寝台の上の愉快な話 弐ノ壱
■駅/ロータリー/昼
三沢:お帰りなさいませ、壮人坊ちゃま。
壮人:ただいま、三沢。久し振りだが、お前が元気そうで僕は嬉しいよ。
三沢:ありがとうございます。わたくしもこうしてまた坊ちゃまの送迎ができ、大変悦ばしく思っております。
壮人:ははは。それでは、お互い様だな。
三沢:異国からお戻りになったばかりでお疲れでしょう。さあ、お車へどうぞ。お荷物をお預かりいたします。
壮人:ありがとう。頼むよ。
■車内、若しくは街中
壮人:三沢、みなは息災だろうか。
三沢:屋敷の使用人が何名か変わりましたが、それ以外は特別これといってはございません。旦那様も奥様も、お元気でいらっしゃいます。
壮人:そうか、良かった。……鉄道に乗り合わせた者が、何やら不穏なことを言っていたのでね。心配していたんだ。
三沢:不穏と申しますと。
壮人:最近、ここいらで無差別殺人が起きていると聞いてね。
三沢:はて、無差別殺人……。それは大変物騒でございますね。しかし、わたくしはそのような事件を耳にしたことはございませんが。
壮人:そうなのか。では、尾ひれを付けた噂であったのだろう。それならばいいのだ。
三沢:ただの殺人事件でしたら、おそらくは日常的にございましょうが、連続した事件といったものはないかと。
壮人:そうか。連続していないとはいえ、寿命でもなく人が死ぬのが日常的というのは、心が痛むな。
三沢:申し訳ございません、坊ちゃま。
壮人:いや、いいんだ。悪いな、今のは独り言だ。お前のせいでは断じてないことだ。それが今、日常的であるというのなら、未来に非日常化するよう、今後を生きる僕たちが変えていくよう努力をすれば良いだけだ。
三沢:感服いたします。坊ちゃまがお変わりなく、わたくしは本当に嬉しゅうございます。
壮人:ははは。異国の友人たちには甘いと言われるがね。父上と母上は、今は家にいるのか?
三沢:奥様はお屋敷にいらっしゃいますが、生憎、旦那様は外出されてございます。
壮人:なんだ。遠い地から息子が帰ってきたというのに、随分と冷たいものだ。
三沢:致し方ございません。本日は、都内に宮様がおこしになられたとか。
壮人:宮様というと、雅仁か。
三沢:さあ、詳しくは。あくまで噂でございます。わたくしめなどの耳に、宮様のご予定はお入りにはなりませんので。
壮人:都内にいるのであれば、こんな好運はない。すぐに連絡を取って会いに行こう。彼は僕の友人だ。元々、国に戻っている間に会いに行こうと思っていたのだ。
三沢:旦那様に連絡いたしますか。
壮人:頼む。若しくは、雅仁付きに直接かけてもいい。『九条壮人が会いたがっている』と彼の耳に届けば、きっと時間をつくってくれるだろう。彼は退屈を持て余しているはずだ。僕の異国での話は、おそらくとても良い彼の時間潰しになる。
三沢:畏まりました。幼き頃より、坊ちゃまは宮様がお好きですね。
壮人:当然だ。僕は彼をとても好いている。あまり会えはしないがな。小さい頃に遊んだ友人というのは、いくら過去の記憶となっても胸の中に強くあるものだ。
三沢:左様でございますか。ええ、そうでございましょうとも。
壮人:彼の為に洋書を随分と買い込んできた。今回持ってきたのは一部だが、それでも彼には十分な手土産になるだろう。
三沢:恐れ多くも、宮様は外出が不自由な身の上でございますから、ご学友も少ないでしょう。坊ちゃまがお会いになれば喜ばれましょう。では、お屋敷に着きましたら、連絡をお取りします。
壮人:……。
三沢:どうなさいました、坊ちゃま。
壮人:その、彼は、まだいるのか。
三沢:彼、と申しますと。
壮人:友之だ。確か、雅仁が暮らす屋敷の一部にある洋館を使っていた。
三沢:友之様も坊ちゃまのご学友でいらっしゃいましたな。ええ。友之様は敷地内の洋館をお借りし、そこから学校へと通っておいでのようです。あの方も宮様のご学友でいらっしゃいますから、坊ちゃまと同じく宮様にとっては数少ない気心知れるお相手でございましょう。
壮人:そうか。
三沢:宮様にお会いになられるのでしたら、おそらく友之様にもお会いになれましょう。
壮人:そうか。……それは嬉しいな。
■帝都ホテル/八階廊下/昼
――コンコン。
直枝:はい。大変お待たせいたしました。何かご用でしょうか。
壮人:やあ、直枝さん。こんにちは。ご無沙汰しております、壮人です。
直枝:これは壮人様。ご機嫌麗しく。お久し振りでございます。ご連絡は三沢様よりお受けいたしております。お元気そうで何よりです。
壮人:ありがとう。一時帰国だけど、偶然こっちに雅仁が来ていると聞いて、驚いたよ。
直枝:はい。滞在は決して長くはございませんが、明日か明後日までは此方に滞在するご予定でいらっしゃいます。
壮人:そうか。嬉しいな。会いたいのだけど、今、雅仁は空いているだろうか。
直枝:少々お待ちください。
・・・・・・・。
直枝:お待たせいたしました。どうぞ此方へ。
壮人:ありがとう。
■帝都ホテル/八階部屋/昼
壮人:やあ、雅仁!
雅仁:久し振りだな、壮人。お前の父君から連絡を受けて驚いた。僕の外出がお前の一時帰国に重なるとは、偶然とはあるものだ。
壮人:いい偶然は運命と呼ぶのだよ、雅仁。
雅仁:ははは。相変わらず詩的な男だ。どうだ、異国は。
壮人:学ぶことが多い。そうだ、君のために大量に洋書を買ってきた。あとで屋敷に送りつけてあげよう。
雅仁:ほう。そうか。楽しみにしている。
壮人:足の具合はどうだ?
雅仁:良くも悪くもない。既に症状が安定して久しい。
壮人:湯治には行ったのか?
雅仁:いくつかは。
壮人:異国にも名医は多くいる。もし時間があるのなら、外遊に来るといい。僕が出来る限りで案内しよう。きっと楽しいぞ。
雅仁:それはおそらく愉快なのだろう。しかし、僕は今の所国内から出る予定はない。異国の地を踏むのは汚らわしく思う。僕を海の向こうへ連れ出たいのならば、まずはその地を我が国のものとせよ。
壮人:ああ…そうか。そうだったな。残念だ。だがもし出る機会があったら呼んでくれ。力になるよ。
雅仁:覚えておこう。
壮人:君は、今はどうして屋敷から出てきているんだ。何か重要な用事でもあるのか。
雅仁:人に呼ばれたのだ。簡単な顔見せがあった。しかし、それも既に済んだので、明日にでも帰ろうと思っている。
壮人:そうなのか。実は、僕も今このホテルに泊まることにした。君がいると聞いて、少しでも長く会いたいと思ったからだ。君の明日の出発は午前中なのか、午後なのか。
雅仁:午前を考えていたが、午後でもいい。
壮人:今晩の予定はあるのか。
雅仁:特に予定らしきものはない。
壮人:それなら幸いだ。積もる話もある。今晩、また遊びに来てもいいだろうか。良ければ食事も一緒にしたいと言ったら、流石に不躾か。
雅仁:いや、構わない。躾や礼儀の基準は人によって様々であろうが、僕の場合は、お前が当日に連絡を入れて訪問してきた段階で、既に不躾だと思っている。
壮人:気を悪くしないでくれ。多少無理をしてでも、会いたかったんだ。
雅仁:そうなのだろう。だからこそ、僕はお前のその行為に対して構わないと思っているのだ。おい、直枝。
直枝:お呼びでしょうか、宮殿。
壮人:夕食を一人分増やしておけ。壮人も食事に入れるように。
直枝:畏まりました。
壮人:も、というと、他にも誰かいるのか。何か先約があるのなら、邪魔をしては悪いかな。
雅仁:構わんさ。友之が来るだけだ。
■帝都ホテル/ロビー/夕刻
友之:やあ。これは珍しい。九条壮人が帰国したのか。迎えの者から聞いて驚いたよ。
壮人:久し振りだな、友之。
友之:ああ、久し振りだ。元気そうだな。
壮人:お陰様で。
友之:英国はどうだ、壮人。博識で常人離れした思考力を持つ君のことだ。異国の学問など容易く消化しているのだろう。
壮人:生憎、四苦八苦しているよ。僕は君ほど優秀じゃないからな。
友之:これは光栄だ。九条家の人間に褒められたと、俺は明日にでも学友に自慢をしなければならない。
壮人:お前は来ないのか。
友之:食事にだろうか。勿論、行くとも。
壮人:違う。英国へだ。お前、学校から奨励を受けていたのだろう。
友之:驚いた。異国の地にいたというのに、耳が早いな、壮人。教師の中に、立場も弁えず口の軽い愚か者がいると見える。
壮人:勉学や周囲の評価を考えれば、当たり前だろう。
友之:俺はその気はないと断ったのだ。お陰で、以前より増して父との関係は悪化した。
壮人:あまりお父上を哀しませない方がいいぞ。
友之:なるほど。では、少なくとも君は俺の父を哀しませないでやるべきだな。
壮人:僕がどうこうの問題ではないだろう。
友之:閑話休題、雅仁は部屋にいるのだろうか。
壮人:ああ。休んでいるよ。
友之:では、君には悪いが、まず彼に俺が学校から戻ったことを伝えなければいけない。それが日常なのだ。最優先事項なのだ。
壮人:まず僕ともう少し話そうとは思わないのか。一、二年ぶりだぞ。
友之:どうしたのだ、壮人。聞こえなかったのだろうか。最優先事項なのだ。
壮人:おいおい……。
友之:気を悪くするな。雅仁と話したら、君とも話すさ。
壮人:僕は二の次というわけか。相変わらずだな。
友之:君もそのようだろう。誰だってそうだ。雅仁は常に何ものよりも優先される。
壮人:お前と話していると、僕は少し疲れるよ。
友之:それは良くないな。極力話さない方が、君のためかもしれない。
壮人:お前には冗談や嫌味が通じないようだ。
友之:ははは。生憎、それらには随分と馴染んでしまったのだ。時折哀しくなるよ。
■帝都ホテル/部屋/夕刻
友之:やあ、雅仁。只今帰りましたよ。
雅仁:おかえり、友之。今日はいつにも増して早いのだな。
友之:ああ、そうだ。君のいる場所が、こうして都駅近くであるのなら有難い。俺はいつも以上に早く帰り、そうして君に会えるのだから。今日の体調は如何だろうか。
雅仁:うむ。少々疲労してはいるが、環境の違いであろう。大したことはない。直枝、お茶の用意をしろ。
直枝:畏まりました。
雅仁:壮人も戻ったか。友之の出迎えなどせずとも良かろうに、律儀な男だ。
壮人:友之とも久し振りだからな。顔が見たかった。しかし、君が一番だと言って、大して見向きもされなかったよ。
雅仁:それは友之の極めて習慣的な悪癖だ。僕は実に煩わしく思っている。
友之:酷い言われようだ。俺は大概の者と同じくして、君に嫌われたら生きていけない。
壮人:大袈裟な奴だ。
雅仁:お前は単語を混同しているのか。煩わしいと嫌うは随分と意味が違うが、それについて理解はあるのか。
友之:勿論、承知してはいる。俺が生きていけないと言えば、君は内心で些か焦るだろう。それはおそらく、多少、君の中の退屈を払拭してくれるはずだと思ってね。
雅仁:本当にお前は煩わしい。
壮人:友之。あまり雅仁をからかうのは良くない。
友之:からかうとは心外だ。俺は雅仁の天敵を打ち払うことに日々を費やしているのだ。
壮人:退屈が雅仁の天敵だというのなら、僕がいる間は少なくとも打ち払うことができるだろう。異国の話で良ければ、いくらでも君に聞かせるよ。
友之:まあ待て、壮人。遠い地での話も愉快ではあろうが、街中や学校で俺が拾ってきた話を雅仁が聞くことは、日常なのだ。日常は極力崩さない方が良い精神状態でいられることは、君も承知しているだろう。
壮人:確かにそうだが、退屈を払うという点に重きを置けば、僕の話の方がより効果的だと思うよ。どうだろう、雅仁。
雅仁:そうだな。今日は珍しい友人である壮人の話を聞こうか。
壮人:喜んで。
雅仁:それが尽きたら、お前の拾ってきた話を聞こう、友之。構わないな。
友之:残念だが、勿論異存はない。君の望むことを望めばいいよ。君は常に最優先だ。
壮人:さあ。それじゃあ、何から話そうか。英国の政治体制から話そうか。それとも、王室の話からしようかな。
友之:配慮が欠けているぞ、壮人。政治の話にすべきだ。
雅仁:いや、構わんさ。異国の王の話は気になる。確か、女王であったな。女が国を治めていることに僕は驚愕している。
壮人:見習うべきことは多々あると僕は思うよ。我らの国は伝統的であるが、少しだけ合理的ではない理想主義的なところがある。
雅仁:伝統と革新の両立は難しかろう。
友之:雅仁が望めば、国の体制など軽々と変わることだろう。気が変わったのなら、いつでも俺に一言言えばいい。椅子が欲しいと。
雅仁:生憎、その必要は今の所ない。僕は静寂が好きなのだ。このままで良い。
壮人:客観が欲しいのなら、君のように外から見るのがいいのだろうね。それが真の知識人への近道でもある。さあ、ではまずは王の家系から話そうか。
・・・・・・。
■帝都ホテル/部屋/夜
直枝:お話中失礼いたします。宮殿、お薬のお時間でございます。
雅仁:そうか。もうそんな時間か。
友之:軽く三時間は経過をしたようだ。
壮人:僕が経験した知識や出来事を君に話そうとすると、いくら時間があっても足りなくて困るな。
友之:それは君、要点のまとめ方が悪いのだろう。
壮人:決めつけは良くない、友之。僕はお前と違って、雅仁に話す話題が蓄積されているのだ。
友之:君は失礼だ。その点で言えば、俺も蓄積されているのだ。そこを堪え忍び、時間を君に譲っているに過ぎない。
壮人:僕は、僕よりもお前の方が、話題が豊富だとは思えない。
友之:物事は砕いて暴けば、例えそこにある花一本でさえ、数時間に渡り話題とすることができるものだ。
雅仁:鬱陶しい。双方黙るが良かろう。
友之:これは失礼した、雅仁。気を悪くしないでくれ。
壮人:すまない。少々煩かったな。
雅仁:直枝、ご苦労。
直枝:恐れ入ります。時に、宮殿。先程、観月様方が明日早くにお立ちになるようで、今晩のうちに宮殿に今一度挨拶をしたいと希望しております。如何致しますか。
雅仁:観月翁も律儀な男だ。会おう。今行くと伝えておけ。
直枝:畏まりました。
雅仁:壮人、友之。僕は少し席を外す。お前たちは好きにしろ。
友之:同行したいのだが、どうだろう。
雅仁:お前が来ると話が長くなるだろう。同行は許さん。僕一人で行く。
壮人:すぐに戻ってくるのなら、僕はここで待っているよ。時間はまだ早いからね。
雅仁:構わん。好きにするが良かろう。壮人、なかなか愉快な話だった。壮人があると僕の時間は早く進むな。
壮人:良かった。また戻って時間があれば、少し休んで話の続きをしよう。
雅仁:そうだな。では、後で。直枝。
直枝:畏まりました。それでは、参りましょう。
友之:気を付けてお行き。
壮人:いってらっしゃい。
■帝都ホテル/部屋/夜
壮人:さて。僕は残るが、お前はどうする。
友之:それは愚問というものだ。俺もここに残るに決まっている。俺は、雅仁の一日の終わりを、常に俺で締め括ることを欠かしてはいないのだ。
壮人:……。お前は、何だかさっきから随分と偏執的に見えるが、どうだろうか。
友之:それは、君が一体何を持って偏執と呼ぶのかに因るだろう。
壮人:今日一日傍で見ていて感じたことは、お前が以前にも増して、雅仁を神格化しているということだ。そのくせ、自分の良いと思う方向へ連れて行こうとする。雅仁には自我がある。彼の好きにさせておやりよ。
友之:それでは、まるで俺が彼を縛り付けているように聞こえるな。
壮人:僕はそう思っている。
友之:はは。面と向かって失礼な奴だ。壮人。諸国へ旅立った君は、その日からの雅仁を知らないことになる。君の中の雅仁の情報はとても古い。以前は俺と君は雅仁からしてみれば甲乙付けられぬ学友であったが、君が離れている間に彼は変わったのだ。
壮人:何が変わったというのだ。僕よりもお前の方が雅仁に近いと言うのか。僕と彼との距離が離れたとでも言うのか。僕は僕で、雅仁は雅仁だ。
友之:そう、雅仁は雅仁だ。ただ、内面が多少変じただけだ。万物は常に変化する。
壮人:変じてなどいるものか!
友之:どうした、壮人。自分で言っていることが理解できているのだろうか。変じぬ者などいるものか。
壮人:お前…!
友之:正直に言おう。俺は君の突然の帰国に不愉快を感じている。
壮人:…!!
友之:繰り返すが、雅仁の今の敵は退屈なのだ。俺は常にそれと戦い、彼の為にそれを消し去るつもりでいる。であるから、例え俺自身が君の帰国を不快に思っていたとしても、君の帰国自体は大いに歓迎している。
壮人:お前は、何て言い方をするんだ、友之。一体お前は、どうしてしまったというのだ。
友之:どうもしていない。だが、俺も常に変化しているのだ。君が法を学んだように、俺も何かを学んだのだろう。
壮人:何てことだ。僕は、今お前とはこれ以上話したくない。お前が嫌いになりそうだ。
友之:何だって。それは大変だ。有月家と九条家の間に問題があっては国政に関わる。
壮人:少し黙ってくれないか。
友之:何処へ行くんだ、壮人。
壮人:頭を冷やしてくる。かっかと来て、頭の中が熱い。
友之:なるほど。それでは外を散歩するが良かろう。冷静な君が、俺は好きだ。気を付けてお行き。
■帝都ホテル/庭園/夜
壮人:……ふう。
壮人:友之は一体、どうしてしまったんだ。昔は、あの様な奴ではなかった。彼の性根は誠実であり正直であるかもしれないが、果たしてそれが良い方向であるかどうかはまた別の話のようだ。彼が長い間雅仁の傍にいたのか。……雅仁。彼までも、変わってはいないだろうか。今の所その様子は見受けられないが。
???:壮人!
壮人:ん……?
慎太郎:やあ、壮人。やっぱり君であったか!
壮人:慎太郎じゃないか。久し振りだ。どうしたんだ、お前。こんな場所で会うなんて。
慎太郎:何を言うか。それは俺の台詞だ。お前は英国へ留学していたのではなかったか。
壮人:ああ。今も続いている。だが、今日は一端戻ってきたのだ。あちらでは、今が丁度学収めの季節なのだ。
慎太郎:へえ、そうなのか。生憎、俺は異国に詳しくないものでね。
壮人:お前はどうしたのだ。何故、こんな場所にいる。
慎太郎:勉学の一環なのだ。今日もこのホテルの三一五室へ泊まっている。
壮人:三階か。僕は五階の奥の部屋だ。
慎太郎:五二〇室だろうか。五階であれば、先生と同じ階だ。
壮人:先生というと……。
慎太郎:お前は、観月先生を知っているだろうか。僕は、観月先生の手伝いをしているのだ。
壮人:観月先生のか。それはすごい。彼の翁は民俗学の泰山北斗として、異国にも名は届いている。
慎太郎:殆ど荷物持ちと変わらんがね。下端の下端だ。今日も荷物持ちをし、先生は明日お帰りになるが俺は家へ寄るつもりだ。出来ることはたかが知れている。しかし、俺は先生に付いて学べることを誇りとしている。
壮人:勿論、それは誇りだろう。観月先生というと、先程、雅仁へ先生から連絡が来たらしい。明日立つので、挨拶をしたいと言われたそうだ。
慎太郎:何だと。宮様が此処にいらっしゃるのか!
壮人:お前は聞いていないのか。
慎太郎:初耳だ。すごい。宮様がいらっしゃるなんて。
壮人:そうか。慎太郎は同じ組になったことはなかったか。雅仁はすぐに学校へ行くのに難が出てしまったから。
慎太郎:例え同じ組になったとしても、おいそれとお話などできるものか。俺はいつも遠くからお見かけするくらいしかできなかった。
壮人:お前は雅仁が好きなのだな。
慎太郎:壮人、お前、何てことを言うんだ。あの方を好いていない奴などいるものか。
壮人:それはそうだが、少々大袈裟ではないか。
慎太郎:大袈裟ではない。そう思うのは、お前が九条家の人間で、彼と近しいからだ。
壮人:それは道理ではあるが。
慎太郎:かく言うお前とて、宮様を好いているはずだ。
壮人:そうだな。そう問われれば、確かに答えは肯定だ。
慎太郎:そうだろう。あの方は本当に素晴らしい。お姿を拝見するだけで、俺は身が震えたよ。同じ学校であるだけでいいのだ。同じ組になどなったら、おそらく失神するだろう。
壮人:お前は大袈裟だ。
慎太郎:大袈裟ではない。俺は本当に……。
壮人:ん? 待て、慎太郎。彼方の歩道にあるのは、雅仁と観月先生ではないだろうか。
慎太郎:何だって。
壮人:ああ、そうだ。間違いないな。おいでよ、慎太郎。紹介してやろう。
慎太郎:な、な、な、何を馬鹿なことを言うんだ、壮人。ああ、おい。止めてくれ。待ってくれ……!
■帝都ホテル/庭園/夜
壮人:失礼。雅仁、観月先生。
観月:ん……?
雅仁:壮人ではないか。どうした。
壮人:散歩に出たら、雅仁と先生の姿を見かけたので、思わず声をかけてしまったのだ。邪魔だろうか。
雅仁:いいや、僕は邪魔ではないが。
観月:宮様、お知り合いですかな。
雅仁:紹介しよう、観月。これは九条壮人。僕の友人だ。異国に留学をしているが、今は一時帰国をしたらしい。
壮人:九条壮人です。博識で知られる観月翁とお会いできて光栄です。どうぞお見知りおきを。
観月:ほう。九条家のご子息殿か。なるほど、立ち居振る舞いや雰囲気がお父上に似ていらっしゃるの。
雅仁:壮人、これの紹介は不要そうだな。
壮人:存じているつもりです。ご高名ですから。
観月:ほっほっほ。いやはや…。こんな老いぼれを掴まえて。煽てても何も出ませんぞ。
壮人:ご謙遜なさらずに。先程、そこで慎太郎と会いました。先生のお手伝いをさせていただいているとか。僕は彼の学友でありました。
観月:おお。井ノ原慎太郎かね。ああ、手伝ってくれているとも。彼は筋がいい。
壮人:だとさ、慎太郎。
慎太郎:……!!
観月:おや。そこにおるのかね、慎太郎。
壮人:出てこいよ。
慎太郎:し、しかし……!
壮人:雅仁。彼は雅仁の前に出て良いものかどうか迷っているのだ。一言許してやってはくれないだろうか。
雅仁:それはお前の友人か。
壮人:雅仁の学友でもあったのだ。
雅仁:ほう。学校が同じであったか。良かろう。此方へ来るが良い。
壮人:逆らうわけにはいかんだろう。おいで。
慎太郎:う、うう……。
観月:紹介は儂が致しましょう、宮様。これは井ノ原慎太郎。井ノ原家の三男です。学者肌でございましてな、今は儂の雑用を買って出てくれております。
壮人:同じ学校だったよ。
雅仁:顔は知らんな。
壮人:組が同じになったことはないからな。
慎太郎:と、突然、お時間を頂きまして、実に申し訳ございません。井ノ原が三男、井ノ原慎太郎にございます。宮様におかれましてはご機嫌麗しく、ご威光賜り光栄至極にございます。
壮人:堅苦しいな。
雅仁:表を上げよ、慎太郎。観月の連れ、そして僕と壮人の同級であったというのなら、何もそう固くなる必要はないだろう。
観月:ほっほっほ。宮様。それは無茶でございましょうに。
壮人:慎太郎は雅仁が学校にいた頃から憧れていて、声をかけたくてもかけられなかったのだそうだ。今日も君が来ていると聞いて、会える可能性どころか、同じ場所に泊まるだけで好運という口ぶりであった。
慎太郎:ば、馬鹿。壮人!
雅仁:同じ学校にいた身であろう。今更同じ場所を同じくしたくらいで、何を言うか。
壮人:全くだ。
慎太郎:いや、その。ええ、まあ……。
壮人:そうだ、雅仁。明日帰ると言っていたが、それは明日、別の予定があるということなのだろうか。
雅仁:いいや、壮人。特段、明日帰らねばならぬ予定はない。しかし、僕は余り公に出ることを良しとせず、また街中にいることも良しとしない。
壮人:しかし学問的探求心はある。先生は明日お帰りになるそうだが、慎太郎は実家に帰るそうだ。井ノ原家は代々銀行家で、持ち蔵の内部は大変に面白いのだ。
雅仁:知っている。お前の父上には僕も会ったことがある。
慎太郎:た、壮人。ちょっと待て。お前まさか……。
壮人:どうせお前は帰るのだ。明日、ついていってお前の家にお邪魔してもいいだろう。
慎太郎:何を言い出すんだ、お前は!
壮人:嫌か?
慎太郎:い、嫌なわけがなかろう。しかし、宮様をお迎えするには我が家には用意がない。あまりに失礼だ。
雅仁:井ノ原家へ顔を出せという話か。事前に訪問の予定を組まなければならんだろう。当日、当主がいるとも限らん。仕事であろうよ。
壮人:構わんさ。友人の家に遊びに行くことの何が悪いのだ。公的な訪問ではない。予定が必要だろうか。お父上が不在であっても、構いはしないだろう。
雅仁:当主が不在の家へ僕が行って、何になる。
壮人:雅仁。君はどうやら忘れているようだ。各家の家長ばかりではなく、友人と会っても良いのだよ。
雅仁:お前の言っていることが、僕にはよく理解できない。慎太郎とは今ここで会っているではないか。
壮人:遊びに行くのだ。
雅仁:遊びに行くというのは何だ。
壮人:僕は君と会うと、会話を楽しみ、お茶を楽しむ。散歩をしたりもする。今日もそのようだ。いつも僕や友之と行うことを、他の者と行っていいのだ。
雅仁:あまり考えが及ばんな。つまりお前は、明日、僕に慎太郎と会話を楽しみ、お茶をし、散歩をしろと言っているのか。
壮人:端的に言うとそういうことだ。慎太郎は嬉しかろう。
慎太郎:い、いや、ですが……。
観月:慎太郎。肯定か否定で明確に答えなさい。宮様が困惑なさろうて。
壮人:では改めて問おう。雅仁が遊びに来たら、お前は嬉しいだろうか。
慎太郎:勿論だ!
壮人:というわけなのだ。どうだろう。
雅仁:僕が訪問すれば慎太郎が喜ぶということは分かったが、他の利点が浮かばんな。
壮人:もっと簡単な話をしよう。明日、君にはこれといった特別な予定がない。
雅仁:うむ。ないな。帰るだけだ。
壮人:帰ればすぐに日常だ。しかし、帰る前に井ノ原家に立ち寄れば、蔵の内部など、今まで君が見たことのないものに触れることができる。ただ帰るよりも、些細ではあるが、確実に見識が広がるとは思わないだろうか。
雅仁:なるほど。安易な説明だ。直枝、どう思う。
直枝:壮人様の仰るとおり、明日は特別なご予定がございません。故に、宮殿のお好きになさいませ。
雅仁:ふむ……。
壮人:行こうよ、雅仁。たまには良いものだよ。
慎太郎:歓迎いたします、宮様。
雅仁:明朝の気分次第だな。当日、お前に返事をしよう。お前がここを立つのは何時だ。
慎太郎:それは、先生のお立ちになる時間に因ります。
観月:儂は六時に立つつもりです。
慎太郎:では、それを見送って以降でしたら、私は自由です。宮様がお決めになった時、ご連絡いただければそれで。
雅仁:では七時までには伝えよう。これで良いか。
慎太郎:は、はい……!
壮人:どちらにせよ僕は寄らせてもらうと思うから、宜しく。慎太郎。
観月:宮様はまだお若い。交友を広く持つことは、その分見識に繋がります故、多くのご学友や知人と語らいになるが宜しかろう。
雅仁:僕がその気であったとしても、僕へ心を開く人間は少ない。僕は通常の交友を諦めている。
壮人:それはいけないよ。確かに、君は普通の人のように気軽に肩を叩いたりやりあったりという友人はできにくいかもしれない。でも、僕は君と真摯に向き合っているつもりだ。始めから真摯にというのは難しい。先ずは知り合うことから始めなければならない。
雅仁:お前は友之と真逆のことを言うな。
壮人:雅仁。彼の言うことばかりを信じてはいけない。彼の価値観は少々独特だ。
雅仁:分かった。お前たちの話は以上で良いな。僕は観月と話をしていたのだ。もう下がるが良かろう。
壮人:分かった。そうしよう。それでは、観月先生。今度は是非九条家にいらしてください。今にも勝る今後のご活躍をお祈りしております。
観月:ありがとう。壮人殿も勉学に励むが宜しかろう。
壮人:はい。それじゃあな、雅仁。行こうか、慎太郎。
慎太郎:先生、明日の朝お見送りいたします。
観月:うむ。頼むぞ。
慎太郎:それでは宮様。失礼いたします。お騒がせいたしました。
雅仁:ああ。
■帝都ホテル/ロビー/夜
慎太郎:うわあ。うわあ、すごいぞ。すごい。夢みたいだ。
壮人:大袈裟だな。
慎太郎:大袈裟ではないよ。さあ、大変だ。俺は家に連絡するから、部屋に戻るよ。
壮人:明日でも間に合うだろう。明日の朝、雅仁の気が乗らない可能性もある。杞憂に終わるかもしれない。
慎太郎:いらっしゃる可能性があるだけでも一大事だ。
友之:おや。そこにいるのは井ノ原慎太郎であろうか。
壮人:……!
慎太郎:おお。友之じゃないか。今日は随分と学友に会う日だ。
友之:久し振りだな、慎太郎。会えて嬉しいよ。その後の活躍は聞き及んでいるよ。
慎太郎:ははは。ありがとう、友之。お前や壮人ほどでは勿論ないけど、俺も何とかやれているよ。
友之:謙遜は止したまえ、慎太郎。学者とは、ある種の才能が高くなければなれる職業ではない。君は才能に秀でた、若き英才だ。国の希望のひとつであろう。
慎太郎:止めてくれ。俺はお前たちみたいに褒められ慣れしていないんだからな。
壮人:友之。お前、どうしたんだ。散歩か。
友之:それもあるのだけれど、雅仁が随分と遅いのでね。迎えに来たのだ。
慎太郎:ああ、すまない。僕と壮人が、宮様と先生のお話の腰を折ってしまったのだ。だから、長引いているのかもしれない。
友之:そうか。一言挨拶をと俺は聞き及んでいるが、ただの挨拶ではなく何か話があるのだろうか。
慎太郎:さあ。そこまでは俺は分からない。
壮人:お前の心配することではないよ。雅仁には直枝さんが付いているし。
友之:壮人、君の認識は少々誤っている。直枝さんは雅仁に、いくつかの条件以外は絶対服従なのだ。つまり、雅仁が話したいと言えば、いつまででも会話の席を締めることはないだろう。
壮人:いいではないか。雅仁の自由だよ。
友之:彼は何ものよりも優先されるが、同時に何ものよりも彼自身を優先しなければならない。睡眠不足は基礎体力を落とし、精神安定を脅かし、人に良くはない。僕は案じるが、君は。
壮人:まるで僕が雅仁を案じていないと言わんばかりだな。
友之:ははは。まさか。
慎太郎:でも、そう言われるとそろそろ遅い時間の気がするな。宮様はお疲れなのではないか。
壮人:それなら僕が言ってくるよ。
友之:ああ、壮人。異国帰りの君に足労はかけたくない。俺が行くから君は部屋に戻るといい。
壮人:気にするな。僕は今日一日のんびりさせてもらった。お前こそ先に休むといい。
慎太郎:お前たちはいつも仲が良いな。
???:慎太郎君。
???:こんな所で何をしている。
慎太郎:ああ。吉野先生、将士さん。
吉野:こんばんは、皆さん。
将士:遅くまでうちの研究人がお話に付き合わせてしまい申し訳ない。慎太郎。失礼だろう、こんな夜分まで。部屋へ行きなさい。
慎太郎:すみません。ですが、彼らは俺の学友です。
将士:学友?
慎太郎:紹介します。向かって右が、有月友之。
友之:こんばんは。お初にお目にかかります。有月友之です。以後、どうぞお見知りおきを。
慎太郎:左が、九条壮人です。
壮人:こんばんは。お会いできて嬉しいです。九条壮人です。
将士:有月に、九条……というと。
吉野:御七家の方々でいらっしゃいますか。これは失礼しました。
慎太郎:二人とも、紹介しよう。観月先生の助手の吉野先生。
吉野:初めまして。吉野です。
慎太郎:そして、俺の先輩の、将士さん。
将士:こんばんは。そうですか、慎太郎の学友でしたか。今日は宮様もこちらにお泊まりになっていらっしゃると伺っていたのですが、宮様とご一緒に?
慎太郎:あ、将士さん酷いや。やっぱり知っていたんですね。俺は壮人に聞くまで、宮様のことは知らなかった。
将士:当たり前だ。おいそれと広めることじゃないだろう。
友之:正しいご判断だ。
壮人:だとしても、慎太郎は雅仁の学友だ。彼には伝えて良いことだと思う。
慎太郎:俺たちも、揃って今晩このホテルに泊まっているのだ。二人は何階に?
友之:俺は六階だ。六一八室。
壮人:僕は五二〇室だ。五階の最も奥の部屋だ。
吉野:おや。では、私の丁度上ですね。
将士:私と慎太郎は三階です。五階六階だと、一室が広いでしょう。
壮人:さあ。他の部屋を見たことがありませんが、それ程広くもありませんよ。
慎太郎:このホテルの造りはシンプルだ。エレベーターから奥へ行くごとに微妙に一室の造りが広く、そうして〇一から二〇までの番号が振ってある。お前は五階で最もいい部屋に泊まっていることになるぞ。
壮人:そうなのか。気付かなかったな。
慎太郎:お前は相変わらずのんびりしているな。
吉野:観月先生がまだお戻りではないのですが、慎太郎君、知っていますか。
慎太郎:はい。先生は、宮様とお話中です。
吉野:随分遅いですが、大丈夫でしょうか。宮様もお疲れでしょうに。
友之:ええ。今、彼らとその話をしていました。俺が二人に時間が回っていることを伝えて参りましょう。観月さんは雅仁が幼い頃からの知人です。おそらく、話が弾んでいるのでしょう。
壮人:おい。友之……!
慎太郎:行ってしまったな。相変わらず行動が早い。
将士:彼が言葉を添えてくれれば、大丈夫だろう。観月先生もあまり遅いとお体に障る。
壮人:観月先生は、お体の具合が悪いのですか。何かご病気でも。
吉野:いや、病気ではありませんが、お歳ですからな。最近は足が少々、お辛いようで。
壮人:そうなのですか。散歩をしながら話しているようだが、大丈夫なのだろうか。
慎太郎:平気さ。足を上げるのが少し辛いだけだ。上り階段でもなければ、支障はない。
将士:吉野先生。ここで揃って待っているのも、少々大袈裟でしょう。部屋に戻りましょう。
吉野:そうですね。何処にいらっしゃるのかが分かれば宜しいでしょう。
将士:慎太郎はどうする。
慎太郎:俺はやっぱり、もう少しここにいます。玄関前に数段の階段がある。手摺りはあるけど、人の手があった方がいいでしょう。
将士:そうか。壮人さんは、如何します。
壮人:僕も雅仁を待っています。友之が迎えに行ったので、すぐに戻ってくるでしょう。
将士:そうですか。それでは、俺たちは先に部屋に戻ります。慎太郎。明日はお前も一度先生のお部屋にあがって来るように。
慎太郎:分かりました。おやすみなさい。
吉野:おやすみなさい。
将士:それでは、失礼。
壮人:ええ。おやすみなさい。
・・・・・・・。
壮人:聡そうな方々だ。穏やかそうな方々と仕事ができて、勉強になるだろう、慎太郎。
慎太郎:ああ、そうだな。でも、なかなかそうはいかないのだ。
壮人:何かあるのだろうか。
慎太郎:ううん。俺はみなが好きだが、みな人だからな。人の好き嫌いというものがある。
壮人:不仲なのか。今の二人がだろうか。
慎太郎:内緒だ。
壮人:そうか。そうだな。僕が聞いて、どうなることでもない。しかし、人が、特に身近な人を嫌うとは……いや。嫌うとまでいかずとも、疑うということは、哀しいことだ。
慎太郎:君にしては随分、珍しい言葉だな。何かあったのか。
壮人:いいや。何でもない。どうか気にしないでくれ。
慎太郎:お前は生来心が特別清いから、生きにくかろう。程々にするがいい。
壮人:ありがとう。
慎太郎:もしお前が女であったなら、お前は俺の好みなんだがな。
壮人:生憎僕は君より背が高いし、成績も家柄も僅かばかり上だ。
慎太郎:男で良かったな。女であれば、これ以上ない不愉快な女のお手本だ。
壮人:僕は聡明な女は好きだがね。
慎太郎:俺は少なくとも、俺より愚かな女がいい。俺は愛する人の前では格好良くありたいと思っているからな。
壮人:それで、その愛する人はいるのかどうか。
慎太郎:聞かないでくれ。そこは流してほしいな。
壮人:はははは。
友之:やあ。二人とも。まだそこにいたのだね。先に戻っていれば良かったのに。
観月:慎太郎も早く寝るが宜しかろう。
慎太郎:はい。お送りします、先生。
観月:まったく。年寄り扱いかね。
慎太郎:違いますよ。俺、五階に上がってみたいのです。五階から上は特別室のようなものですから。
壮人:肌寒かろう、雅仁。僕の上着を肩にお掛け。
雅仁:気が利くな。借りよう。
友之:俺がもっと早く君を迎えに出るべきだった。許してくれ、雅仁。
雅仁:構わん。観月と話せて僕はとても気分がいい。
観月:儂もですぞ、宮様。それでは、またいつかお会いいたしましょう。それまでどうぞお元気で。この観月、宮様のお心の安寧を日々願っております。
雅仁:ああ。観月も息災あれ。
友之:お元気で、先生。またお会いしましょう。
壮人:さようなら。慎太郎は、また明日だな。
慎太郎:ああ。そ、それでは宮様。明日のご連絡をお待ちしております。
雅仁:ああ。明日、直枝から返事を伝えよう。
慎太郎:ありがとうございます。光栄です。それでは、お休みなさい。
観月:お休みなさいませ。
壮人:さあ、雅仁。君も部屋に戻ろう。風邪を引いてしまうよ。
雅仁:うむ。そうだな。
壮人:何か温かいものを飲んでから寝るのがいいだろう。
友之:ああ。それがいいだろう。……ところで壮人。先程、慎太郎が口にしていた連絡というのは何であろうか。
壮人:明日、気が向いたら雅仁と僕で慎太郎の家に遊びに行くのだ。君も一緒に行くかい。
友之:井ノ原家へ行くというのか。そんな予定はなかったはずだが、一体全体どうしてそのような運びとなったのだ。
雅仁:何を驚くことがある。慎太郎から誘いを受け、僕が了承したのだ。明日は特に急いで帰る必要もない。立ち寄る時間もある。
壮人:僕が抑も立ち寄るつもりであったのだ。雅仁もどうかと思ってね。
友之:なるほど。しかし、雅仁は壮人とは違う。君が急に立ち寄るなど、井ノ原家にとっては唐突過ぎて、些か迷惑になるのではなかろうか。
壮人:何故。雅仁と慎太郎は同じ学校の生徒であった。一緒に遊んでも構わんだろう。ちょっと立ち寄るだけさ。蔵を見せてもらうのだ。そうだろう、雅仁。
雅仁:銀行家の蔵には興味がある。いろはの金庫を僕は本で読み、以降一度実物を見てみたいと思っていた。
友之:では、一度戻って書状にて井ノ原殿へ命じるべきではなかろうか。金庫を見せよと、ただ命じれば良いだけだ。予定というものは、雅仁、既に組まれたものだ。あまり変更すべきではないと僕は思うが、どうだろうか。
壮人:友之。お前は妙なことを言う。より良い方向へ変更することが、何故いけないのだ。そのような心構えでは、柔軟性に欠ける。万事において、より良い好機を見逃すぞ。
友之:より良いとは言い切れないように思うが、どうだろう。雅仁には君や僕と違って立場がある。大衆の目もあるのだ。そう簡単に同年代であるという理由だけで、下々と親しくするのはいかがなものか。
壮人:下々とは、何てことを言うのだ、友之。
友之:何か失言をしただろうか。それとも君は、雅仁と井ノ原家家長や、またその息子が、同列とでも言うのだろうか。
雅仁:双方そこで鎮まれ。夜分に叫くなど見苦しい。
壮人:しかし。
雅仁:壮人。僕の名は知っているな。
壮人:雅仁だろう。
雅仁:そうだ。僕は常に何ものよりも優先される。名のある銀行家であるとはいえ、井ノ原家長が僕と並ぶと考えているのであれば、僕はお前を咎める必要がある。僕が家長らと会い、話をするのは、僕の慈悲だ。考えを改めよ。
壮人:ああ、分かっている。すまなかった。気を悪くしないでくれ。ただ、友之の下々という表現が、あまりに劣悪に思えてならなかったのだ。君と彼らを同格に考えているわけではない。
雅仁:いいだろう。次に友之。お前が、僕の決めた僕の言動に反対の意を表すのは珍しい。
友之:僕が君の正しき判断を、何よりも切望しているが故だ。
雅仁:お前が切望していようとなかろうと、僕以外で僕の行動を制限できる者は、父上と母上、場合によっては弟、そして神仏だけだ。僕は明日、井ノ原家へ赴くかもしれない。井ノ原慎太郎はそれを了承している。お前の意見など聞いてはいない。口を慎め。
友之:ああ、雅仁。どうか気を悪くしないでくれ。君の決めたことを俺が変更しようなどと、そんな烏滸がましいことを俺はこれっぽっちも考えてはいない。ただ、君が既に組まれた予定についての重要性を自覚しているか否かの、確認の意を込めて聞いたのだ。君が何処かへ立ち寄るというのなら、いつものように、俺も付いていこうと思っているのだ。そうすると、俺の予定まで変わってくるだろう。俺は自らの予定を明確にしておきたい。
雅仁:ということは詰まり、自らの帰宅という予定を変えたくないが故に、僕に予定を変更するなという了見で良いか。
友之:そうではない。ただ確認をしたかったのだ。本当に行くのかどうか、井ノ原家と近づいて良いのかどうか。君は常に中立中庸であらねばならない。
壮人:お前は深く考えすぎだ。雅仁は確かに立場があるが、僕たちと同じ若者でもあるのだ。僕が雅仁や友之に会うように、雅仁が慎太郎に会っても構わないはずだ。
友之:壮人。君は少々浅はかだ。君は穏やかで心が広く理解がある。そう思えもするだろう。しかし、人とは往々にして愚かで疑り深いものなのだ。
壮人:お前は性悪説者であったのか。人は善くして生まれ出でるものだ。疑いからでは、何も始まらない。
友之:信じるなとは言っていないところに、俺の許容を酌み取って欲しいものだ。大衆を信じるなとは言わない。せめて愚かであろうと疑うべきなのだ。常に最悪を想定しておくことは必要だ。
壮人:想定は必要だが、最善を考えて動くべきだ。
雅仁:直枝。部屋へ。
直枝:畏まりました。
壮人:雅仁。待ってくれ。
雅仁:僕はもう休む。貴様らはそうしていつまでも論じていれば良かろう。
壮人:明日はどうするのだ。行くのだろう。
雅仁:抑も、僕は明日の気分で井ノ原家へ赴くかどうかを決めると言っている。全ては明日だ。これ以上話す必要もなかろう。それに僕は今、貴様らに不快を感じている。今晩はこれ以降顔を見せるな。
友之:すまない、雅仁。では、明日会おう。お休み。
雅仁:ああ。
直枝:失礼いたします。
・・・・・・・・。
壮人:……。
友之:さて。それでは、僕らも休むとしようか。
壮人:友之。お前、明日は僕が雅仁と話すまで、どうか彼と話をしないで欲しい。
友之:何の権利があってそのようなことを言うのか、俺には理解できないな。
壮人:友之。本当にお前は、一体どうしたというのだ。以前のお前は、そのような考えをする奴ではなかった。
友之:君の中で思い起こされる以前の俺は、一体どのような人物だったのだろうか。
壮人:物事に対して常に客観的で、物腰は柔らかく聡明であり、冷静だった。これではまるで、冷徹だ。
友之:冷徹という言葉は、それ自体が悪しきものではないはずだ。冷静よりも深く物事を見る目を持ったという、それは褒め言葉として受け取ろう。ありがとう、壮人。俺も少なからず成長しているかと思うと、嬉しいよ。
壮人:雅仁が行くと言えば、明日の井ノ原家訪問は邪魔をしないでくれ。彼には、もっと広い交友が必要だ。国の“主柱”は国の心だ。彼は“主柱”になる可能性が残っているのだから。
友之:今の所、雅仁は“主柱”になるつもりはないようだが、その通り。彼は我が国の心そのものになる可能性が存在している。明日、仮に雅仁が訪問を決めたのならば、俺はそれに従うと誓うよ。
壮人:本当だろうな。
友之:本当さ。君は疑り深くなったようだ。いいことだ。それは君に、今まで欠けていたものであった。
壮人:僕が疑り深くなったとしたら、それは悪しき成長だろう。
友之:善も悪へ転べば悪となり、悪も善へ転じれば善となる。物事は往々にして、曖昧なものだ。要は見る者がどういった基準で物事を見るか、それに因る。
壮人:僕はもう寝るよ。おやすみ、友之。
友之:おやすみ。いい夢をね。
■帝都ホテル//夜
―――とんとんとん。
三沢:坊ちゃま。壮人坊ちゃま。
壮人:ふぁい……。
三沢:三沢でございます。どうぞドアをお開けいただきますよう。
壮人:三沢……。なんだ……こんな時間に……。
三沢:失礼いたします。
壮人:どうしたんだ。まだ朝方の四時じゃないか。それに、どうしてここにいるんだ。
三沢:お休みの所申し訳ございません。恐れ入りますが、早急にお出になるご準備を。
壮人:出るというのは、このホテルをか。何か急用でも生じたのだろうか。
三沢:詳しくは後程。兎にも角にも、今はお急ぎになってください。淳、急いで坊ちゃまのお荷物を。
淳:あいよ。
壮人:やあ、淳。久し振りだ。
淳:よう、坊ちゃん。元気そうで何よりだ。
壮人:黒服など着て。三沢の手伝いをしているのか。
淳:今は親父に着いて見習い使用人だよ。俺は馬鹿だけどさ、勉学も何とか……。
三沢:淳。何をしている。早くしなさい。
淳:……っと。今はそんな時じゃないか。荷物は俺に任せて、坊ちゃんは早く親父についていけ。
壮人:ああ。しかし、どうしたんだ、一体。
淳:詳しくは後で。
三沢:車は既にご用意してございます。坊ちゃま、お早く。
壮人:分かった。だが、雅仁がここにいるんだ。彼を起こさずとも、直枝さんに一言、僕が出ることを伝えてきてくれないか。
三沢:心配はご無用です。宮様は先程、既に当ホテルをお出になられました。
壮人:何だって。彼にも何か急用ができたのか。そんな訳がない。彼に急用が生じることは希だろう。
淳:おら。突っ立ってんなよ、坊ちゃん。早く出ろ。俺が通れないだろ。
壮人:あ、ああ。悪いな。
三沢:坊ちゃま、どうぞ。お急ぎください。
壮人:分かった。出よう。
・・・・・・・・。
■車内/
壮人:それで一体、何があったのだ。
三沢:詳しくは、ご自宅に着いてからお話いたします。今はお眠りください。
淳:急に起こして悪かったな。お前は昔から、特別に寝ることが好きだから、途中で起きるのは苦痛であっただろう。
壮人:確かに眠くはあるが、しかしこれは、ただ事ではないように思う。車を出す時も、まだ日も空けていないというのに、賑やかであった。
淳:何。ちょっとしたことさ。お前が心配するようなことじゃないよ。
三沢:淳。口を慎みなさい。坊ちゃまに対して、失礼です。
淳:けど、俺は坊ちゃんの友人だぜ。
三沢:明確に公私混同をするなとは言いません。しかし区別はなさい。
淳:親父は口やかましくて困る。
壮人:三沢。家に戻って落ち着いたら、詳しく説明してくれるか。
三沢:畏まりました。そのようにいたしましょう。ですから、今は少々お眠りください。
淳:別にわざわざ話さなくてもいいのに。
壮人:気になるのだ。では、お前たちを信じて僕は眠ることにするよ。家に着いたら、起こしてくれ。
三沢:畏まりました。
淳:かしこまりました、坊ちゃん。
・・・・・・・・・・。
続