいても逃げたり警戒の目を光らせたりはせず、座り込んだりフェルカについていったり眠ったりとかなりリラックスしている様子だった。その危なっかしいくらい平和な有様は、さすがミルノラ産の野良ネコ...勝手に命名してミル野良ネコということだろうか。
「ミャーミャー」
黒ネコが鼻をひくつかせたかと思えば、するりとフェルカの腕を抜け出した。
「あ...まって!」
せっかく最初に仲良くなったネコだ。フェルカは反射的に追いかける。
黒ネコはまるで目的地が定まっているかのように一直線に路地を駆けていき、曲がり角を右に消える。フェルカも続いてコーナーを右折。
すると、
「ニャーニャー」
「ミャオ〜」
「ミャミャ」
「ニャ...ニャ!」
「ニャオーン」
「ほよ...!?」
黒ネコの姿が見えない代わりに、先ほど見たのとはこれまた別のネコが5、6匹。
彼らは好奇心の赴くまま、少女の足元にすり寄ってくる。
「ひゃぁっ...!?」
フェルカはあっという間に四方をネコに包囲された。足を動かせば今度こそネコに当たってしまうだろう。
「ちょ、ちょっと...ほえぇー!?」
身動きを封じ込められ、フェルカが狼狽えていた、ちょうどその時だった。
薄暗い路地の奥から、コロコロと何かが転がって来る。
「ほよ...??」
我が身を見せつけるように絶妙のスロウスピードで転がるそれは、銀色の――――カンヅメであった。
転がるカンヅメはフェルカの前を少し通過したところで失速し、石畳に金属音を弾かせながら横に転倒。側面には、おサカナの絵が書いてある。
紛れもない宝箱の登場に、フェルカにたかっていたネコたちはミャーミャー鳴きながらカンヅメに集り、開かないフタをガリガリと爪で引っ掻き始めたりする。
「おい。大丈夫か」
カンヅメの転がって来た方向から、大人の男が現れた。男の足元にネコが侍っているのはもちろん、彼の左腕はネコを抱え、右手は右肩に乗ったネコに添えられていたりと、とにかくネコにまみれている。
フェルカの目が点になっているのを見てようやく、男は自分が変わった様子でいることに気付いたらしい。
「ミャーン」
「い、いや、これはだな...決して怪しい者ではない」
気まずそうにメガネを押し上げ、見知らぬ男は少女に弁解する。
「俺はここのネコどもにエサをやっていただけだ。こいつらは、追い払うのも面倒なので勝手に登らせておいているだけで...」
「ニャー」
「ええい、やかましい」
耳元で鳴くネコの頭を撫でて黙らせながら、男はこれ以上恥を晒したくないとばかり、フェルカに背を向けて早口に言う。
「ともかく、ネコどもが困らせてすまなかった。好奇心旺盛なのだ。許してやってほしい」
「ぁ――――は、はい...??」
会話が終わろうとしたところで、フェルカは結局自分が男にまだ何もまともな言葉をかけていないことに気が付いた。
「あ、あのっ!」
「?」
振り向いた男の表情は、おそらく生まれつきのものなのだろうが、男のメガネ越しの眼光は鋭いし、顔つきもどこか神経質そうで険しい。顔が怖いというより、雰囲気が怖いというべきか。
「い、いぇ...なんでも...」
「フム...?そうか」
男は大して怒った素振りもない――――というかたぶん本当に怒ってない――――様子で、ネコたちを引き連れ、路地裏の奥へ歩き去ってしまった。
(で、でも...まだ、さっきのお礼言えてないな...)
男が転がしてくれたに違いないカンヅメを見ながら、心残りをくすぶらせたフェルカは立ち尽くす。
その時、開かないカンヅメに群がっていたネコたちが、鼻をひくつかせて道の奥へとてちてち進み始めた。
「ほよ...?」
突然のネコの進路変更。首をかしげるフェルカの耳に、
「ミャーミャー」
「ニャーオ」
「分かった分かった、いまやる」
「ニャー」
「ミャ、ミャミャ」
「俺に登るな。重い」
「ニャ...フーーッ!!」
「シャーッ!」
「喧嘩は控えんか」
大量の鳴き声に混ざって、男が呟くようにネコを宥めたり、諌めたり。
一方、気が付けばフェルカのそばにはカンヅメがひとつ落ちているだけ。ネコは全員あちらに行ってしまったようだ。
「......」
もう一度だけ、少女は耳を澄ませて路地裏の喧騒を聞く。
「ミャー」
「エサ袋には顔を突っ込むな。気持ちは分からんでもないが窒息するだろう、まったく...」
その声は自由奔放なネコたちに辟易していながら、優しい響きを持っている。
引っ掻き傷だらけのカンヅメを拾い、両手に大事に持って、フェルカは賑やかな方へと駆けていった。