寝台の上の愉快な話 弐ノ参
井ノ原家/門前/昼
壮人:どういうことだ。入れないとは。
警官:申し訳ございませんが、何方もお通しはできません。
壮人:あなた方が職務を行っていることは分かります。しかし、僕は単なる友人だ。少々友人と話しをするくらいの時間も頂けないというのですか。
警官:申し訳ございません。
壮人:僕は、九条壮人だ。この名を名乗ってもまだ入れてはくれないのか。
警官:承知いたしております、九条壮人様。であれば、尚のことお入れすることはできません。
壮人:どういうことだ。
淳:犯人かもしれない相手に、お前を会わせたくはないのだろう。
壮人:淳!
淳:静さんには追い返されたようだな、坊ちゃん。井ノ原家に寄るらしいと聞いて、追ってきたのだ。昼食は食べたのか。食事はいいぜ。直接、生に繋がる。単純で分かり易いことが、俺は大好きだ。
壮人:淳。今お前が言ったことを、僕はとても聞き捨てならない。もう一度言ってくれ。
淳:昼食は食べたのか。食事はいいぜ。直接……。
壮人:違う。その前だ。
淳:はは。冗談だ。言ったとおりだ。どうやら、昨晩同じホテルに泊まっていた観月先生の連れは、みな警官が監視しているようだ。
壮人:まさか、彼らを疑っているというのか。そんなはずがない。彼らが犯人なはずがないじゃないか。
淳:何故。
壮人:何故って……。淳。お前は彼らの中に犯人がいると思っているのか!
淳:そう熱くなるなって。そんなことは思っちゃいないさ。俺はその先生の連れがどういう人かも知らない。疑うこともできるし信じることもできる。犯人の可能性でいえば、当日にホテルを出入りした奴の殆どがそうさ。ただ、より観月先生に近い人の方が疑われるのは当然なんじゃなかろうか。
壮人:観月先生は物盗りに襲われたのだと言っていたではないか。
淳:犯人が誰かは問題じゃないんだ、坊ちゃん。別に井ノ原家の三男坊が犯人だと言っているわけじゃない。警官たちはただ、坊ちゃんが犯人の可能性がある人物に会うことを回避しようとしているだけさ。
壮人:だとしても、会話すらできないというのはあまりに極端すぎやしないか。
淳:坊ちゃん。坊ちゃんはもう少し、自分の立場を自覚すべきだ。人の上に立つ奴は、自らを卑下してはならないし、汚れは少ない方がいい。
壮人:慎太郎に汚れなんかない。道徳や配慮を欠いては、人の上になど立てるものか。
淳:へいへい。その心構えはご立派だ。しかし、どちらにせよ、坊ちゃんがどう頑張ったところで、現状では井ノ原家へ立ち入ることはできないだろう。ここは帰るしかあるまいよ。
壮人:慎太郎―!!
淳:こらこら、止めろ。そんな大声を出すもんじゃないぜ。第一、ここから母屋へ届く筈がないだろ。
壮人:気を落とすな!日を改めて、一緒に観月先生のご自宅へ伺おう!!花を添え、彼の栄光に満ちた人生を共に讃えよう!!
淳:……恥ずかしい奴だなぁ、ったく。
宮邸/寝室/夕刻
壮人:そういうわけだ。僕では、力不足の感が否めない。恥ずかしいことこの上ない。君に伝えるべきことが、僕にはないのだ。ひとつだけ伝えられることはあるが、はっきりしていないので伝えることは控えようと思う。
雅仁:気にする必要はなかろう。お前は帰国したばかりであり、警官でもない。お前にあれこれと観月のことが分かってしまうのであれば、逆に僕は一筆添え、治安省を始め国政を司る者たちを咎める必要が出てくるだろう。
壮人:本当にすまない。だが、友之はいくらか詳細を得ていたようだった。愉しみにしていて欲しいと言っていたよ。
雅仁:そうか。
壮人:しかし、愉しみという表現は如何なものかと僕は思うのだ。
雅仁:何か妙な点があるのだろうか。
壮人:雅仁はこの表現について、何とも思わないのか。
雅仁:愉しみという表現だろうか。僕はお前や友之の訪問を待ち望んでいたことは確かだ。愉しみと表現するには、些か大袈裟だというのか。
壮人:ああ、いや。そうではない。ただ……。
雅仁:お前たちにとっては大袈裟かもしれん。だが、僕の交友関係を考えれば、お前たちは僕の数少ない友人に位置する。
壮人:それは勿論。僕は雅仁の友人であるし、雅仁は僕の友人だ。勿論友之もそのようだろう。それは間違いない。
雅仁:お前が帰国し、僕は嬉しく思っている。
壮人:僕も、また会えて嬉しいよ。
雅仁:本来ならば、今少し時間を取ってお前の話を聞きたかったが、帰るなり観月のことがあった。残念だ。だが、お前が僕に贈った洋書は、幾許か僕の退屈を紛らわせてくれる。
壮人:もう読んだのかい。流石は雅仁だ。早いな。
雅仁:うむ。午前中に昨日のホテルの宿泊名簿を直枝に用意させたが、名簿だけでは何も分からんな。すぐに飽きてしまった。僕は都内に出る機会があらばよくあのホテルを利用するが、他の宿泊客と会う機会も少ない。
壮人:それは君が八階の特別室に宿泊しているからだろう。下の階は、人の出入りがある。嫌でも他の客とも会うさ。
雅仁:下の階は部屋が狭いのだろう。
壮人:え? ……ううん、そうだな。確かに、君が泊まった部屋の三分の一ほどだが、別段狭くはない。十分だよ。
雅仁:そうか。だが、僕には車椅子がある。普通の者よりも広さが必要だ。
壮人:そうかもしれないね。それを除いたところで、やっぱり君には広い部屋で過ごしてほしいものだ。退屈ならば、まだ残りの本も大量にあるから、後で送るよ。
雅仁:うむ。……英国か。遠いのだろうな。
壮人:異国は遠くから臨めば遠いが、足を踏み込んでしまえばそのようなことはない。外遊にお出で、雅仁。僕が案内しよう。
雅仁:そうだな。考えておこう。お前のような者がいずれ我が国の国政を担うかと思うと、実に心強い。
壮人:君を支えられるように力を尽くすつもりだ。
雅仁:僕ではない。僕の弟だ。
壮人:君が足のことを気にしているのなら、それは些細な問題だ。僕や友之、のみならず、聡や哲哉らも君の手足になれるだろう。僕は君が継いでくれたらと思っているよ。
雅仁:僕はこの話題が好きではない。故に話を打ち切るつもりだ。逆らうことは許さない。
壮人:ああ。知っている。すまない、雅仁。けれど、これだけは伝えたかったのだ。
雅仁:お前や友之は常にその心配ばかりをしている。
壮人:それだけ君が好きなのだ。
雅仁:分かった分かった。好きなだけ好くが良かろう。お前は、友之とはまた違った角度で煩わしい。
壮人:そうかな。すまない。気を付けるよ。
雅仁:壮人、直枝を呼んでくれ。
壮人:ああ、いいよ。待っていてくれ。何か伝えようか。
雅仁:お前にお茶の用意をと。
壮人:それは嬉しい。ありがとう。それじゃあ、お願いしてくるよ。直枝さんの淹れる珈琲は本当に美味しいから。
宮邸/寝室/夕刻
友之:やあ、雅仁。只今帰りましたよ。
壮人:お帰り、友之。
雅仁:お帰り、友之。今日は随分と遅いのだな。
友之:ああ、許してくれ雅仁。俺は一刻も早く帰りたかったのだが、俺の教師陣が、いつも以上に随分と熱心に時間を取ってくれたのだ。彼らの情熱は有難いが、お陰で俺は焦れてしまった。君と会えない時間が一分でも延びると考えるだけで、俺は喉を掻きむしりたくなる。
壮人:それは友之、お前が昼間に抜けて出たからだろう。
友之:やあ、壮人。君がそこの椅子に座っている姿を、俺は初めて見るよ。
壮人:雅仁に英文を少し教えていたのだ。
友之:雅仁は英文が読めたはずだが、俺の思い違いであろうか。
雅仁:思い違いではない。勿論、僕は英文を読むことができる。独文も容易い。しかし、単語の意味が分かっても、組み合わせによって生じる特殊な述語の意味に対する知識は浅い。故に、壮人に教えを請うていたのだ。
壮人:雅仁は頭が良いから、一度教えたらすぐに覚えてしまう。
雅仁:だとするならば、それはお前が達者であるからだろう。教え子が賢い場合、往々にしてその教師は賢い。逆もまた然りだ。
友之:英文独文ならば、俺も心得ているというのに。何か疑問があればお聞きよ。
雅仁:聞きたくとも、その際にお前はここにはいなかった。今日の午後から絶えず横にあったのはお前ではなく壮人だ。壮人に聞くが道理であろう。
壮人:とは言え、流石に僕は、仏文は読めない。仏文は友之に聞くのがいいだろう。
雅仁:うむ。確かに、友之はお前よりも異国言語の知識は深かろう。読めぬ文があれば、問うとしよう。
友之:これは大変だ。仏文は元より、露文であれ中文であれ、万を答えられるようにしなければならない。
壮人:何もそこまで張り切らずともいいだろう。大袈裟だ。
雅仁:そう。お前は常に大袈裟だ。
友之:それだけ、俺は君に必要とされることに悦びを見出しているのだ。此度の事件も然り。君が求めるものを、俺は全力で揃えたつもりだ。
壮人:何か分かったのか。
友之:少なくとも、俺が朝この場を出るよりは、此度のことに関して深く知り得たつもりでいる。
雅仁:良いだろう。壮人、洋書はここまで。そこの栞を挟むが良い。
壮人:ああ。分かった。
雅仁:友之。直枝を呼んではくれまいか。
友之:お安いご用だが、それは何故だろうか。
雅仁:この部屋に椅子は一つだけだ。しかし壮人を迎えた今、お前に用意する椅子が足りない。直枝に、椅子を持てと伝えよ。
友之:任せたまえ。
壮人:ああ、すまない。この椅子はお前の椅子だったのか。
友之:その通りだ、壮人。悪いが、直枝さんが椅子を持ってきてくれたとしたら、君はそちらに座ってもらえないだろうか。いつも腰掛けている椅子でないと、俺は些か落ち着かない気がする。
壮人:どれも同じであろうが、ああ、いいだろう。
――コンコン。
直枝:失礼いたします。宮殿、椅子をお持ちいたしました。
友之:おや。直枝さん。今、それを頼もうとしていたところだ。
壮人:流石は直枝さんだ。貴方の配慮の良さには、いつも感嘆します。
直枝:ありがとうございます。どうぞお使いください。
壮人:命じる前に動けるということは、主人を理解し、主人の望むものを承知しているということだ。
雅仁:うむ。直枝、実に良い働きだ。
直枝:ありがとうございます。
友之:壮人。こちらへ掛けたまえよ。
壮人:分かった分かった。ここはお前の席なのだろうからな。
友之:そうとも。雅仁に尤も近いその椅子は、俺の椅子なのだ。
雅仁:僕はお前の顔をこの距離で随分と見飽きている。椅子など同じであろう。たまには奥へ腰掛けてみたらどうか。
友之:とんでもない。君との距離は、近ければ近い程良いのだ。
雅仁:貴様は本当に鬱陶しい。
友之:それはすまない、雅仁。しかし、これが通常の反応であろう。なあ、壮人。
壮人:そうだな。雅仁との距離が近しい方が、より嬉しいというのは、おそらく友之が言うように一般的だろう。
雅仁:そうか。では、貴様らは揃って煩わしい。
友之:どうか機嫌を直しておくれ、雅仁。俺は君へ、この場所で、表の話を伝えることが至福なのだ。
雅仁:良かろう。では話すが良い。お前が何を聞いてきたのか。観月の死がどのようなものであったのか。僕は大変に興味がある。
壮人:僕もだ。
友之:ああ。勿論だ。なに。特にこれといって特別なことはなかった。何処にでもある、よく聞く話のようだ。雅仁。この話が君の退屈を退けることを祈って……。さあ、愉快な話をしよう。
問題提供/
・いつ殺されたのか
友之:まず、俺は君が求めているであろうと思しきことを告げよう。観月先生が亡くなった時間であるが、これはどうやら明け方のようだ。
壮人:明け方というと、何時頃なのだろう。僕らがホテルを出た時が、発見直後と聞いている。
友之:彼の死体を発見したのは、女の給仕だったよ。彼女は夜中三時半に、部屋で血を流して倒れている観月先生を見つけてしまったのだと言っていた。
壮人:直接話を聞けたのか。
友之:ああ。彼女はとても優しく、警官程口が硬い人間ではなかったよ。話し好きな女は好きだ。聡い証だと俺は思う。お茶もご馳走になった。あのホテルの洋菓子は美味だね。今度買って帰ってくるから、二人とも味を見ておくれ。
壮人:そうか。何も警官から話を聞かずとも、実際に見た人物から聞けば良いのか。なるほど。ああ、そんなことも思い立たないなんて。僕はなんて愚かなんだ。
雅仁:直枝。お前が僕を起こしに来た時刻を覚えているか。
直枝:三時四十五分頃にございます。
友之:俺もその頃に連絡を受けたよ。壮人はどうだった。三沢さんが迎えに行った時間を覚えているだろうか。
壮人:僕は四時頃だったと思うが……。しかし、正確な時間を問われると、四時を過ぎていた気もする。兎に角時計を見て、短針が四時近くだったことだけは覚えているのだ。寝起きでぼんやりしていた。
友之:君は生来、寝起きが悪いからね。朝が弱いわけではないが、確かに、寝て起きた瞬間は、別人のようにぼんやりしていることが多い。
雅仁:女が発見したのは、死亡直後だったのだろうか。
友之:いいや。殺害された時刻は、二時頃だ。
壮人:なんて惨い。……いや。ちょっと待ってくれ。何故、その女はそんな時間に観月先生の部屋へ入ったのだ。おかしいではないか。
友之:入ったわけではない。通りかかったのだ。
壮人:通りかかった?
友之:ドアが開いていたらしいよ。ほんの少しね。
壮人:開いていたって……。
友之:靴の一方が挟まっていたようだ。女たちは当番制で、二時間に一度見回りを行うらしい。ドアが開いていたというのならば、それは勿論、気付いて当然だろう。おそらく様子を見るために軽くドアを引いたのだろうね。そこで悲鳴を上げず主に告げに走った彼女を、俺は尊敬するよ。
壮人:つまり、観月先生を見つけた女の前に、別の女が一時半に同じ場所を通っているということだな。
友之:彼女の方にも話は聞いたが、一時半に回った女が言うには、ドアは開いていなかったようだ。
雅仁:僕らが観月と別れたのは何時であったか。
直枝:十二時半でございます。随分遅くまで、お話されておりました。
友之:因みに、鍵は別段、壊されてはいなかった。
・どのように殺されたのか
友之:撲殺だ。殴られている。
雅仁:何処を殴られているのだろうか。
友之:後頭部だ。残念ながら、後ろから鈍器で殴られたようだ。彼の部屋に飾ってあった飾り時計が、血に濡れて床に転がっていたそうだ。この針が、二時を指しているのだ。ここから警官たちは、二時が事件のあった時間だろうと推測している。
壮人:後ろから……? 友之。ひとつ良いだろうか。
友之:ああ、勿論。俺に分かることであれば。
壮人:先生は、寝台で亡くなられたのではないということか。僕はてっきり、寝ているところを襲われたのだと思っていたが。
友之:壮人。君は、何故そう思うのだろうか。俯せで寝る人間もいると思うが、どうだろう。
壮人:ああ、いや。そう言われればそうなのだが……。僕は仰向けで寝ることにしているからだろうか。
雅仁:うむ。僕もだ。伏せては寝られない。呼吸が苦しい。
友之:ああ、そうだね。雅仁が常々仰向けで休んでいるのを、俺は知っている。そして俺もそうなのだ。その通り。世の中には俯せて寝る人間もあるとは思うが、ここで観月先生がそうであったかどうかは問題にならない。何故なら、彼は君の言うとおり、寝台ではなく、向かい合ったテーブルセットの横に、伏せて亡くなっていたからだ。
壮人:テーブルセットの横……?
雅仁:テーブルの上には、何があったのか。
友之:グラスがひとつ、端に置いてあったようだ。中には飲みかけの塩水が入っていた。彼は寝る前に塩水を飲む習慣があったようだ。
壮人:他には何も?
友之:他には何も。
雅仁:テーブルの周囲に、特別変わったものはなかっただろうか。
友之:生憎、変わったものはなかった。テーブル横に口の開いたカバンが寄りかかっていた。中に財布もあったが、しかし金銭は盗まれてはいない。
雅仁:貨幣の他に、何か盗まれてはいないのか。
友之:何でも、観月先生の未発表の論文草案がなくなっているようだ。
壮人:論文が盗まれたのか。僕は、あの部屋から何かが盗まれたという話を聞いていたが、それが何なのかまでは知らなかった。
友之:未発表の論文は、研究者や学者にとっては命の次に大切なものと呼んで間違いはないだろう。
雅仁:うむ。彼らにすれば、貨幣以上のものであろう。だが、盗まれた物が何であるか以前に、犯人は観月の顔見知りであろう。
壮人:何だって!?
友之:これは驚いた。静粛に、壮人。急に立ち上がるとは、些か落ち着きに欠けている。座りたまえよ。
壮人:静粛になどしていられるか……!雅仁。君はどうしてそのような結論にいたるのか!
雅仁:喧しいぞ、壮人。座れ。
友之:雅仁もこう言っている。座りたまえよ、壮人。落ち着いて。
壮人:しかし……!
雅仁:テーブルは往々にして、部屋の中央か奥へ位置しているものだ。ドアを入ってすぐにテーブルとイスが並んで良いのは、応接室か食卓だけであろう。僕のいた部屋は、ドアを開けて廊下があり、その奥が西洋風の居間であったが、観月の部屋はどうであったのか。
壮人:先生は僕と同じ五階の部屋だった。造りは殆ど同じだろう。であるならば、テーブルとイスはやはり、部屋の奥の方へあったはずだ。
雅仁:ではやはり、知った顔であったのだろう。
壮人:何故そこに繋がるのだ。僕には理解ができない。
友之:壮人。君の脳は、敢えて繋げないでいるのだろう。君は大変賢い男だ。分からないはずがない。
雅仁:寝る前に塩水を飲む習慣があり、その塩水が置いてあったのだとしたら、観月は寝る直前であったのだろう。少なくとも、本人は眠るつもりでいた。イスに腰掛け、悠々とグラスを傾けていた。場所が五階である以上、窓からは難しい。犯人はドアから入ってきたことになる。静かで明かりのある部屋の中、距離のあるドアから入ってくる不審者に、部屋の飾り時計を持ち上げて振りかぶる狼藉者に、気付かないはずがない。見知らぬ犯人がドアから入ってきたならば、部屋の端へ追いつめられるだろう。鍵が壊されていないことから考えても、恐らく観月自身が相手を部屋へ招いたのだ。知人であったのだろう。
友之:流石だ、雅仁。僕もそう思う。
壮人:知人と言ったって、当日その場にいた人物なんて限られているではないか!場所がホテルである以上、必ず顔は入口で確認される。外部からの侵入は難しいと、さっき……!
雅仁:壮人。お前は錯乱している。
壮人:いいや、雅仁。僕は冷静だ!
友之:否定しよう、壮人。君は冷静ではない。どうしたというのだ。ゆっくり落ち着いて考えたまえ。外部からの侵入は難しいが、別段侵入せずとも、既にこのホテル内に、先生の知人が三名ほどいたではないか。
壮人:……!! お、お前は……お前は、慎太郎たちの誰かが犯人だと言いたいのか!?
友之:言いたくはないが、支持するつもりだ。彼らを疑うことが、最も合理的であろう。勿論、俺たちを含めれば六名ということになるが。部屋へ招き入れ、背を向けた瞬間を狙われたのだ。
雅仁:彼らは観月と同じく学者に属す。貨幣よりも論文が貴重に見えるのは、至極当然であろう。公に、最後に観月に会ったのは誰だろうか。
友之:井ノ原慎太郎だ。
壮人:ちょっと待ってくれ!
友之:彼が先生を部屋まで送っている。送るといって共に建物内に入ったのを、俺たちも見ている。雅仁。君も見ていたと思うが、どうだろうか。
壮人:慎太郎は僕たちの友人だぞ!?
友之:俺たちは入口で別れたが、やはりホテルの女が、彼が先生の手を引いて五階の観月先生の部屋へ共に入るのを見ているようだ。
壮人:雅仁……!友之は少し混乱している!これ以上彼の話を聞くのは……!!
雅仁:黙れ、壮人。喧しい。
壮人:……!
雅仁:これ以上叫くようであれば、直枝に言って追い出そう。まずは座れ。煩わしい。
友之:座りたまえよ、壮人。どうか落ち着いて。冷静な君が、俺は好きだよ。
雅仁:貴様がこれほど声を荒ぶるところを、僕は今まで見たことがない。友之は僕に外の話を伝え聞かせる機会が多いが、いつもはもっと、比べようもない程に静かだ。僕は討論が嫌いではないが、討論に見せかけた、下らん叫き合いは好きではない。一部の政治家がよく行うが、あれは無様だ。実に醜い。
友之:近年は煩わしい大人が多い。嘗ての政治家たちは、今の政治家と自称する愚者を見て、さぞ嘆いていることだろう。大丈夫さ、雅仁。ああいった類の男たちは、そのうちに皆消え去るだろう。この国には他の国々同様、淘汰という能力がある。何れ誰も、見向きはしないさ。賢人でない老人は、いくら足掻いたところで何も残せず、後は老いて死ぬだけだ。
壮人:……。
雅仁:壮人。僕にはお前の主張が、この度の事実がどうであれ、事実だと思しきことを聞くつもりもなく、友人を疑いたくないから疑わないと、そういう主旨に聞こえたが、これで間違いはないか。間違いがないのならば、お前の主張を僕は理解している。理解しているから口を挟むな。若しくは、これ以上友之の話を聞いていても無意味であろうから、出て行くが良かろう。お前の好きであった金木犀の木は、随分と大きくなった。見てくるが良かろう。
壮人:……すまない。少し取り乱した。どうかこの場にいさせてくれ。静かにしている。
雅仁:次はないぞ。
友之:雅仁。壮人をそう厳しく責めずにやって欲しい。彼の善良さは、間違いなく長所であろう。信じるということは、確かにあまり賢くはないが美しい。友人を疑いたくない気持ちは、勿論俺にもある。そして恐らく、君にもあるのだろう。
雅仁:慎太郎は僕の友人ではない。知人だ。
壮人:雅仁……。
雅仁:友之。何故お前が、身勝手に僕の交友を決定づけているのか。自惚れるな。
友之:これは、すまない雅仁。俺としたことが、傲慢であった。許しておくれ。
壮人:……。
雅仁:話の腰を折った。友之。お前は今さっき、何を僕に話していたか。
友之:慎太郎のことだ。公に最後に会ったのは、先生を部屋に送った彼であった。君が先生との話を終え、別れた時に、彼は観月先生を部屋まで送ると宣言し、共に立ち去っていった。
雅仁:ああ。覚えている。その後一時間もしないうちに、観月は殺されたというわけだな。慎太郎は観月を送り、すぐに部屋を出たのかどうか。
友之:彼自身は、すぐに出たと言っているようだ。しかし、実際にそのようだったかどうかを証言できる者は、生憎いないらしい。
雅仁:ふむ……。時計で殴ったのならば、その時計が指したまま動かぬ針が、やはり観月が殺された時間なのであろう。二時であったか。
友之:ああ。そうだ。
雅仁:凶器に使われた時計が二時を指しているのならば、その時間に殴られたとみて間違いはないのだろう。しかし、最後に部屋に送ったのが慎太郎だからと言って、彼がそのまま観月の部屋に一時間半にわたり居座ったのかどうかは、誰にも分からない。誰が観月を殴ったのか、僕は皆目見当もつかないな。
友之:しかし、その二時というのも確定的ではないのだ。時間はもうひとつある。
雅仁:どういう意味だ。
友之:観月先生は懐中時計を携帯されている。この時計が、少々不思議な時間を指して止まっているらしいのだ。
・懐中時計について
壮人:不思議な時間というのは、一体何時を指しているのだろう。
雅仁:四時二十分ぴったりだ。こちらも針は止まっている。
壮人:中途半端な時間だ。
雅仁:それは妙だな。観月の血の付いた置き時計の方は、二時で止まっていると、お前はさっき僕に告げたな。
友之:ああ、そうだ。奇妙なことだ。
壮人:一時間半の時差があるのか。懐中時計は常々見るものだ。日常的に針が狂っていたとは思えない。
雅仁:懐中時計に血は付いていたのかどうか。
友之:付いているようだ。摘みと蓋の部分にね。
壮人:摘みの部分……というと、血を流した後に針を弄ったということか。
友之:その表現で正しかろうね。血が流れる前に針に触れたところで、血痕は残らない。そしてこの懐中時計、摘みの部分が抜かれているのだ。
雅仁:どういうことだ。
友之:こちらの時計も、四時二十分を示したまま動いていないということだ。置き時計と同じくしてね。
壮人:お前の言っていることが、僕にはよく分からない。……つまり、先生を殴ったと思われる置き時計は二時を指し、先生の傍にあった懐中時計は四時二十分を指した状態で止まっているということか。
友之:そのようだ。そしてそのどちらにも、血痕が付いている。
壮人:では、そのどちらかはダイイングメッセージなのではないだろうか。
雅仁:……? 壮人。だいいんぐめっせえじとは何なのか。
壮人:そうだな。ええと……。
友之:死を目前にした者が、生きる者に意思を伝えるために物や体に残す伝言のことだ。
雅仁:それならば、いくつかの小説で読んだことがある。あれのことか。遺言のようなものだと認識しているが、間違いはないか。
友之:然したる違いはない。ただ、遺言よりはもっと曖昧で刹那的なものかもしれない。
壮人:ふたつの時計のうち、どちらかは実際の、惨劇があった時間を指しているのだろう。しかし、もう一方は先生の言葉なのかもしれない。であれば、きっと自分を襲った犯人を示しているのだろう。
雅仁:時計の指す時間が、犯人を指しているというのか。ほう。そんなことが。なるほど。
壮人:殴られた時計と懐中時計。普通に考えれば、懐中時計の方がダイイングメッセージであると思うのだが……。しかし、四時二十分なんて中途半端な時間が、一体何のメッセージであるというのか。
雅仁:飽きたな。
壮人:……え?
雅仁:直枝。お茶を持て。
直枝:畏まりました。
壮人:ま、雅仁……? どうしたのだ、一体。
友之:聞き捨てならない、雅仁。君は今、飽きたと言ったのか。飽きたと。
雅仁:ああ。もうこの話は良い。お茶にしよう。
友之:ああ、何てことだ。俺は耳を塞いでしまいたい。今日の話は、詰まらなかっただろうか。
雅仁:勘違いするな。詰まらないとは言っていない。済んだのだ。
壮人:ちょっと待ってくれ。話が見えない。何が済んだというのだ。
雅仁:壮人、お前が言ったのだ。懐中時計は遺言なのではないかと。
壮人:すまない、雅仁。僕には分からない。懐中時計の時間が先生からのメッセージだとするならば、一体何が済んだというのだ。
雅仁:そうか。お前は、宿泊客の名簿を見ていないのか。
壮人:名簿?
雅仁:名簿を見れば、一目瞭然であろう。良かったな、壮人。慎太郎は犯人ではない。
壮人:え……。
雅仁:慎太郎が犯人であったのならば、お前は愚かなだけではなく美しくもなくなってしまうところだった。うむ。良かったな。
…。
続