10『カナギア先生』
"カナギア先生"こと、カナギア・コクソーの、アカデミーでの立場を一言で説明するのは、難しい。
まず、彼女はアカデミーの教員ではない。
それどころか、正規スタッフですらない。
彼女は、アカデミーに在籍するエルトラン・デザンクロ准教授に個人的に雇われている助手。
言ってしまえば、フリーランスの魔術師だ。
"アカデミーの剣"と称されるデザンクロの右腕として名高い彼女の経歴は、まったくもって不明。
これは、もともと彼女がデザンクロの贔屓している東国――――海の向こうにある、謎多き小さな島国より引き抜かれてきた人材であることが関係している。
カナギア本人や、彼女の雇用主であるデザンクロが彼女の過去について一切を明かしたことがない、というのもあるが。
ともあれ、ここまで聞けばカナギア・コクソー女史が得体の知れない、近づきがたい人物のように思えるかもしれない。
それは大きな誤解である。
そのイメージを払拭するに覿面なカナギア女史の話といえば、主にアカデミーの幼稚舎、初等部の生徒――――すなわち、子どもたちに彼女が大変慕われているということだろう。
カナギアは子どもが好きで、デザンクロの助手を務める片手間に幼稚舎スタッフの手伝いをしたり、初等部生の家庭教師をする時期があった。
カナギアに世話になった子どもたちは多く――――フェルカ・フィリーも、そうちの一人だったというわけである。
フェルカがカナギアを"先生"呼びするのは、家庭教師カナギアの教え子として指導してもらった二年前の名残。
「"先生"はいらないよ、フェルカ」
さて、フェルカが呆然と口にした呼び名に、にこやかな女性は肩をすくめる。
「アカデミーで私がそう呼ばれるのは、どんな状況であってもおそれ多い。身が硬くなってしまうよ」
誰かが自分のもとへ飛んでくるならば、あれこれ質問攻めに遭うのは免れないだろうとフェルカは確信していた。
しかし、実際はどうだろう。カナギアはまるで、フェルカが倒れたということも、ここが保健室で、彼女が依然ベッドに座っていることさえも忘れているのではないかというほどの、いつも通りの言葉と笑顔を投げかけてくる。
フェルカはカナギアのことが大好きで、あつい信頼も寄せているには違いないのだが、彼女のそういうところ――――優雅な笑顔の下で何を考えているのか分からないところには、無駄と知りつつもつい身構えてしまう。
「と、ところでカナギアせ...カナギアさんは、どうして私がここにいるって、分かったんですか?」
フェルカの"貧血"を知ることになるのは、フェルカが教室に来ないことに気付くクラスメイト三十名弱と担任のベルクマイヤ、そして休講手続きを取るマシャールだ。
そして、日がなデザンクロ研究室で仕事漬けのカナギアには、彼らと接触する機会がないように思える。
「うん?ああ、そのことか。実にシンプルかつ、幸運な巡り合わせさ」
「ほよ?」
「ウチの研究室の仕事の関係でね、今日はマシャール先生をお招きして、ミーティングをしていたんだよ。そのとき、貧血で倒れた君のこと、それから、君を連れて来てくれたそこの彼に留守番を任せてきたことを聞いたんだ」
「......」
マシャールの名前が出て来て眉間にシワを寄せ始めた男に向かって、カナギアはフェルカに向けたのと同じ友好的な笑みを浮かべる。
「挨拶が遅れてしまったね。まさかこんなところで会うとは思わなかったよ。ユリム・ノーザーク君」
「...はい。どうも、ご無沙汰しております」
カナギアに後ろめたい気持ちがあるような、そんな複雑な顔を逸らしつつ、ユリムはぼそっ、と呟くような挨拶をした。
「ほえ...?カナギアさんとユリムさんって、知り合いだったんですか...?」
ユリムの態度も気になるが、フェルカは優先すべき疑問をカナギアに投げる。
「ああ。彼はちょっと、アセト研究室の...ああいや、この話は割愛だ。話せば長くなる」
ユリムの表情が暗くなるのを横目に見て、カナギアは説明を仕切り直す。
「ユリムはね、先生の受講生なんだ」
カナギアが名前を省略してただ"先生"というときは、彼女の上司であるデザンクロを指しているときだ。
「え...?てことは、剣術の授業ってことですか?ユリムさんは神秘科のはずじゃ...」
「レクバレンでは、在籍していない学科の授業でも、最大三つまで受講可能となっているのだ」
ユリムがメガネを押し上げて補足。
「なるほど、そういうことだったんですね...っていうか、ユリムさん、その見た目で運動もできるんですね...!?」
「見てくれが貧相で悪かったな...」
「ふぇ...ゆ、ユリムさん、今のはナシで...!落ち込まないでくださいぃ...!」
存外ユリムに深く刺さってしまった言葉を撤回しつつ、フェルカは彼の肩をぽんぽん叩いて謝罪する。
「ははは...私にしてみれば、君たちに面識があったのが驚きだよ。まったく意外な...アー...でも、どうかな。フェルカが何かに困っているところを、ユリムが助けに行くという構図はいかにもという感じだ」
「ユリムさんユリムさん、私たち朝からずっとカナギアさんに見られてたんでしょうか...?」
「奇遇だな。俺もいま同じ結論が出かかったところだ...」
「ただの推測だよ。観測はしてない。ユリムは世話焼き...というか、困っている人を放っておけない性格だから、フェルカに関わったらそのまま懐かれても不思議はないと思っただけさ」
あっさり二人の関係を看破したカナギアは、「それにしても...」と続ける。
「倒れたと聞いたから駆けつけてはみたものの、案外元気そうだね、フェルカ?もう、大丈夫なのかい?」
「はい。倒れたときはフラフラでしたけど、休んだらよくなりました」
フェルカはニコッと笑顔を見せる。
「それは何よりだ。しかし...どうする?もうすぐ午前の授業が終わって昼休みに入る。どのみち数時間後には中等部も終業だ。このまま大事を取って早退するというのもひとつの選択肢だと、私は考えているんだが。そうだ――――ユリムはどう思う?そばでフェルカを見ていた君の意見が聞きたい」
「フム...」
ユリムは顎に手を当てしばし唸ると、何食わぬ顔で嘯く。
「フェルカの容態がどうという切り口でものを言えば、正直どちらでも構わないかと。したがって、ここはフェルカ自身の判断に委ねるのが無難でしょう」
「はは...実に君らしいアンサーだね」
カナギアは爽やかに笑うと、改めてフェルカに向き直った。
「フェルカ、ユリムは君の好きにしたらいいと言っている。私もそれに異論はないよ。どうする?」
「そうですね...私、午後からの授業は出ようと思います。きっとモニカも心配してると思うし」
「モニカか...そうだね。彼女は心の優しい素直な子だ。もしかすると、昼休みは君の無事を祈りに教会へ行こうと考えているかもしれない」
「う...いかにもありそうな話...」
その時、昼休みを告げるチャイムの音が、アカデミーの空気を響かせた。
「マシャール先生もじきに戻ってこられるだろう。私はそろそろ研究室に戻るよ。私がいないと、あのタヌキはランチタイムの紅茶も満足に淹れられないからね」
カナギアは息をするかのように師をそしる。
これは、カナギアにしばしば見られることだ。なぜなのかフェルカは尋ねたことがあるのだが、曰く"別に?私は嘘は言っていないよ"とのこと。
(ユリムさんもカナギアさんも...意外な人を嫌いになるんだなぁ...そもそも本当に嫌いなのか、ちょっと疑問だけど...)
ユリムもマシャールの人格は認めていると断言していたし、カナギアもなんだかんだでデザンクロの右腕として働き始めてもう五年以上経っているんだとか。
もしかすると、それは嫌いだけではない、もっともっともっと複雑な感情が絡まっているのかもしれない。
「――――ああ、そうだ。フェルカ。ついでにひとつ、頼まれてくれるかい?」
立ち去りかけたカナギアが思い出したように足を止めたのは、フェルカがちょうどそんなことを考えていたときだった。
「ほよ...?いいですけど...なんですか...?」
「ありがとう。君なら、そう言ってくれると信じていたよ」
「...??」
少々オーバーな感謝の言葉に違和感を覚え、首をかしげる少女に、カナギアは言った。
「なに、簡単なタスクさ。ある人から、私の伝言を受け取ってほしいんだ」
「は...?」
「ほ...よ...??」
それがあべこべな依頼であることは、誰の目にも明らかだろう。
カナギア本人はここにいるというのに、なぜ別の人から聞くように、などとまどろっこしいことをするのか。
それは、カナギアの伝言ではなく――――仲介先の人物こそが、ミッションの真の目的だからに他ならない。
「――――リリー・フィリー。彼女にメッセージを預けておいた」
「「!!!!!!!!!!」」
「放課後、正門前で彼女は待っている。健闘を祈っているよ、フェルカ」
カナギアは、今日イチ晴れやかな笑顔で、二人のもとを後にする。
遠ざかっていくヒールの音を聞きながら、取り残された二人は呆然と、策士の罠にかかったことを噛み締めるのだった。