寝台の上の愉快な話 弐ノ伍
■四日目
井ノ原家傍/
壮人:もういいのか、慎太郎。
慎太郎:ああ。何とかな。
壮人:お前に何と声をかけていいのか、僕には分からない。しかし、僕が君を案じていることを分かって欲しい。君が自棄にならずに良かった。
慎太郎:先生たちの研究は、将士さんと俺と、他のみんなとで続けていくつもりだよ。まだ限りなく遠いけれど、それでも先生たちに最も近いのは俺たちだろうから。
壮人:……吉野先生のことは。
慎太郎:俺は吉野先生が犯人だなんて思ってなどいない。何かの間違いだと思っている。けど、それ以上に今は何も、深くは考えたくないんだ。とにかく、事実としてあるのは、俺は一度に二人の先生を亡くしたということだ。
壮人:気を落とすなというのは酷だろうが、どうか落としすぎないでくれ。
慎太郎:ありがとう。ただ、最後に観月先生の論文が盗まれてしまったことだけが、口惜しいよ。あれは何ものにも代え難い。
壮人:吉野先生が持っていたのではないのか。
慎太郎:いいや。何処にもなかったと聞いている。何処かに隠したのではないかと、警官は。
壮人:そうか。何処へいってしまったのやら。
慎太郎:このまま見つからず、先生の功績として公表できないのならば、俺はいっそあの論文が何処かで焼却されていることを願うよ。煙になって空へのぼれば、論文は先生が再び手にできるだろう。論文とは、未来の学者たちの為の資料なのだ。材料なのだ。学問は、歴史と共に積み上がっていくものだ。公開されなければ意味がない。真の価値も分からないような奴に意味もなく持たれていることの方が、ずっと痛ましい。中途半端に理解できる者の手に持たれるのならば、こんな悲劇はない。あれは先生の魂の結晶なのだ。拘束されてはならない。
壮人:きっと見つかるさ。そうしたら、君や将士さんが学会へと発表するのだ。先生も喜ばれよう。
慎太郎:ありがとう。そうするつもりだ。壮人。お前は、いつまで国にいるのだ。
壮人:本当ならばもう少しいるつもりだったが、明後日の朝に帰るつもりだ。心配性で気の早いあちらの友人が、僕が郷愁に負けて二度と渡英しないのではないかと、心配して手紙を寄こしたしね。
慎太郎:そうか。お前が帰るのならば、宮様が我が家にお出でになる機会は失せてしまうな。
壮人:残念ながら、雅仁はおそらく、当面は井ノ原家には赴かないと思う。それから、お前にもあまり会わないかもしれない。
慎太郎:仕方がない。それは至極当然だ。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだよ。
壮人:間違ってもお前が悪いわけじゃない。気を病む必要はないさ。次に僕が戻ったら、君と雅仁の橋渡しを必ずする。そうしたら、三人で盤上の遊戯でもしよう。
慎太郎:ルールを覚えておくよ。
壮人:ああ。それじゃあ。また会う日まで、さらばだ、慎太郎。
慎太郎:ああ。またな。壮人。元気で。
■港/
三沢:お気を付けて、坊ちゃま。またのお帰りを心よりお待ちしております。
壮人:ありがとう。
淳:風邪ひいたり腹壊したりしないようにな。あと勉強は程々にしておくのがいいだろうよ。
壮人:分かった分かった。ありがとう、淳。
友之:気を付けるのだよ、壮人。
壮人:……友之。見送りに来てくれるのは嬉しいが、お前また、学校はどうしたのだ。
友之:なに。些細なことだ。
壮人:だから、怠けることは良くない。すぐに戻りたまえよ。
友之:案ずるな、壮人。勉学よりも大切なことが、僕にはいくつかあるのだ。無論、雅仁が最優先ではあるが、それに次ぐものも勿論ある。
壮人:まったく。
淳:まあまあ、坊ちゃん。折角見送りに来てくれるなんて、有難いじゃないか。
壮人:お前に何を言っても、まるで馬の耳に念仏だ。
淳:お。それは故事成語だな。馬の耳に念仏、豚に真珠。猫に小判に犬に論語!
友之:兎に?
淳:あ? えーっと……。兎??
壮人:兎に祭文、だろ。
友之:御名答だ。
壮人:惜しいな、淳。
淳:兎に祭文なんて聞いたことないぜ。
三沢:淳。黙っていなさい。申し訳ございません、友之様。これは口を開けば恥しか出ません。
淳:酷いな。
友之:いいえ。今のは俺の意地が悪かったですね。すまないね。……壮人。雅仁も、彼は見送ることは難しいが、体に気を付けるようにと言っていたよ。
壮人:ありがとうと伝えてくれ。また遊びに行くよとも。
友之:承ろう。確かに伝えるよ。
壮人:それじゃあ、僕は行くよ。雅仁のことは、宜しく頼むよ、友之。今回は会えなかったが、皆にも宜しく。
友之:ああ。心配は無用だよ、壮人。行ってらっしゃい。励んでおいで。
三沢:行ってらっしゃいませ。
淳:じゃーなー!
壮人:ありがとう。行ってきます。
続