9『保健室にて・b』
というわけで、ユリムの優しさの前にフェルカの虚勢は呆気なく敗れ去り、彼の前でわんわんしくしくめそめそと泣いていた。
「ぐすっ...ユリムさぁん...!!」
「目をこするな、腫れるぞ。放っておくか、軽くおさえる程度に留めておけ」
「ユリムさぁん...えっぐ...!わたし、えぐっ...!ユリムさんに一生ついていきますぅ...!!」
「なんなのだ、突然重くるしい...おい、鼻を強くかみすぎだ。それでは後々炎症を起こす」
もはやフェルカは、今までの苦しみで泣いているのか、ユリムの優しさに感涙しているのか。いや、間違いなく両方あるにはあるのだろうが。
ユリムは困惑しつつも、彼女の顔に酷い泣き跡がつかぬよう、こまめに指導を入れているのだった。
(まあ...今まで甘える相手もいなかったのだろうし、反動が来ているのだろうな)
「ユリムさぁん...!!」
「分かった、分かったから。まったく...」
フェルカが求めてくるので、ユリムはぽんぽんと彼女の頭を軽く叩いてやる。
「うぐっ...うぐっ...ユリムさんって、やっぱりセインさんなんかより何億倍も中身がかっこいいです...!」
「あの男の中身を引き合いに出されても、下から数えられた気しかしないんだが...」
本人不在の場で悪意なき悪口が成立した後、ユリムがため息を吐く。
「泣きたいように泣かせてやりたいのは山々だが、あいにくここは無制限に貸し切られているわけではない。俺以外に見られたくないなら、泣きやんでおけよ」
「ほよ...?そういえばユリムさん、ここって保健室ですよね?誰もいないみたいですけど...?」
そこで初めて、フェルカは決して小さくはない不思議な光景に気がつく。
ここはまぎれもなく、フェルカの通う中等部校舎の保健室だ。
しかし――――この部屋にはいま、ユリムとフェルカの二人以外、誰もいない。
「だな。どうやらお前は運がいいらしい。お前が泣き喚いてる間、誰もここに来なかったのだからな」
「は、はぁ...って、それはまあよかったなって感じですけど!でも、先生がいないって、いったいどういう...?」
保健室の先生がいない保健室というのは、かなり問題なのではないだろうか。
まあユリムならまずそんなことはないが、もし悪い上級生が下級生を連れ込んで良からぬことでもした暁には、アカデミーの管理責任が問われる大事件待ったなしだ。
「...まあ、内密にしてほしいことだが、これは俺とあの男の二次的私的関係から生じた俺の特権のようなものだ」
「ほよ......?」
まったく意味が見えて来ない説明に突っ込んでいきたい気持ちもあったのだが、フェルカがぱちくり目を瞬かせるのは、ユリムの声や言葉に棘を感じたからだった。
「あの男って...マシャール先生のことですか?」
「いかにも。あの軟弱な医術師のことだ」
彼の言い方に、チクチクとしたナニカを感じるのは、きっとフェルカの気のせいではないだろう。
(でも...マシャール先生って...)
マシャール先生ことハンス・マシャールは、中等部保健室を担当する医術師である。
そして、いたって普通の、いい先生である。
フェルカは体育の授業での怪我などで彼にお世話になったことがあるが、気軽に頼れるお兄さん、といった印象だ。
強いて言えば、昼休みに芝生広場を歩いているマシャールの頭にドッジボールが直撃して見事に倒れた瞬間を目撃したことがあるので"ちょっと頼りない感じがするけど気軽に頼れるお兄さん"というのがトータル評価か。
そんな親近感に近い好感を抱いているのはフェルカだけではないだろう。若めのソフトな男性ということもあって、彼が新任で入ってきたとき、当時中等部一年のクラスメイトの一部にはそこそこ彼のファンがいた。
"マシャール先生は昼に婚約者の手作り弁当を食べている"という小っ恥ずかしい情報が流出したあたりからも、やや不憫で愛されているマシャールのキャラクターがうかがえる。
「マシャール先生って、実は悪い人なんですか...?」
「フム。何故そう思った」
「だって、ユリムさんはマシャール先生のこと嫌いみたいだから...」
正直に言うと、ユリムは「ム...」と今日イチ気難しそうな顔をする。
「別に、あの男が前途有望かつ人格者であることは否定しない」
「じゃ、じゃあなんで嫌いなんですか...?」
「別に嫌ってなどいない」
「ほえぇー...??」
「むしろ今は感謝している。俺の脅...説得を聞き入れ、特別に保健室を貸し切ってくれたのだからな」
何かユリムが物騒なことを言いかけたのは聞かなかったことにして、フェルカは「そ、そうですか...」と曖昧に首肯。
「ちなみに、お前についてあの男には"タチの悪い貧血で倒れた"と言ってある。発作等々については一切報告していない」
「え...?あ、ありがとうございます」
「ついでに言っておくが、お前が倒れてからここへ担ぎ込むまで、人に見られることは無かった。その点においての心配は無用だ」
「ほぇ...!?あ、は、はい...?」
「それともうひとつ。お前が倒れたのを知った者が見舞いに来たが、安静が必要だからという名目で、すべて追い返しておいた。即ち、お前がうなされているのを見た者は俺以外にいない。したがって"フェルカ・フィリーは貧血で倒れた"という事実は現在進行形で問題なく成立している」
「.........ゆ...」
「?」
「ユリムさぁぁん...!!」
「うぉっ!?」
感極まったフェルカがベッドから発射され、ユリムのローブにしがみつく。
「ユリムさんユリムさん、ユリムさんてば何でもしてくれるユリムさんですね...!私、具合が悪いのがバレちゃった相手がユリムさんでよかったって、すっごく、すっごく思います...!」
「なにやら、こき使われる予感しかしない礼の言葉なのだが...というか、離れんか」
「ふへへ...ユリムさん...」
「ええい、暑苦しい...」
路地裏にいるネコのごとく頭をすり寄せて来るフェルカ――――というか、ユリムの中でフェルカが野良ネコと完全一致した瞬間であった。
この二人の関係は今後長らくに渡りこのような感じで続いていくのだが...まあそんなことはさておき。
少し離れたところで、ドアの開く音がしたのはその時だった。
「ム...誰か、こちらに来るようだ」
「マシャール先生でしょうか...?」
フェルカの推測は、しかし部屋に響くヒールの音によって反証された。
「一応、元気そうな風には回復したが...どうする?必要ならば、追い返すが」
「いいえ。あんまり顔を出さないと、疑われちゃいますからね」
あっさりと首を振り、そんな打算を口にするフェルカに、ユリムはなんだか胸が痛んで「...わかった」と小さく相槌を打った。
そしてユリムがスツールに座り直した直後、フェルカを覆っていたカーテンがそっと開かれる。
「――――!」
カーテンの向こうから現れた予想外の人物に、少女は目を丸くした。
ウェーブのかかったオレンジのロングヘア。
美しい髪と同じ色をした瞳が、メガネの奥で光っている。
服装は、フェミニンなシルエットのトレンチコートに、メンズライクなパンツスーツだ。一見相反するモノ同士だが、持ち前のルックスとオーラでさらりと着こなしている。
しなやかながらどこか紳士的な雰囲気を漂わせた、妙齢の女性。
「やあ、フェルカ。久しぶりだね」
少女と目が合ってさっそく、女性はニコリと笑いかけた。
そのせいで、フェルカが頭の中でせっせと用意していた"外向け"の態度など真っ白に吹き飛んでしまった。
いまはただ、呆然と、その女の名を呼ぶ。
「――――カナギア、先生...?」