15『幻の研究室』
その剣技は敗北を知らず。
その肉体は老いを知らず。
彼こそは、レクバレン魔法学院の誇る至高の剣士。
"レクバレンの剣"たる二つ名を持つ、アカデミー最強の男。
それが、エルトラン・デザンクロに関するアカデミーの評判であり、認識であり、常識だ。
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「相談...というより、あなたもお気付きでしょうし白状してしまいますと、私は半分仲介人のようなものです」
デザンクロの言葉に、アイレイは心当たりがある様子で頷いた。
「...ランカスタ先生ですね」
「ええ。その通りです」
デザンクロは大木から腰を上げると、その最強たる風格漂う洗練された身のこなしで二、三歩アイレイの前を歩き、手の中のステッキで手持ち無沙汰に地面を小突く。
「アー...まず、簡単に事の次第からお話ししましょう。アイレイ。あなたは今朝、ランカスタ先生と口論になた挙句、怒った先生に研究室を除名された。
しかし、ですね...あの後、ランカスタ先生が私のところに来て、こう仰られたのです。
自分はアイレイに合わせる顔が無い、代わりにアイレイに研究室に戻るよう説得し直してほしい、と」
「え...?」
「意外に思えるかもしれませんが、ミスターはあなたのことをそれは気に入っておられるのですよ。
カッとなってあなたに無責任なことを言ってしまったのは、あなたがまさか――――あのような話を持ちかけてくるとは思わなかったからだ、と」
デザンクロが慎重に告げると、アイレイの唇はきゅっと結ばれた。
「私自身の口から、このようなことを言うのは恐縮ですが...あなたの話の内容はこうです」
デザンクロはアイレイに背を向けたまま、木々の隙間から覗く青空を見上げて言う。
「近々、デザンクロ研究室が研究生を取るという噂がある。そしてもし自分がデザンクロ研究室に入ることができた場合、ランカスタ研究室を辞めることにする。...間違いありませんか?」
「...はい。確かに、そう言いました」
目を伏せて頷くアイレイに、デザンクロは「さて、では...」と切り出す。
「ランカスタ先生は今朝の件について大変申し訳なく思っており、あなたがよろしければ、謝罪の機会を与えてほしいそうです。そして、あなたの要求の件ですが――――それについては、私個人の意見を述べさせていただきます」
「...え...?」
デザンクロは振り返り、アイレイと向き合う。
「アイレイ。デザンクロ研究室が原因であなたがランカスタ先生のもとを離れるのなら、どうか考えを改めてほしい。...これは、まだ私とカナギアしか知らない、本当に内密にしてほしいことですが」
デザンクロは声を低める。
「デザンクロ研究室が研究生をとるという噂は、真です」
「...!」
「そしてアイレイ。あなたは今一度、ご自分の能力ゆえの立場を振り返ってみてほしいのです。あなたはランカスタ研究室の最優。軽率に席を空けることは憚られる立場です」
「そんな――――でも、私はもう、最優でも何でもありません!今なら、ただのアイレイ・ソウとして研究室の選抜試験を受けられます!」
アイレイは思わず立ち上がって、胸に手を当てデザンクロに訴える。
「先生は、私がランカスタ先生の研究生だから、私を採らないつもりなんですか...?そんなの...そんなのって...!」
「落ち着いてください、アイレイ。私は、しがらみがあるからあなたを採らないつもりだと言っているのではありません。
むしろ、あなたが我が研究室に相応しい人材だとみなされれば、ランカスタ先生の恨みを買ってでもあなたを迎え入れたいと思っています。
――――だからこそ、です」
デザンクロはそこで一旦言葉を切り、動揺するアイレイに真剣な眼差しを向ける。
「もしもその時が来た場合、私はあなたがランカスタ先生に囲われていてもあなたを引き抜きに来ます。もちろん、研究室の掛け持ちも自由に許可します。ですから、デザンクロ研究室...まだ実体すらない幻の研究室を理由にランカスタ研究室を辞める必要はまったくありません。
...というのを、私個人の方から説得材料として使わせていただきました。そう...それから、誤解の訂正ですが」
男はアイレイににこやかな笑みを向ける。
「最優の立場を考えてほしいというのは、その立場の重さを弁えろという意味ではないのです。その称号をあなたに贈った――――ミスター・ランカスタの、あなたへの思いの深さを分かってほしいという意味なのです」
「...」
デザンクロの優しい微笑みに、しかしアイレイは俯いた。
「――――ごめんなさい、先生。いいえ...私、ランカスタ先生にも謝らないといけません」
「?」
アイレイは自分の心臓のあたりに手をあてて語る。
「私、今朝ランカスタ先生に研究室を追い出されてから、ずっとモヤモヤしていたんです。それは、ランカスタ先生を怒らせたから、そして研究室を追い出されてしまったからだと思っていました。でも、デザンクロ先生のお話を聞いて、分かったんです...私、ランカスタ先生とは仲直りしたいけど、研究室には戻りたくないんだ、って」
「...!?」
予想だにしなかったアイレイの告白に、男の銀の瞳が僅かに見開く。
「ごめんなさい...私、ほんとは辞めたいだけだったんです。デザンクロ研究室に興味があるのは嘘ではありません。でも、それをランカスタ先生に話したのは、きっとただの口実だったんです。私、私、ほんとは――――」
「アイレイ...?」
語るうちに、女性のアメジストの瞳からは涙が溢れ出す。
「ほんとは逃げたかっただけで...先生のほうから出て行けって言われたのも、心のどこかで都合がいいって思ってる自分がいて...」
「アイレイ、落ち着いてください」
泣き出した彼女に動揺しつつも、デザンクロが彼女を宥める。
「...ごめんなさい。先生は関係ないのに、勝手に取り乱してしまって...」
「か、構いませんよ。ええ。しかしながら、アイレイ...つまりあなたは、デザンクロ研究室云々に関わらず、ランカスタ研究室に戻る気はないと?」
アイレイは涙をそっとぬぐいながら、たしかにデザンクロに頷く。
「...理由を聞いても――――ああいえ、言い方を変えましょう。なにかその別の理由とやらがあなたを泣かせてしまうとして、この場で私は相談に乗るべきでしょうか?あるいは、深くは聞かずにおくべきでしょうか?」
「それは...」
アイレイは胸に手をあてて自分の意志を確かめてから、首を横に振った。
「いいえ。私はまだ...誰にも話す気になれません」
「分かりました。それでは、先生にはあなたが研究室に戻る気はないということだけ、伝えておきますね」
「...はい。ありがとうございます...」
二人の会話は終わった。
デザンクロはレディファーストでアイレイに先を譲り、彼女が背を向けている間、なんの音も気配もなく――――"こちら"を振り向いた。
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「!!!!?」
デザンクロは人差し指を口元に立てて、どこかお茶目な笑顔で――――茂みの中の観測者をハッキリと捉えていた。
このことは、くれぐれも内密に――――そんなメッセージと思しきジェスチャーを、驚きとともに、フェルカの脳に焼き付けて、男は何事も無かったかのように静寂の森から去っていった。
それから数秒の間を空けて、
「っっひゃぁぁ......」
情けない声を上げながら、力の抜けたフェルカは地面に尻もちをつく。
あんなにピンポイントでフェルカの存在を見抜くとは。やはり"レクバレンの剣"の名は伊達ではない。
フェルカのドキドキは最後の彼のアクションが大きく作用していたが、それが収まった後も、自分が見聞きしたもののはどれを取っても衝撃的なニュースばかりだった。
まず、ランカスタ研究室の最優アイレイ・ソウの除名。
ロジェロ・ランカスタ教授の率いるランカスタ研究室は、現時点でアカデミー最強の研究室だ。そこの最優が変わるということは、すなわちアカデミー生最強の称号を持つ者が変わるということ。これは剣術科のビッグニュースに間違いないだろう。
さらに、"ランカスタ研究室がアカデミー最強の研究室"という概念そのものを根底から覆しかねない話も出てきた。
デザンクロ研究室。
そもそも何故、アカデミーNo.2の剣士であるランカスタの研究室が学院最強と謳われてきたのかといえば、それはデザンクロが長年研究生を取ってこなかった、すなわち"デザンクロ研究室"が存在しない幻の研究室だったからだ。
それがいま始動するということは、もしかしたら"アカデミー最強の研究室"が変わるかもしれないということ。ここまで来れば剣術科どころかレクバレンの"常識"が更新されてしまう、それはもう大きな出来事なのである。
...しかし、フェルカの心をいちばん掻き乱したのは、誰もが驚く重大ニュースなどとは程遠い、もっと些細で、そして見逃せない光景だった。
「アイレイさん...」
朝会ったときの、明るく笑顔を絶やさない彼女からは、とても想像などできない、滂沱するあの姿。
"誰にも話す気になれません"
「......」
自分勝手で自己満足的なことだが、フェルカはどこか安心していた。
自分だけでは、ないことに。
さっきのことは、誰にも内緒にしておこう――――フェルカは心の中で小さな誓いを立てると、午後から始まる授業のために、森の外へと駆け出した。