こんじきの森、母子
とにかくサクサク最後まで見てね!
面白いから! ためにもなるし・・、寓話的っ! なんちて。てちてちぃ! ・・なんちてっ!
名は、明花と言った。
一途な娘であった。一途に、誰かを好きになった。恋に、恋した。また、一途に不器用であった。嫌いになったら、自分に必要がないかもと判断したら、誰に対しても、キレイによそよそしさオーラを全開に放った。
"自分に必要がないかもと、判断したら?"
続けていかざるを得ない関係、しょうがなく断ち切れない関係性の相手にも、そう対応した。無視をして、傍らにその存在を、黙殺する。明花は、特に男性に対してはどう接したらいいか分からないところがあった。明花は幼くして、父親と離れてあった。
本質的に、明花の無視には微塵も悪意というものが含まれていなかった。もちろん最初に嫌だと思うからそうするはそうするのである。でもそれは、ただの結果、対応の手段であった。だから一度無視した相手ともシチュエーションが違えば普通に会話したりした。良くも悪くも、自分の思いに実直すぎた。だからある種、自然現象。明花にとって、自分のその行いは。
それでいて明花は頭が良かった。一対一の会話などは、ほとんどの場合明花が望む着地点に落ち着かせることが出来た。プラス、大勢でいる時などの場合は、要所要所、相手を見て選んで、無視も施していく。これは、人付き合いが上手いというのか下手というのか。
あまり物言わずして、ツンとしていて、それでも尚、明花には人を惹き付けて止まない何かがあった。明花は、色白で、頗る美人であった。
明花の家は、青森にあった。自然豊かで澄んだ空気が富む大地の下で生まれ育った。家族構成は、母、兄、そして明花の、三人であった。明花にとって兄の存在は、対男性のノウハウを学ぶ良き勉強材料とはならなかった。この兄は、人間が出来過ぎていた。優し過ぎた。故に、明花の根本的な自分本意度に拍車をかけただけであった。
明花が八歳の時までは父もまだ一緒に暮らしていた。父は、事業に失敗して、借金まみれであった。羽振りの良い時も、あるにはあった。でも、だからこそ、失敗というものを受け入れられなかった。会社のためと言って家の生活費に手を付け、終いには、子供たちのおこづかいや貯蓄にまで勝手に手を出すようになってしまった。父の生活態度、人間性は荒れていった。明花の母、結実は、子供たちのこれからのことも考え、離婚を決意した。
それからは結実が、女手一つで子供たちを育てた。並大抵の決意と覚悟、日々ではなかった。介護デイサービスの入浴補助専門のアルバイト、他にも、いくつかの仕事を掛け持って、お金を切り詰めながら生活していった。数年後、介護福祉士の資格を取得して、さらに頑張って働いて、ケアマネージャーの資格も取った。
結実は、いつからか、その会社グループになくてはならない存在となっていた。結果、立派に子供たちを育て上げたのだ。
結実は、気を配れる、人の痛みが分かる女性であった。また、他人の負の部分に感化されて、自分自身の価値観までなし崩しに揺らいでしまうような女性でもなかった。結実には芯があった。芯のある優しさを持っていた。彼女の人生が、経験が、彼女をそうさせた。
できた母に、できた兄。
明花だって、ちゃんとしたとこはちゃんとしていた。常識的なとこや、倫理観などは。ただ、接していて、表れてくるその態度として、一見、ん? と人に思われてしまう、損なところがあるだけの話であった。素敵で、できた女性であることに間違いはなかった。ただ、一見、ん? と。相手に、「私なにか悪いことした?」「私、確かにここに存在してますけど見えてます? 」と思わせてしまうだけのことであった。
明花は高校を卒業後に上京した。大学に入り、社会経済学を学んだ。大学卒業後、OLとして働いた。そのまま、東京で就職して。そんな折、知り合いに呼ばれて行った先のコンパで、ある男に出会った。結婚相手となる男である。
人当たりの良い男。絶えず優しく微笑んでいる。見た目は、悪くない。少し肉付きの良い体格だが。大手企業に勤め、どうやら将来性がある。男の名は、順也と言った。
明花はその、息を飲むような美貌の持ち主であるにも関わらず、学生時代から、今まで、あまり良縁に恵まれてはこなかった。目の前にはいつも、ロクでもないような、意味不明な男たちばかりが現れた。そういう男たちは、明花の無言のプレッシャーに押し潰され、すぐに頓挫しては消えて行った。明花はまた、たまに出会う魅力的だなと思える男たちとも、何故かこぞって、いつも上手くはいかなかった。
やっと出会えたかもしれない、運命の人。
二人は、すぐに恋に落ちた。明花は、この人だなと思えたなら、駆け引きなんかせずに、真っ直ぐ恋をするタイプ。心のスペースに、すんなり、お互いが、お互いの居て欲しい箇所に、座ることが出来た。明花は思った。これで全てを手に入れられる。全てが満たされる。きっと、幸せに、と。
だが、恋がもたらすものは旨味だけではなかった。全ての恋は、旨味だけでなく、苦味も辛味も携えているもの。それらは後からやってくる。世の中は、そんなに甘いところではなかった。いや、世の中が甘いとかどうこうよりも、運命は、明花に、もっと様々なものを荷そうとした。もっと、様々な、明花にしかほどき得ない負荷を。運命が、そう、必要とした。
順也との半同棲のような生活が始まり、子供を身ごもり、明花は仕事を辞め、それから、自然と、結婚という形になった。明花が三十歳の時であった。
ちょっとずつ、重なり積もってゆく不和。
これはこれ・・、あれがそれ・・、これはこれだから・・、それぇ!
良いところだけ見てきたし、見せてきた。人が、今まで暮らしてきた家族以外の誰かと暮らしていくって、簡単なことではない。ほんっの細かい、どうでもいいことばかりなのに!
明花は、徐々に、負けたままで仕切り直し、ゼロになって、下手に出てやり過ごして、笑顔で朝を迎えることが出来なくなっていった。日々の中で、言葉やちょっとした態度で、関係の修正を試みようとしたことも幾度かはあった。でも、焼け石に水。順也も、仲が円滑に戻ったらなという気持ちが全くないわけではなかったが、表だって明花に見せる態度には、ことさら陰湿なものがあった。
溜めて溜めて溜め込んで、黒い鉛が心の中を侵食していって、相手が気付かされた時にはもう、確実に手遅れなパターン。順也はそういうねちっこいタイプの男だった。お前がそうなら、俺もこうだぜ、と。明花にああしてくれこうしてくれと口では言わず、妻であるお前ができて、考え方を曲げて、当然だ、というスタンス。
順也は、明花に対して、そういう強固な姿勢を延々と取り続けた。男の俺が、生活習慣や考え方など曲げられない。何とかは、したい。でも、やはり、砕けて、一時でも妻の尻に敷かれたようにするのは、癪だ、と。
二人には子供が生まれてあった。第一子。長男。名は、大輝と言った。早くもこの大輝の存在だけが、二人の過去の思いの結晶、二人を繋げている唯一のものになりつつあった。そんな言いようしかない、家の中に冷たく流れている、沈鬱とした空気。
今日も旦那が、もうすぐ・・、仕事から帰ってくる。
外面が凄く良く、高給取りな順也。若くして、会社の重要な仕事を何度も任されている。
しばらく会話のない昨今でも、明花は、今日こそはと腕を振るい、多品目の手料理で順也を迎えるために頑張る。
"ギィッ・・、・・ガチャン"
マンションの扉が、風でそうされたみたいに、虚しく開閉する音。一人暮らしの部屋に帰って来たかのような雰囲気の、順也。何も言わずキッチンと居間を通り過ぎ、自分の部屋のクローゼットへと向かう。
大きなため息が、明花の口から漏れる。明花にだけ暗部を晒し続ける順也。スーツを脱ぎ、普段着に着替えて、大輝やホクホクの温かい晩ご飯に目もくれず、外に出て行ってしまう。帰って来て、玉のように可愛い息子の姿に、全く目もくれないなんて。明花は思う。
え、帰って来てすぐ、どこに?
これ見よがしに、本当に一人暮らしの男性かのように、コンビニで食べ物を買って帰って来る順也。温めた物用のコンビニの茶色いビニール袋を、プランプランさせて。
何で、酷いっ! 私が作ったものにはもう手は付けないと、そういうこと?
こんなやり方、不満があるにせよ何にせよ、ちゃんと話し合って打開策を考えるべき。順也は、真っすぐ家に帰って来て、帰っては来るけど・・。すぐに物言わぬ戦場と化してしまう家庭。敢えて順也に甘えて、通じ合う気持ちを確認したり、と、バカで盲目な女を演じることが出来ないままでいた明花。もう、手遅れなのか。突っぱね続け合う二人。お互い思いっきり勘付いて露見しまくっているお互いの弱さを、決して許し合えない夫婦。最後に会話したのが、もう、遠い日の出来事のよう。
明花は朝食も夕食も作らなくなる。大輝のミルクや離乳食、自分が食べる分の食事だけ、を作る。明花は家で、大輝の面倒ばかりを一人で見ている。
まだ、何も分からない赤ちゃん。それは当然。こんな、お父さんとお母さん・・。
大輝の無垢なケタケタと笑う顔を見て、明花の一日は過ぎていく。
それでも、毎日、真っすぐ家に帰って来るは帰って来る順也。決して明花の存在を認めようとはしないが。明花は思う。
あっちから最初、私に、辛く当たってきたんじゃん! 家族に無視を決め込むなんて・・、最低! 何でこうなの、いつまで、こうなの・・。
結婚生活一年にも満たずして、完全なる家庭内別居状態。
大輝が、ある日から、順也が帰って来て家の中が三人になると、条件反射的に、笑わなくなっていた。
明花は、結実に電話をする。もう耐えられない、と。
「あっちの両親も、変なの。何にもしようとしないの。言わないの。大輝のこともほとんど、ほとんどっていうか全然可愛いがろうとしないの。ねぇどうすればいい? 順也が何を考えているか全く分からない。どうしてあげればいいの? 前に順也が喋ってた過去の話を聞いてると、あと、あっちの父親と母親の感じを見てると、どうやらずっと、何が原因かは分からないけど、順也は子供の頃から父親と全く会話をしていないみたいなの。何これ、どういうこと? ずっとお互いを無視し合ってる。母親は母親で順也にべったりなだけ。甘やかすだけ。私が相談しても、"うーん、そういうとこある子なの。だから、でも・・、悪い子じゃないの"、とかって言って、決まってはぐらかす。何も物事を解決しようとか進展させようという気が見られない。勇気持って打ち明けて相談しても、そんな感じで、駄目。逆に、面倒くさそうな雰囲気まで醸し出してた。ねぇお母さん、こんなのもう私、耐えられない。自分の家庭持ったら、今度は私? 私に対してずっと、自分の父親がしてることをするわけ? 無視して、過ごしていくわけ? 何これ? 料理にすら手を付けてくれないなんて酷い。こんなどんよりと、形としてだけ、これから先ずっと、家族でいるのぉ・・」
愚痴が止まらない、明花。結実に、自分の置かれてしまってある状況を、ちゃんと知ってもらいたい。明花は、心底どうすればいいか分からない。初めての、境遇。
「いくら私の何かが気に入らなかったからって、新婚で、家族同士で、ここまでする? 何かあったんなら、ハッキリこういうとこ直せ、こうしろって、言えばいいじゃん。私が一体何をしたっていうの・・」
運命はいつだって度肝を抜くような皮肉を携えて、その人間の前に現れる。人に対して、ふんっと見下して思えるようなところがあると、まるでその存在を追いやって無いものとして振る舞ったりすることが多かった明花。今、旦那は、新しく愛を誓い合ったはずである、順也は、次元の違うそれを明花に施している。もうきっと、ある種、そうしていることが快感にまでなってしまっている。
心底娘の境遇を案ずる結実が、重たい口を開く。こういう時、青森の地から、東京はあまりに遠く感じる。
「もう、どうにもならないの?」
「どうにもならない」
「話し合いも・・、が、できない?」
「話し合いになんてならない。聞いてくれない。土台、私の前で立ち止まってすらくれない」
気の強いはずの明花も、さすがに自分で言いながら、情けなくなる。意識なんかせずに、いよいよ瞳に涙が溜まる。
「私が、話してみようか?」
「絶対に応じない。私のこともお母さんのことも、絶対に下に見てる。話に、ならないと思う」
後日、結実は試してみる。
順也がいる朝の時間帯や夜の時間帯を見計らって、家に電話をかける。夜に、順也が電話に出る。
結実が明花のことでと話した途端、順也は、「大丈夫ですよ」と言ってすぐに電話を切る。それから順也は、家の電話の配線をひっこ抜き、携帯電話にかかってくる結実からの着信は、全てスルーを決め込むようになる。
事実、話にならなかった。会話は、思いの交流は、一回のやり取りでそのまま闇に葬られてしまった。こうなる結果は見えていたものの、明花はやはりやり切れなかった。
このままいく、家庭? こんな感じのままいってしまえる、家族?
順也は外面、勤めている会社関係への体裁だけは気にしている様子。そこは、明花にはハッキリと分かった。感じた。最低限の世間体を気にしつつ、明花に地獄の毎日を与え続ける順也。
私が、悪かったのかな。どんな状態でいる彼も、最初、優しく受け止めてあげなきゃならなかったのかな。疲れていて、順也に対して邪険にしてしまう時は確かにあった。でもそれは嫌いになったとかもうこれから先ずっとこうだっていうことではなくて、一時的なストレスの解消、回避であっただけで、悪気なんて別になかった。でも、彼は傷付いてしまったのかな。もう、戻せないのかな・・。
ー 離婚 ー
当然、現実的な解決方法として、怖ろしくも日々近づいて見えてくる二文字。
こんなままで、全部大輝の世話は私がやっているようなまんまで、大輝をちゃんと育ててなんかいけない。無理。無理というか、嫌。私が大輝に付きっきりでいるからなんだろうけど、最近じゃ大輝にも全く構わなくなってしまった。きっと、視界にすら映してない。会話のない、お父さんとお母さん。もしものような時、大輝が怪我したり病気したり、事件に巻き込まれたりした時、この人はどうするの? 動いてくれるの? 助けてくれるの? 大輝の姿を、見ようともしてないのに? ちゃんと父親としての役割を、果たしてくれるの? 家でこんな高圧的な態度で私を無視し続けて、外に出てただお金だけを稼いで来て、それで父親としての役割を果たせているなんてまさか本気で思ってるの? これで、これでも・・、私たちを愛してくれているってこと?
あり得ない。何もかもがあり得ない。先が全く見えない。見えなく、なった。外に出たい。こんなんだったら、私が外に出て何かしら働きたい。どうすればいい? どうしよう・・・・。
大輝を連れて、青森に帰ろう。それしかない。頼っちゃうことになるけど、青森で、おばあちゃんと一緒に育てよう。お母さんはいつだって、私の、全力の味方でいてくれる。でも、何も言わず出て行ったら、順也はその後どうするんだろう? どういう行動を起こすんだろう。結局、知らんぷりかもね。その方が都合が良い。順也なんて、この先もう関係ない。顔も見たくない。この世で、私と、大輝をつくっただけの人。それだけ。彼がこのあと一人でどう生きていこうが知らない。永遠に、私たちを無視し続けていればいい。
母親は、基本、子供のことを考える。未来を見据える。明花は、心に決断を下す。
結婚して、本格的に一緒に暮らし始めてから、十ヶ月を経た頃だった。
明花は決行日を決めた。もちろん前もって結実に伝えた。青森に帰って生活することを、結実にお願いした。新幹線のチケットを買った。最低限度のものだけをバッグに詰め込んだ。あとは当日、大輝を背負い、この生活を終わらせるために、旅立つだけ。行くまでの数日間、毎日結実と明花は電話で話をした。
「解決できないんだから、しょうがないじゃん。話し合いすら成立しないんだから。こっちの思いを聞くだけ聞いて、汲み取るかどうかすら考えてくれない人なんてどうにもならない。あっちはあっちで、自分の思いを私に伝えてこようともしないし。お手上げ。別れる」
「一応、手紙で、理由と・・、別れるつもりだって、ハッキリ書いてきなさい。こっちで、三人でやり直そう」
片方の欄だけ署名捺印した離婚届。新しい生活のために、順也と二人で選んで買ったダイニングテーブル。新婚生活における、最も高価な買い物だったテーブル。そのテーブルのど真ん中に、離婚届だけを置いた。茶色に浮かぶ真っ白な用紙。明花は、結実に言われた手紙などはしたためなかった。必要性を、見出だせなかった。
真新しい朝。前日の夜から、そわそわしていた。
今日、出る。貧しくても、父親がいなくても、笑顔ある家庭にするために。大輝のために、私のために、未来のために。
運命の皮肉。結実もシングルマザーであり、娘の明花もそうなろうとしていた。結実は、子供たちを自立させ、青森で一人で暮らしていたが、こんな時は、支えになりたかった。成人して嫁いだとはいえ、たった一人の危なっかしい娘。どんな時でも、状況でも、受け止めてやらねば、と。結実はそういう気持ちだった。そして純粋に、幼い大輝を面倒みたいと思った。明花が命懸けで生んだ、男の子。孫。本当に、眼球のある窪みの中に大輝の体の一部分をぐりっと入れてやっても、痛さよりも愛しさの方が勝ることだろう。
もう、このマンションから、決して振り返らずに、出て行くだけだ。時が、来た。
玄関の扉の鍵を締める。そのまま明花は、合鍵を郵便ポストに入れる。
あなたが望んでいる家庭になるわよ。疲れて帰って来ても、一段と静かな家。会話が起こるべくもない、家。
大輝を抱え、新幹線に乗る。運命の片道キップ。愛する我が子との逃避行。愛するがための、巣立ち。別れ。
何の不安も焦燥も悲しみも後悔も、してやったり感もなかった。車窓から見える流れ行く景色に身と心を委ね、明花は久しぶりに無心になれた。いつもとは明らかに違う環境に置かれた大輝は、声を上げて興奮して、たくさん笑っていた。明花はその表情を見て、何も考えずに微笑み返した。もう取り敢えず、余計なことを考えなくても良いのだ、良くなったのだ、と。
子供で、何も分からないから笑っているのではない。笑うから、過去を意に介さない運命を、強さを、その小さな体に宿すのだ。
真っさらにする、何もかも、一度。大輝にだけ、お父さんという存在がいなくて、申し訳ないという思いがあるだけ。真っさらにする。あんな人、敵わない。・・叶わない・・。
久しぶりの青森。空気の鮮度が違う。ホームに降り立った瞬間、都会から離れる寂しさを含んだ大きな安心感と虚脱感に、明花はふいに襲われる。亡くしていた記憶のページがほどかれて、目眩と共に断片的に脳裏に浮かんでくるような感覚。田舎出身で東京暮らしの人なら、何となく分かることだろう。
「おかえり」
駅に出迎える結実。複雑な感情で、娘と孫を迎える。でも、目は生き生きとして。
運ばれて来た男の子。こうせざるを得なかった、切り抜けて来た娘。
広い県道。連なるリンゴ畑。緑の大地は、瞬き一つせずに、すんなり母子を受け入れる。
夕飯の買い物をして家に帰る。大輝は、移動の疲れからか、すやすやと寝ている。孫を抱っこする結実。温もりが伝播される。代を経た、母に、子に。ちょっとして大輝は目を覚ます。
「大変でしたねぇ、疲ゅかれましたかぁ」
あやして声をかける、結実。大輝は、新幹線の中でしたのと同じように、またケラケラと笑う。
2LDKの閑静な市営アパートの一隅。ここが明花の実家。暮らしの原点。同じ棟の住人たちに、着いたその日の内にあいさつに回った。
毎日が少しだけ騒がしくなりそうな予感。少しというか、かなり。結実の心は、人知れず弾んでいた。
すぐ次の日、午後。
結実は仕事。明花は、これからの生活に思いを馳せていた。どうにかして、いつかは、近い将来、誰にも頼らずに、大輝を育て上げていけるようにならねば、と。結実が、明花や明花の兄をそうしてくれたみたいに。
チャイムが鳴る。誰だろう。何の気なしに玄関に向かう明花。
結実が仕事に出て行ったあと、玄関の鍵を閉めていなかった。入ってくる。目を充血させて、東京で仕事に行っているはずの、順也。朝一番で、東京から青森まで、こっちに、来た? 息が詰まる明花。完全に憤怒で思考が満たされてしまっている感じの、表情の、順也。
「何をやってるんだぁ! 返せ・・、大輝を返せぇ! お前なんかが・・、何をやっているんだぁ! 俺の息子だあ!」
大声を上げ、明花の横をすり抜け、居間に向かう順也。後を追う明花。久しぶりに聞く、夫の声。順也はソファーの上で寝ている大輝に気付く。そして、見るなりすぐさま、大輝を掴んで抱き上げる。荒く。
「やめて! ねえやめて!」
大人たちの大声にびっくりし、目を丸くして目覚める大輝。まだ物心もついてない、幼子。
順也が大輝を抱え、明花もその腕の中の大輝を掴み、取り返そうと力を込める。大輝を父と母が挟んで抱え合い、もみくちゃな様相。
「やめて! 帰って! 帰れぇ! なんにも私たちのことなんて思わないくせにっ! 私が生んだ子供だ、帰れ、帰れぇ! 大輝が・・、怪我しちゃう!」
「勝手なことばっかしやがって妻のくせに、俺の子供だぁ! 俺の・・、黙ってれば良いんだぁ! お前が手を離せえ!」
決して離さない、明花。
「はあ、はあ、」
「はあ、はあ、」
大輝から手を離し、明花に向け大きく腕を振りかぶる順也。口を真っ直ぐ結び、顔を赤くし。
「きゃあっ!」
瞬間、大輝を抱えたまま顔を背ける明花。
未来と過去の渦が入り乱れる。入り乱れて、潮目を変える。平行して横たわったままだった時が、方々に流れ始める。時が、実体を失ったことにより芽吹く別次元の実体を現そうと、動き始める。行き交い、交錯する。
空中で、止まったままの手。振り降ろさない、手。振り降ろせない、手。ずっと、このまま、過ぎてしまっていた。手、思い。順也と、その父親との関係、順也と、妻、いや、妻だった、明花との関係。
順也は、大きく息を吐き出し、明花か、明花のすぐ脇のどこか一点に視線を持っていかれたまま、何も出来なくなる。動かなくなる。
明花はスキを見て、畳の寝室の方へ、大輝を抱えたまま移動する。逃げる。反射的に途中まで追いかけるが、止まり、玄関先で立ち尽くしてしまう順也。
「帰って・・、もう二度と、来ないで。私たちと別れてえ!」
しばらく立ち尽くしていたが、何も言わず、玄関の鉄製のグリーンの扉を、猛烈な勢いをつけて開けて、思いっきり叩きつけて閉めて、去っていく順也。
音の余韻はすぐに収まって消えた。
大輝が明花の腕の中で、目と口を大きく開けて固まっていた。
落ち着いたあと、明花は仕事中の結実にメールを送った。
※
順也、ウチに来たよ。朝一か昨日の夜に、東京から発ってきたんだと思う。車で来てた。帰り際気になって窓から確認したら順也の車が見えたから。
鍵してなかったから、勝手に中に上がり込んで来て、大輝の取り合いになった。言いたいこと言い合って、叫び合って、拒絶したら、最後は何も言わずに黙って帰って行った。もう来ないでしょ。ハンコ押して、手続きするよ。これで、終わり。
※
仕事から帰って来て、さらなる詳細を問いただす結実。これからどうするべきか。一応、電話でだけじゃなく、相手の親御さんにもう一度きちんと話をつけにいくべきか。
「話にならないって。だいたいこれ以上、何を話すの? 一応、こっち戻って来る前にあっちの母親には大輝連れて別れるってことは伝えてきてるんだから。あっちはもう、完全な飾りだけの家族だし。大輝への愛情すら、全くないし。私のことも、私のことなんて、本当に、ただちょっと風が強い日に出くわしたぐらいにしか捉えてないよ。もう、順也とのことは全部おしまい」
明花は、突然の順也とのやり取りで、夜になってもまだ少し興奮していた。結実からは、物事そのものに対するやりきれなさなのか、ため息ばかりが漏れた。
その日は、母と娘、順也とのこと以外は、あまり会話がなく過ごした。でも二人とも、大輝が無邪気に笑っていると、つられて、何となく笑顔にはなれた。
大輝は、東日本大震災の前年の五月に生まれた。大輝の誕生が明花と順也の結婚の決め手となった。
明花のお腹に大輝がいて、順也は、仕事が終わった後、週の半分以上明花のアパートを訪れていた。休みの前日はほぼ毎週泊まっていた。二人で雑誌を見たりDVDを観たり、百貨店に赴いて、生まれてくる子供の服やそのベッドの種類を見たりして過ごした。その頃は、楽しかった。順也は、明花と生まれてくる我が子のことを思い、支え続けていた。だから明花は信じられなかった。あんなに優しくて完璧だった人が、共に明るい家庭を思い描いていた人が、結婚して完全に一緒に暮らし始めた途端、些細なことが積もっていった原因の不和なんかで、ここまで自分の家族に関心を持たぬ人間になってしまうなんて、と。
きっと順也自身、どう振る舞ったらいいか分からなかったのだろう。ずっと幼い頃から彼の父親がそうして見せてきた環境があって、何か御し難いことが家庭にあった時の、順也の唯一の表現方法だったのだろう。他に、きっと、仕様がなかったのだ。
大輝は、顔や体型や、濃くて硬めな毛質などが、とても順也に似ていた。笑った顔は明花の顔立ちの面影も宿していたが、外見は、ああ、順也の生き写しだぁと思わせるところが多々あった。当たり前である、親子だ。顔のパーツの位置が良く、目がくりんとしていて、ちょっと肉付きがいい、玉のようにかわいい男の子。で、元気活発な男の子。
明花には、結婚当初、何にも怖いものなんてなかった。何も、考えなくて良かった。優しくてしっかりした夫。口数はやたら少ないけど、いつもニコニコしている夫の親御さんたち。初めて天から授かった息子、大輝。健康で生まれてきてくれた子。何にも、不安な要素なんてなかった。でも、まあ、先のことは分からないものだ。
大輝は、歩きはじめるにつれ、言葉を徐々に覚えてくるにつれ、それはそれは、とても賢い子供の片鱗を見せていった。IQが高いとか、すぐに数学の公式を覚えだしたとか、そういうことではない。大輝は、人の心を読んだり掴んだりすることに長けていた。
大輝は、物心ついて、青森の家で、すぐに何かを感じ取った。理解を、した。ハッキリとは思い浮かべ得ない、が、どこか流し切れぬ、映像の断片。モヤモヤとした、思いの断片。僕に確かにある、この感覚は何だ、と。この家には、何か欠けているものがある、と。明花も結実も、もちろん大輝の前では、全く言葉にも態度にも出さずに暮らしていた。でも大輝は、二人の物言わぬ、変な感情の交錯に気付いていた。状況に、気付いた。大人になると人は、常識という偏見のブラインドをひさげ、時としてとても大事なものを見落としてしまったりする。ともすれば子供ほど、本当の意味で欺くことが困難な相手もいないのだろう。ダイレクトに、実直に、敏感に、人の"心"を察する。大輝は、子供心に、確かに感じ取っていたのだ。
二人は、何となく何かに引け目を感じている。何となくある、悲しみ。何となく、やり切れなさ。何となく、影が差す表情。何となく、たまに、無理矢理明るく振る舞っている・・。
ある日。
居間のテレビの周りにポツポツと置かれている大輝のオモチャ。絵本や、戦隊ものの人形、変身ベルトや、剣、ミニカーなど。
ソファーに座ってぼーっと朝のアニメに見入ったあと、大輝は、ふいに、結実に聞いた。その時、家には結実と大輝しかいなかった。そういう状況の時を、大輝は狙っていた。結実はちょうど、台所で朝食の後片付けをしていた。
「ばあちゃーん、ばあちゃぁあーん! パーパ、パーパ・・。お父さんは? 大輝の、お父さんはぁ? お、ば、あ・・、ちゃーん!」
背中で聞いた結実の動きが一瞬止まった。結実は、口を真一文字に結び、手を拭き、大輝の傍へ行った。そして大輝の肩に手を置き、相対する黒い真珠のような目を真っ直ぐに見た。
「お父さんは、いないの。うーん・・・・、いるんだけど、もう、お母さんもおばあちゃんも、大輝にも、会えなくなってしまったの。世の中にはね、そういうことがあるの。そういう子が、家族が、他にもいっぱいいるの。でもね、大輝・・。だからって大輝が、弱かったり悲しかったり、寂しかったりすることではないの。家族に、男の子、大輝一人だけだから、大輝は、お父さんいない分、強くなるの。誰かに、優しくしてあげられるようになるの。優しく、強くならなきゃいけないの。将来、おばあちゃんとかお母さんとか、大輝が大きくなったら、大輝に守ってもらいたいなーって思ってるの。ねっ、だから、気にすることではないの。何ともないの」
そう言って結実は、大輝の目を見つめたまま、ニッコリと笑った。そして素早く、台所の方に戻った。台所の前に立った。一滴も、大輝の前では目を潤わせたりなんかしなかった。結実は強かった、けど、大輝を背にし、台所の前に立った途端、涙で視界が弾けた。だけど、すぐに心と表情を持ち直した。
大輝は、結実が去るのと同時に、大きな深呼吸を一つだけした。そしてそのまま、ソファーの上に座ったまま固まっていた。
しばらくして居間から、何かを思い出したかのような、「わかったぁ」という、弱々しくも可愛らしい声が台所に届いた。
明花は、新たなる自分の人生の基盤となるものを培っていかなければならなかった。もう夫はいない。人生、何があるかも分からない。いつまで、母、結実と暮らしていけるかも分からない。元々、そんなに甘え切るつもりもない。明花が一人で、大輝と、自分のこれからの人生を運航していける、自立した経済力を得られる何かを身に付けなければならなかった。明花も、三十一歳。年齢は関係ない。が、一時も無駄にせず何かに取りかからなければならなかった。大学は、出させてもらっていた。そのあと順也に出会うまで、OLとしての経験も少し積んだ。でも青森になんて、東京にあるような割の良い就職先が溢れているわけではない。
何か、どこに居ても食べていける、強力な武器を身に付けなければ・・。ちょっと、こうして、路頭に迷うような形になってしまったのだから、どうせなら、逞しく生きて行けるようになりたい。
明花は、こうと決めたら、しっかりと目標を定め、コツコツと進んでいけるタイプであった。そういうとこは、しっかりと母譲りであった。母の姿を、見てきたから。
人の役に立って、食いっぱぐれのない仕事。日本は、これから、ますますの超高齢化社会になっていく。母も、お年寄りを助ける仕事を長年している。
明花が選んだ道は、看護士だった。
正看の資格を取って、働く。私は、ナースになる。これなら、大輝のことをしっかりと養っていけるだろう。
明花は心にそう決めた。
甘えるところは甘え、しっかりと未来を見据えて、力を蓄えていく日々が始まった。明花は看護士になるための専門学校に通い始めた。受験して、すぐに受かったのだ。明花は、勉強ができた。学校に行くに伴って、大輝を、夜六時半くらいまで、託児所を兼ねた保育園に預けることになった。新生活。日中、結実はケアマネージャーの仕事。明花は学校。大輝は保育園。明花も結実もたまに、夜七時から八時くらいまで仕事や勉強がかかってしまうことがあった。しかし、そんな時の対策もしっかりと出来てあった。
夫のいない結実と長年付き合いのある、これまたもちろん妻のいない年輩男性のGに、大輝のお迎えと子守りを頼んでおくのだ。
明花が青森に帰ってくる前、結実とGは半同棲のような形でお互いの家を行き来していたから、お互いお互いの家の合鍵を持っていたし、勝手もわかっていた。明花と結実が遅い時は、このGが大輝と共に、先に結実の家で、二人の帰りを待っているという形が取れたのだ。Gは、かつて結実が配属されていたデイサービス施設専属の、送迎バスの運転手だった。時間の融通が良く、夕方には終わる仕事だった。Gは、たいそう大輝のことを可愛がった。血はもちろん繋がっていないが、そんなことは人間の絆には根本的に関係がないのかもしれない。Gは、自分の息子や孫と同じくらいに、大輝を可愛がって、本物のおじいちゃんとして接した。大輝は、いくら賢い子供でも、Gの存在定義、ポジションを、やはりまだ把握できかねていた。でも、二人の仲睦まじさは本物だった。何の因果か、大輝にはちょうど、本当に"おじいちゃん"と呼べる存在の人がいなかったから。結実の元夫も、父母も、すでに他界していたし、順也のところは、駄目だったし。だから大輝にとってGは、うってつけの運命の存在だった。
大輝には、自分がどう振る舞ったらいいのかが何となくわかっていた。と同時に、子供がほんに持つ無邪気さも、全く失ってはいなかった。全てが、彼のナチュラルであった。 心から笑い、心から泣いて、心から喜んで、心から憤慨した。全て、悪意からくる操作ではなかった。みんなが楽しく和めばいい、と、大輝は本当にそう思った上で振る舞っていた。大輝の存在は、もちろん、皆をとても喜ばせていた。
看護士の専門学校に通っている人の年齢層は様々だった。大学を出てから入ってきた子。社会に出てしばらく経って、バイトしながら通っている子。三、四十代の人も少数いた。明花はそれはそれで楽しく感じていた。明花は三十二歳で、年齢が高い方の部類だったが、若い方のグループの子とも難なくコミュニケーションがとれた。当たり障りのない程度には。
学校に通いだしてからちょっと経って、明花は、新卒の十九歳の男子生徒と仲良くなった。同じクラスで、波長が合った。惹かれ合った。彼は、明花のマイペースでハッキリとした性格に引き込まれていった。それと、圧倒的な美貌と。彼の名は、靖史と言った。
靖史には他に同年代の彼女がいた。でも明花は、お互いが惹かれ合って、"これから"、な恋なら、他の誰かの存在はそれほど気にならない性分であった。それは顔も知らない相手の女性に敵意を抱いたりするものではなく、純粋な恋心から、恋というものの捉え方からくるものであった。人は、それが運命の恋だと感じられている最中は、時にどんな犠牲も厭わなかったりするものであろう。どんな状況でも、パートナーがいても、好き同士になってしまったら、もう、仕方のないとこは仕方なかったりするじゃん、と。
年齢の差はお互い全く気にならなかった。見た目的にも、精神的にも。話していて、わずかに年代的な何かを感じる部分があったとしても、もはやそれすら興奮材料となるだけのことであった。何を言うとんねん。
ある日。
たまにあるいつもの如く、結実も明花も帰りが遅かった。Gは、頼まれてあってのことだけど、いち早く大輝の顔を見たくて、予定より少し早く保育園に迎えに行った。雪が歩道や道路脇にちらついて残ってあって、アイスバーンの張った冬の日だった。
Gが、保育園に到着。察知した大輝が、教室から走って出てくる。カバンなんか肩にかけずに。
「じじぃ!」
「へっへっへっへぇ。おう大輝ぃ、お利口にしてたかぁ?」
「今日ねえ、列車ごっことフラフープごっことねえ、あとねえ、お歌を歌ったぁ」
「おう、たくさん遊んだなぁ、すごいなあ」
「お腹すいたぁー」
「よし、じゃあカバン持って帰ろう。今おうち帰ったらすぐ、お母さんもおばあちゃんも来るからなぁ」
助手席に大輝を乗せ、笑顔で車を走らせるG。隣にいる大輝の一挙手一投足、全てが愛しい。冬の、短い夕暮れ時。もはや既に、真っ暗な道を行く。三分と経った頃に、大輝はコトンと眠りについてしまう。保育園から結実の家まで、ほんの十分弱の道。このわずかな間に寝てしまうほど、全力で元気な毎日の大輝。遊び盛りの、子供だもの。体格は、保育園のクラスで二番目に大きい。そして車や電車の種類に詳しい。ほんに、ブーブー系の知識は大人顔負けにある大輝。
明花が学校を早く上がれる日、若しくは結実が仕事を早く上がれる時は、さすがに大輝のお迎えをGに任せるわけにはいかず、そこは普段からメールなどで連携し合って行っていた。この日は、遅くなりそうなので、と、Gが任されていた日。
市営アパートの、広い駐車場に着く。
Gは、おやっ? と思う。明花の車がもう帰って来ている。だが、見上げると、三階にある部屋の明かりは暗いままだ。点いていない。おや、どうしたんだろう・・。
眠りについたまま呻き声を上げている大輝をそっと抱え、Gは、建物の中に入り、階段を上がって行く。なんか変だな、と思いながら。合鍵でドアを開ける。鍵は・・、掛かっていた。中は、やはり真っ暗、だが、あっ・・。
「えっ、あっ、えっ・・、お邪魔してまぁす」
寝室の畳みの部屋に、暗闇に、うごめく二つの影。若い男の声。どうやら、二人が、大慌てでそこいらの僅かに散らばってある衣類を手繰り寄せている。
「ああっ・・、こんばんわあぁ」
Gは、訝しげな声色ながら、なんとか挨拶をしぼりだす。返す。そして、電気を点ける。光と現実が同化する。
上着も脱いだ肌寒そうな格好。Tシャツ一枚に、今しがたズボンを上げたような出で立ち。所在ない雰囲気で、立ち尽くす男女。明花と、靖史であった。
何をしている・・、してたんだろう・・、と、どこか、どこかバツの悪いG。いやそりゃ滅茶苦茶バツが悪いG。そして、Gには、変な怒りがこみ上げてきてしまう。頼まれているにしろ、ほとんど自分から率先して喜んでやっていることなのに、だけど、子供のお迎えを人にさせて、その間、母親は・・、と。ちょっと納得のいかない部分が、憤りが、表情に出てしまうG。微妙な状況の三人。もう一人いる幼児は、変わらずGの腕の中。明花は明花で、Gが憤ってあることを鋭敏に感じ取ってしまう。
「ふふふふふっ。ああ、大輝のこと・・、ごめんねえ。じじぃ」
「じじ?」と、靖史。
「うん、あの、お母さんとお友達の、」
「ああ! そうですか! すいません、なんか・・。失礼しますお邪魔しました!」
靖史は、服を全部着てコートも羽織い、退散するのが最上の判断と、抱き付かんばかりの勢いで玄関の扉へと歩む。
「あっ、靖史君ごめんねえ。バタバタして」
Gは居間の入口で、二人の若い男女の様子を、チラと窺う。
仕方なかったような、でも、こんな微妙な時間の隙間に、こんなことをされてしまうのは、それは、なんか違うような。だって、どのみち大輝を送り届けるために家に上がらなきゃならなかったんだし。でも、明花に面と向かって責め立てるのは、それもそれで、話が違ってくるような気がするし。
靖史が去ってから、とても言い様のない雰囲気になる明花とG。
Gの腕の中の大輝が、いつの間にか静かに目を開けていた。ハッとして、呼応する大人二人。明花が居間も台所も全ての場所の電気を点ける。Gはソファーに大輝を降ろす。そこは、何も変わらないいつもの空間だった。
「では、私は帰ります」
Gは、せめてもの反抗として、普段使わない敬語を使って、他人行儀な感じを強調して、そう告げた。明花も、多少顔が引き攣って、「ごめんねえ、ありがとう」と、ことさら何でもなかったように、わざと明るく言った。
この一件以来、Gは口に出して面と向かって明花にものを言うことができない分、変なモヤモヤを抱えることになってしまった。明花は、あからさまにGに対して素っ気ない態度を取るようになり、そして、延いては、シカトを決め込むようになってしまった。
またかよ、である。またこの流れ。パターン。どんだけ不器用なんだよ、と。生来、根本的に、男性と気まずくなってしまった時にどううまく立ち回って接したらいいかが分からない明花。
いくら大輝がお世話になっているからって、お母さんの友だちだからって、当たり前のようにウチに上がって来て、不機嫌になって、私のプライベートにまで何か言いたいことがあるような雰囲気出して、何なの? 何かあんまり、絡みたくない。と、なってしまうのであった。
だがその後もみんなの関係性は滞りなく続いた。基本、明花とGが口を利かなくなったというだけ。大輝は子供ながらに空気を読み取って、それについてはそっとしておいている。神様が絶妙にバランスを取ったかのような、子供っぽい母親に、大人っぽい息子の、カップル。何故か人類には不思議と稀に、こういうことがある。こういう親子が、いる。結実のスタンスは、明花もGもどちらも大事。仕方ないねぇ、という感じ。変わらず大輝は、Gといる時は、Gにベッタリ。たまにGの家の無職の息子、Yも、みんなでの会食や大輝のアウトドア遊びの行脚に、背後霊のように付き添っていたり、と。
時間は、経過していった。
大輝はすくすく成長していった。欲しいオモチャがあっても、あまり駄々をこねず、大人に迷惑をかけなくなっていた。そうした方が実際にスムーズに買ってもらえることに気付いたから。大輝は同年代の子供たちよりやはり少し賢かった。保育園でもみんなに好かれる人気者であった。
ある日、保育園で、友だちの男の子が、
「大輝君と羽月ちゃんさぁ、二人ともかわいくって、好き同士なんだよぉ」と言う。周りにいる他の子たちからちゃかしが入る。
「ヒューヒュー、ヒュー!」
子供心にももちろん、大輝と、クラスの中で最もモテている女の子である羽月ちゃんは、照れる。教室に一瞬、変な間が空く。でもすぐに大輝は照れを超えて持ち直す。その場全てをやり込めにかかる。
「さぁみんなで遊ぼー。◯◯君も△△君も、羽月ちゃんもー」
明るく、敢えてみんなを巻き込んで制す。
羽月ちゃんの乙女心を、尚のことキュンキュンとさせる大輝であった。
明花は充実とした日々を送っていた。勉強は苦ではない。寧ろ、楽しいくらい。もし苦しかったとしても、やらねばならぬ。看護士に、ならねば。そして、滞りなく希望を具現化していった。
準看を二年で取得して、すぐに正看を取るために、別の専門学校へ進んだ。何より、地元はやっぱり楽しい。気心が知れている。でも・・。
歩けば、どうしても過去に当たる。昔の知り合い、同級生、恋人・・。こんな田舎じゃ当たり前。地方都市としては、きっとまだマシな方。
看護士になって、良いお給料もらえるようになって、それから、それから、どうしよう。一生ここで、大輝と、お母さんと、私とで? 三人で、暮らす?
幸せだけど、不自由はないけど、漠としてある、不充足感。先が見えないようで見えていて、また見えてはいても本当はどこに向かって行っているのか、どうしたい、どうなりたいのかが、明確に降りて来ない不安。
取り敢えず今は余計なことは考えない。勉強に励もう。前に進もう。この地で生活できていることを、満喫しよう・・。
大輝は食べ物の好き嫌いがほとんどなかった。そして五歳にして、大人と同じくらいの分量を食べられるようになっていた。
大輝は毎年、花見に行った。花見の風情を感じ取って、大輝なりに学んでいた。みんな食べ物食べてお酒飲んでばっかり、と。
明花は準看として、学校に通いながらも、病院で働けるようになっていた。勉強が忙しい時は病院は辞めて、学校の長期休暇の時に、スーパーのお惣菜屋さんでバイトしたりした。学校の成績は、優秀。正看の試験対策も万全になりつつあった。
大輝は、春や夏の暖かい季節には、地域の恒例行事に参加したりする他にも、近所の大きい公園に隣接してある遊び場に、よくゴーカートを乗りに行った。大輝は本当に車が大好き。だからGの車に乗せてもらう時間がとても楽しみであった。Gも車に頗る詳しく、また運転のプロであったから、大輝はとても刺激的に感じていたのだった。Gは大型車やユニッククレーン車、フォークリフトなど、様々な乗り物の免許を持っていた。そのGが驚くぐらい、大輝は車のことをよく知っていた。見るのも聞くのも乗るのも好き。好きこそものの上手なれ。そして、青森の夏と言えば、やはりねぶた祭。大輝は、ねぶたも大好きだった。笛、太鼓、踊り、何でもやった。中でも動くのが大好きな大輝は、踊りが一番得意だった。GやYの前では、やってと言われても、最初は恥ずかしがってやらない。でもその数分後、人に見られていることに慣れてきたら、見事に披露した。
明花のママ友はたくさんいた。男性とはごくごく特定の人としかコミュニケーションできない質の明花であったが、女性とは昔から仲良く振る舞えた。
昨今、シングルマザーはたくさんいる。そしてギリギリ夫婦として離れてはいない状態であっても、経済的な理由から不仲のまま仕方なく別れられないでいる女性が多いことを、明花は何度も知らされた。様々な形態の夫婦があることを、明花は嫌というほど世間話の上で知らされた。
別れてしまえた、ということ。結局、別れられないでいる、ということ。人生の不思議な差、岐路。出会いと別れの、妙。
大輝は、習い事とまではいかないが、希望した園児だけが無料で稽古をつけてもらえる柔道教室に、たまに通いだした。コロコロ畳の上を転がってはしゃぐ大輝の様子は、見ている者みながかわいいと思った。ついに何かスポーツに打ち込み始めるかどうかといった、大輝。たまにお迎えの際に練習風景を覗くGには、たまらない、感慨深いものがあった。Gは、学生時代に柔道部だったから。だから大輝の姿は尚更かわいかった。大輝は、割と力が強かった。技なんて全然知らなくても、そうそう同年代の男の子には負けなかった。逆に、二つ上の男の子を転ばせたりした。
明花は靖史君とは疎遠になっていた。若いツバメではあったが、だからこそ、本格的に先を見据える交際がどうしても想像できなかった。遊んだ、だけ。遊んであげた、だけ。
眩くも儚い時はさらにぐんぐんと過ぎていった。
「いつかは、どっちみち、最終的には私一人で大輝を育てていかなきゃならない。私が、私の足で人生を歩んでいかなきゃならない」
明花は結実に東京に戻るつもりであることを伝えた。もうすぐに、正看の資格を取って、少し大きくなった大輝を連れて。もちろん、母子、二人で。
「まだ大輝だって小さいのに。資格取ったからっていきなり東京で就職するなんてぇ。仕事で時間遅い時どうするの? なんか、もしもの時、誰に大輝を預けるの?」
結実は、気が気じゃない。娘を受け入れて、孫の大輝と三人での生活も、随分浸透してきた矢先であったのに。でも、結実は、何となく気付いていた。娘の気持ちに。明花が、そう言い出すんじゃないかということに。
「全部、ちゃんとする。なるべく大輝と長く一緒にいられる勤務先選んで、小学校、託児所も、近くにあって、ってとこ」
明花はもう、頑としている。いや、突っ切ってしまって、凛とまでしている。明花は、結実が人生で出会った女性の中で、誰よりも頑固。娘・・、だけど。そして、次に迎える春から、ああ、早いもので大輝は小学校に上がるのであった。
「そんなに全部、何もかも上手くいくかな? 出来れば、いや今まで通り、私が大輝の傍にいてあげれれば・・。ねえ、何で東京なの? ここで、青森でだって、資格取るんだから、普通に暮らしていけるじゃん。地域の知り合いとか大輝に出来たお友だち、コミュニティ、全部また最初から作り直すことになるんだよ。それも、人付き合いの薄い東京でぇ」
「どうしてもなの。最初からまた作り直せる、からなの。お母さんには本当に、どう言葉を並べても表し切れないくらい、感謝してる。っていうかこれからも、いくら私が生意気なこと言ったって、頼りにしちゃうだろうし、感謝し続けていくことになるんだって、私でも分かってる。私と大輝は、行った方が良い。まだ、触れてないような、知らないとこ。順也と別れて、そのままどん底で、ここに帰って来て、それからの生活、三人で、本当に楽しかった。幸せだった・・。ありがとう」
珍しく明花が照れくさい感情を全面に出す。居間のテーブルに肘をついて、足をくずして、添いながら、お互い目を潤ませる。
「ここで、頑張っていけばいいじゃん」
「駄目なの。また、何か挑戦していきたい。順也と別れて、私・・。私、もう今年で三十六で、まだ、三十六歳だよ。ひょっとして、何かの運命が残ってるなら、ちゃんとした恋だってしたいし、結婚もしたい」
結実はもう何も言えなかった。そう、娘に言われてしまったら、何も言えなかった。娘の人生だ。明花は、まだ若い。綺麗だ。色々あって、また、専門学校の学費とかも借金するかたちにはなったけど、明花が何とか息子と二人で食べて行ける道筋は作ってあげることができた。色々あったけど、明花は立派に立ち直った。大輝も、もちろんまだ全然子供ではあるけども、器量が良く、私たちのことを、何となく分かってくれている。二人なら、大丈夫だ。田舎でずっと限られたコミュニティの中で暮らしていくよりも、明花の言う通り、東京でやっていってみるべきだ。勝負するべきだ。もう一度、人生の様々な充実に向けて、挑戦するべきだ。
「・・・・そうだねえ。大丈夫かも。住みたい所で、やっていってみるのがいいかもねぇ」
こう言っても、結実にはやりきれなさが残っていた。結実は、また、一人になる。
目を潤ませながら、その日の明花と結実の談話は終わった。
結実は悲しくも寂しくもあった。でも同時に、我が娘が誇らしくもあった。何だか不器用で人とうまくやれないことが多い娘だけど、とても、誇らしくあった。そう感じた。私たちは、幸せなんだなぁと思った。幸せにだって、いつも寂しさは付きまとう。愛するが故の、切なさ。離れ。それらを、真っ直ぐ受け止める。
また、心が強く繋がれた。
明花も結実も今さら変に意識なんかせず、その日はそのまま、布団の中で眠りながら、しっかりと、それぞれがそれぞれの思いで、繋がれていた。
明花は当然の如く、一発で正看の国家試験に合格した。予定通り。晴れて、一人前のナース。近所でちょっとした有名母子であった二人が、引っ越しして、春から東京での新生活をスタートさせるという情報は、瞬く間に狭いコミュニティの中を駆け巡った。決めた別れ。旅立ち。人気者大輝の、引っ越し。当の大輝の心境はどうであったか。まだ五歳の大輝。慣れ親しんだ、物心ついた頃にはもう住んでいた、青森の地からの出立。
大輝は、精神的にめちゃくちゃ大人だった。もちろん仲の良い友だちと離れることだったり、見知らぬ地に対する不安は子供ながらにあった。そして、この春から、自分はちょうど、小学生になるんだという転機の重なり。大輝はキレイに気持ちを切り換えて、東京に住む上でのポジティブなことをたくさん考えていた。大好きな、いろんな種類の電車がいっぱい! おいしい食べ物屋さんや、遊ぶような所がいっぱい! 人が多くて、毎日がお祭りみたい! 高層ビルや、いろんな建物が凄い! 有名人や、ホンモノの戦隊ヒーローやアニメキャラクターに会えるかもしれない。ディズニーランドや、シーがある! 東京スカイツリーも!
母親が胸に抱えている思いも、どこはかとなく感じる。伝わる。大輝は、キャッチする。寂しいから怖いからと言って、駄々をこねない。当然、共に、自ら、東京、行く。大輝は、父親の存在の話を、あの、結実と二人っきりの時に訊いた、その前から、ちゃんと知って覚えていた。どうやら僕は、東京という地で、こことは違う別の家で、生まれたのだ、と。出世した地、東京。僕が知らない、みんなの事情とやらで、何かがある、何かを置き忘れてきてしまった、東京という地。きっと僕だけじゃない、僕にはお父さんはいないけど、そんなことじゃあなくて、きっと誰もが何かを欲して、得たくて、知りたくて、違う自分を見てみたくて、みんなが集う街。僕は、どうあってもお母さんについていく。僕が、お母さんを見届ける。
移り住む季節が近づくにつれ、弾む強度を増していく心。
2016年、春。
明花は単身上京する。色々とやるべきことを、新生活をするための下地を作るための旅。
明花は取り付けていた面接で東京での仕事をすぐに決めた。
東京は、田舎では思ってもみないような職場がゴロッとある。東京、上野にある、住宅街に根ざした、ちょっと大きめの診療所。そこのナース。
お給料が良くて、仕事は、クッソ暇な職場。超高齢化で多数の患者さんたちを擁する田舎の巨大病院の激務に比べたら、ゆったりと働ける環境。患者さんが、ポツ、ポツとしか来ない。混んでも、それほど忙しくはない。午後も早めに閉院する。土日は、午前中だけの勤務。
働き始めて、頑張って勉強してきて良かったなーと明花は素直に思った。
職場が決まれば住居も、大輝の小学校も、自然と選定されてくる。電車の乗り降りを含め職場まで二十分弱の住居を借りる。大輝の小学校は、家を出て最初の角を曲がって、すぐに見えてくる。そのまま民家の塀ずたいに真っ直ぐ歩けば、着く。万が一の時の託児所も、家から歩いて十分程度の距離にある環境。上野からすぐ近くの住宅街での新生活が、おおよそ、決定していく。
本当に人生の季節が変わったな、と思う。何もかもがトントン拍子で運んでいく。青森から、また、東京に、本当に私たち親子が招かれているよう。楽しくって、しょうがない。
何をしようか、東京での生活が始まったら。大輝の行きたいとこ、全部連れて行ってあげたい。大学時代の友だちに会って、久しぶりに飲みたい。みんなどうしてるかな。都内のおいしいお店、休日になったら、色んなとこ行ってみたい。素敵な誰かと、出会いたい。
明花は生活の基盤的な準備を全て整えた。
あとは時が来るのを待って、物を運んで、私たちが移り住むだけ。
荷造りを始めた。
何度目だろう、と結実は思う。
明花の引っ越し、荷造りは、大学に進学した時と、今回の、二回だけ? なんか家族で移動した細々としたものも含めると、もっと遥かに回数を重ねている感じ。
必要な書類などを仕舞ってある寝室の天袋。大輝が椅子を使って手を伸ばしても、絶対にまだ届かない高さ。結実は、そこから一枚の写真を取り出して、見る。明花や大輝は居間で作業をしている最中。気付かれないように、そっと。
大輝が、まだ、"あんよ"もできない時の写真。明花に抱きかかえられている大輝。目をつぶっている。眠っていたのかたまたまか。髪すらまだ生え揃っていない時。優しい笑顔をカメラに向けて、明花の肩に腕をまわしている元夫、順也。二人ともソファーに腰を下ろした状態で、ゆったりとした格好で撮られている。ほっこりとする、一枚。
結実は色々なことを思う。
このあと二人は、口も利かなくなって、別れることになる。悲劇だ。大輝の物心がついていない頃であったのが、せめてまだ良かったことなのか、どうなのか。でも、この別れによって得られたものはたくさんあった。明花が青森に戻って来てからの日々、楽しかった。それから、今、私たちは幸せだ。明花は、順也さんとの経験を踏まえ、もっともっと成長した女性にならないといけない。かつ、立派な母親にならなければいけない。そのための、辛さや別れであったのだと。順也さんも、今どうしてるかなんて分からないけど、この時の経験を踏まえ、成長しなければならない。幸せに、ならなければならない。そのための、出会いと別れであったのだと。そして・・。
大輝は光だ。名前の通り、私にとって、もちろん明花にとっても、輝きだ。ありがとう。この三人での日々を。みんなの、それぞれの成長を。まだほんの子供なのに、知りたいことも、悔しいことも、寂しいことも、きっとたくさんあるはずなのに、何でだろう、誰よりも落ち着いて構えているような風格がある。デンッとしている。体格が良くてそう見えているだけかもしれないけど。あはは。神様が、私と明花にくれたごほうびだ。宝物。様々なことがあっても、楽しく乗り越えていけるように、神様が私たちに授けてくれたんだ。
旅立ちの日は、もうすぐそこまで近づいていた。結実にとっては、寂しい別れの日。
ようやく賑やかなのに慣れてきてたのに、また一人での生活。寂しくて、逆に、しばらくずっと笑いながら過ごしてそう。あははっ。
GとYは東京にいた。
Gは、大輝の小学校の入学式のために、昨日上京したのであった。Yは、少し前から東京に移り住んでいた。何でもYは、長年の、職に就いてはすぐ辞め、職に就いてはすぐ辞めの暮らしによって、いよいよ気が触れてしまったのか何なのか、突然、
「俺は有名な脚本家か放送作家になる。若しくは、それっぽい、何かになる。どうやってなればいいかはよく分からない。が、それぐらいがちょうど良いとも思っている。とりあえず俺は伝説になる。いや、俺が、勝手にそうなる。人類が未だ見ぬ思想、世界を生む」、などと言って、単身東京での生活を始めていたのであった。
昨晩Gは、Yの六畳一間のアパートに泊まった。寝返りをうつ度に床が軋んだ。
Gは入学式のためにキッチリとしたよそ行きの服を持参していた。朝九時半からの入学式。八時前にはYのアパートを出た。中野駅から、上野駅近くまでの移動。何故かYもその日は仕事を休んでついて行った。別にYは入学式に参加するわけではないのに。仕事に出て、日当を稼ぐべきである。さすが脚本家か放送作家かそれっぽい何かになる男は違う。大器である。
早めに上野駅に着く。ゆったりとした広い構内。さすがは地方へと走る新幹線の発着プラス通過駅である。東京の朝は、どこも混んでいる。電車の乗り降りだけで、一苦労。根っからの田舎人であるGは、あまりの人の混雑ぶりに驚嘆の息を漏らす。Yは、吐き気を催す。そんなんなら、脚本家か放送作家かそれっぽい何かになるなんて言って、東京に越して来なければいいのに。デリケートな、大器である。
GとYは駅構内のお店でうどんを啜り、駅を出てすぐのスターバックスでコーヒーを飲む。まだ大輝の入学式までは五十分以上ある。大輝の小学校は、上野駅から電車に乗ってほんの数駅。充分、間に合う。
コーヒーを胃に収めながら、二人は語らう。
「式終わったらすぐ、連絡するはしてちょうだいね。適当に上野の街、散策してるから」と、Y。
「式終わったらって、たぶん、三時間近くもあるやぁ。それまでおめ、どうしちゅうの?」と、G。
「だから適当にぶらついてるって。ナンパでも、すじゃあ」と、Y。大器である。
「ううんっ・・、もしあれだったら、昼間みんなで飯食べるとこ、どこがいいか見つけでおげ・・。なあ」と、G。
「ふんっ・・。上野で最上級に高いランチの店、手配しとくじゃあ」
さすがはY。Gといると財布が全く痛まない男は、言うことが違う。大器である。穿った見方をすると、日本のGDPの数値を著しく下げている、兵器でもある。
軽やかな足取りで大輝の入学式へと向かうGを、Yは、改札口の前まで見送る。あの沿線に乗って行けばいい、とアドバイスしてやって。Gの背中を、少しの間見続ける。式が終わったあと、早く大輝の顔が見たい、とYも素直に思う。
Yは、大輝に会うのも明花に会うのも結実に会うのも久しぶりだった。約、一年半ぶり。大輝は、その天性の人懐っこさと愛想の良さから、Yにもなついていた。Y叔父さん、爆誕の態。つまりYは、大輝の存在のお蔭で、お手軽に叔父さん気分を味わえているのであった。
しばらくして・・。
Gから電話がかかってくる。どうやら三時間も経たないうちに入学式は終わったようだ。Yは、電話に出る。
Gを見送った改札付近で待ち合わせとなる。明花だけはまだ学校で保護者の説明を受けているらしい。だから、遅れて来るらしい。Gと大輝と結実は、晴れてお役放免となって、もう上野駅に向かっているところらしい。
Yは宣言通り、上野の街中の女性を、ナンパしまくって時間を潰していた。トータル三十人くらいに声をかけていた。結果は、惨敗。
Yは、ソワソワして所定の場所で待つ。何度もケータイを見たりして。今か今かと、みんなの到着を待ちわびるY。明花と対面するのだけは、実は少し怖がっていたりして。GもYも、明花には全く相手にされていないから。てへっ、とYは密かに思う。大器である。たぶん、永遠に未完の。
再びケータイが鳴る。着信、G。
「おめぇ、どごさいだぁ?」
「いや、言われた通り、さっきの辺りにいるよぉ」
駅構内の喧騒で、会話は自然と声を張ったものになる。間をおいたテンポの、会話となる。ケータイを耳にあてながら、何度も首を振り、四方八方を見るY。人生の路頭に迷った、紛れもない彼自身の態である。
・・いた。
Gと結実おばあちゃんを両脇において、二人と、手を繋いで。後ろ姿。大輝の、後ろ姿。三人の姿。いつの間にかYの視覚センサーを越えて、Yよりも駅構内の、より内側に現れた三人。家族のような・・・・、みんなの姿。
「おーしおーし、大輝、久しぶりぃ」
「あーっ! Yおじちゃあぁん!」
人だらけの駅構内で、再会する。ただ、顔を合わせたいというだけの再会。無数の足が行き交う中、彼らは、確かに出会う。
人は、この地球上で、その一生涯の中で、出会う人の数よりも、出会わない人の数の方が圧倒的に多いことだろう。とんでもない著名人や権力者でもない限り、普通、誰しもが、きっとそうであろう。でも、不思議な縁で、彼らは東京は上野で落ち合う。
大輝は照れてみせたり、急にはしゃいだりしている。三人の大人の間や周りを、ぐるぐると、せかせかと、行ったり来たりしている。Yも年齢の割になかなかの照れ屋だが、こんな時だけ大人としての振る舞いを変に施そうとしてかかる。
「おう、元気だったかぁ、大輝ぃ」
「うーん・・、元気ぃ」
「もう、こっち、東京に引っ越して来て何日くらい経ったぁ?」
「うーん・・、一週間二週間、五ヶ月! ・・一年ぇーん!」
「あはっ、はっはっは。そんなに経ってないだろう」
大人をおちょくってみせる大輝。見事にマジで狼狽してみせるY。基本Yは、頭を撫でたりなんかしながら、当たり障りのないことしか子供に言えない。
駅から近いマルイの中にあるレストラン街に行って昼食をとろうということになり、歩いて移動する。Gは大輝の振る舞いを見てずっと微笑んでいる。結実は少しくたびれたようにしている。が、綺麗は綺麗な淑女。 大輝は、ずっと歌ったり走ったりしている。たまにGとYの間で両方と手を繋ぎ、大人の腕力でぶら下がって、空中を移動して遊んでみたり。
一行は、マルイのビルのレストラン街がある階に着く。
ここで、微笑ましいわんぱくなプチ事件が起きる。
結実は、Yに気を使って、Yがいま食べたいものでお店を決めようと促した。
「あ、叙々苑ランチあるよほら。Y君、焼き肉食べたいでしょ? 叙々苑行かない?」と、結実。この発言を受けて大輝は、子供ながらに感じて、憤慨して、騒ぎ始めた。叙々苑より数軒先のパスタ屋さんのタマゴカルボナーラの見本を見て、よく考えもせず、我先にと議論を征するように、これが食べたい、これじゃなきゃ嫌だあぁー、と、わめき散らし始めたのだ。
僕の祝いの日なのに、おばあちゃんと再会したのも昨日で、久しぶりなのに、僕以外の人に気を使って、他の誰かの食べたい物で今日という日の昼食を決めようとしている・・。
大輝は賢い子。既に大人顔負けの分別のようなものまで備わっている。でもこの件は、敢えて子供が駄々をこねた形にして、思いが報われるべく動いたのだった。大輝はもちろん、おばあちゃんもYおじさんも大好き。ただ今日という日は、みんなが僕を祝ってくれて、僕のためにある日だと解していて、特別に扱われるべくしてあるはずの、イベントデイというもの自体への嫉妬心を爆発させたのだった。自分は子供でもちゃんと扱われるべきだ主張の、大輝、タマゴカルボナーラ異常固執の巻。結実はひょっとしたら、もちろん本当にYに気を使った部分もあったのだろうが、Yの希望をあてがわせて、自分が実は本気で叙々苑に行きたかったのか。
Yは一見子供らしいわがままっぷりを発揮しだした大輝を見て、ただただ狼狽するばかり。Gはただただ大輝の意向に沿おうとするばかり。「大輝、本当にそれがいいの? ちゃんと色々、見てから決めれば?」とか言ったりして。実は大輝も本心は、叙々苑が良かったぐらい。でも、引けない。今日という日は、自分の主張で彩るべき日、だと。
何という子供だろう。可愛らしい外見までも備わっているし。これなら明花も東京で難なくやっていけそうである。色々と、精神的に、支えてもらってでもして。
ともかく、昼食の店、イタリアンパスタ店に決定。
一行は十分弱待たされて席へ通される。東京は、どこも混んでいる。明花がもう近くまで来ているという情報が結実の元に届く。大輝は腹減ったぁー、とわめき散らす。他のお客や店側に迷惑にならない加減で。全員が食べたい物を決めて注文する。待つ。セットメニューのアイスコーヒーが届く。Yの、本日二杯目のコーヒー。Yは啜る。夜、寝れなくなる。Gは早速注文した生ビールを飲みながら、ずっと大輝を見て微笑んでいる。このまま、逝ってしまってもいいと思う。
明花がやって来る。来ていきなり明花がYに問う。「三時間も上野で何やってたの?」と。Yは適当にはぐらかす。さすがに、ナンパしてたとは言えない。言ってもいいけど、別に何の問題も無いんだけど、言えない。Yは、嘘をつく。この日の明花とYの会話、これにて終了。それから明花は、なんかの保険のパンフレットを広げ、結実とだけずっと談話する。 GとYは、アウトオブ眼中。よそよそしさマックス、プラス、私と母さんと大輝以外、誰もこのテーブルに着いていないでしょ感マックス。ほどなくしてすぐ、明花もパスタと飲み物を注文する。明花を隣にして、Yのいたたまれなさ感もこの時すでにマックス。大器である。右隣は、大輝である。左隣が、明花である。丸いテーブルである。マルイだけに。みんなで食べる用のピザが来て、マルイだけに、その次に大輝のパスタが来る。厨房が空気を読めている。大輝はわざと子供ながらのうつけっぷりを遺憾なく発揮して、猛烈な勢いでパスタを口に運んで頬張る。Gと結実から歓声が上がる。その光景を見て、何故か、Yのいたたまれなさ感がさらに増す。限界突破。もはや、ただの小器である。
大輝とYがやはり早くに食べ終わって、店外に置かれている順番待ちのお客が座る椅子のコーナーで、ふざけて二人で遊び始める。六歳男児と三十三歳男児の、にらめっこ大会いざ開幕。Yは、明花の二つ下であった。大輝は白目をむいた変顔を得意として、多々それを披露する。Yは何故か全くの真顔を駆使して勝負する。大輝は爆笑する。そのうち大輝は手を使って、Yの額から前髪をオールバックのように上げて隠し、ツルだツル(ハゲだハゲ)と言って、髪がないような見せ方をしたまま変顔をすることをYに要求し始める。Yは従う。拒否権はない。拒否権など、青森の山道に放り投げてきた。大輝の提案に、Yは、なるほどぉ、その手があったかと思う。さすが自称脚本家っぽい何かである。その後、大輝の提案通り、Yはツル(ハゲ)の状態を作ったまま白目を剥いたりした変顔をしてみせるのだけれど、何故かさほど大輝は大きく笑わない。リクエストしたのを、やってあげてるのに。Yは気を取り直して、再度真顔で勝負する。爆笑。遺憾なく、爆笑。Yの心中は複雑である。でも、このまま逝ってしまってもいいかなと思う。いや、寧ろ逝くべきだ。伝説になる。
テーブル席では、大輝の通う小学校の話を、ああだこうだ普通の(?)大人たち三人が、絶え間なく語り合っている。明花とGは結実を介し、絶妙に直接会話してはいない態を造り、意志疎通を行っている。もはや、神技である。真の、大器である。誰が? Yは店外で大輝と遊びながら、遠目にその様子を見て、なるほどぉ、その手があったかと思う。何が? 大輝とYはそろそろ飽きてきて、店の中のみんながいるテーブル席に戻る。Gはアルコールで完全に出来上がっている。世界にビールというものがなかったらGは誕生してはいず、Gが誕生していなかったら世界にビールというものは存在していなかったかもしれない。大袈裟じゃなく、いや、マジで。発泡酒バンザイである。何を言うとんねん。
レストラン街から、マルイのビルから、外へ出る。
何が楽しいかって、大勢でみんなでいる時、こういう今いる場所から次の目的地への何気ない移動そのものが、心弾み、かけがえのないものであることに、大輝は何となく気付く。いや、大輝はずっと前から気付いている。みんなと交互に手を繋いで、はしゃぎまくる大輝。
もう大きな用事など何もない。結実とGはおみやげを買って帰りたいから、上野駅と直結してあるショッピングモールに行って、色々と見てみたいと言う。明花も、甘いものを買って家で食べたいから、行こうと言う。こういう時、Yは金魚のフンである。Gはどうやら、短い間に生ビールを七、八杯も飲んでいた様子。もうほとんど、G自身がビールである。歩くビールサーバーである。Gは、とっとと新幹線に乗って青森に帰りたいのか、ずっとこのまま愛しの大輝の傍にいて彼を見ていたいのか、もう訳が分からなくなってしまっている。一方Yは、アルコールは全く口にしていないが、別の意味で出来上がっている。常に。
みんな、もう割と、疲れるは疲れてしまっていた。年輩の結実とGは、特に。
入学式、慣れない電車移動、見慣れない場所に見慣れない人だかり、普段着ない服、膨らむ不安と期待、成果の出ないナンパ、保険のパンフレット、タマゴカルボナーラ、ツル顔(ハゲ顔)のだだズベリ、歩くビールサーバー、エトセトラ・・。
外。大勢の人。幅広な横断歩道の前で、信号待ちをしている。まだ日中だが、空はやや曇り。駅がもうすぐ近くの、横断歩道。
明花と大輝は今までで最高の笑顔をしてじゃれ合っている。大きな声を上げ、何やら、ふざけ合っている。
この五人の団体は他人の目から見ればどう映るのだろうか。普通の家族・・、おじいちゃんおばあちゃんお父さんお母さん息子、には見えないはずだ。父親かもと思われる男が、あまりにも金魚のフン状態。四人とちょっと距離があり、そして、何だか頼りない。マスオさん・・、いや、そういうのとも、なにかが違う。
結実とGは二人で何だか語らっている。誰に何個おみやげを買って行けばいいか相談しているのだろうか。Yは、黙って明花と大輝を見ている。
こんなに大勢の人間がいて、その時、Yだけが二人を見ていた。Yは、人知れず思った。
ああ・・、これか。これを見せるために、神様は、俺に・・。
Yは、Gに連れられて、青森で何回も明花たちと会食などをしていても、こんなに楽しそうにじゃれ合っている二人の姿を、今まで見たことがなかった。この、母子。明花と、大輝。
胸に抱き付き、額と額を合わせ、腕を絡ませ、首から肩に手を掛けてぶら下がり、弾け切った笑顔でお互いを呼び合う二人。
かぁー。俺ってやっぱ凄ぇな。気付くべき時に絶対、きちんと気付くよな。神からの啓示を、教えを、絶対に見落とさねーよな。かぁー。俺って、凄ぇな(二回目)。
母親の希望とは息子が感じ得る希望そのものであり、それ故、息子が歩む人生とは、そのままズドーンと、母親の人生そのものを示していたりするのである。
幼い時に母親と生き別れているYは、素直に大輝に嫉妬した。二つの意味で。
これか・・。なるほど、なぁ・・。かぁー。マジで俺って、絶対気付くよな。見落とさねー。凄ぇな俺(三回目)。
Yの心の中での自画自賛は止まらない。さすが伝説の何かになる男である。
信号が変わった。
明花と大輝は繋いだ手をブンブンと振りながら横断歩道を渡り始める。瞬間、後ろを行くYが微笑んだような顔をする。大勢の人が引き付けられたように連なって歩き始める。
陽は差していないがどこか明るい光景のもと。