硝子越しに
チクリともしなかった。小さな傷が走った瞬間など、案外わからないものだ。
せいぜいちょっとした違和感があるくらいである。
彼女が外出している隙に、自分を培養している二メートル四方くらいの試験管…とでも言ったらいいのだろうか。「箱」を内側から体当りして砕いた。生まれて初めての外気に触れ、肌がびりびりする。一瞬立ちくらみがしたが、大丈夫だ。
震える手で散らばった硝子を掻き集める。あとで彼女が破片に触れて怪我をしないように。急げ。彼女が来る前に、自分の命が尽きる前に、早く片付けてしまわなければ。
指先の切り傷からしたたった血を舐め取る。錆びた味がする。幸福の味だ。
そう、幸せなはずなのだ。これで彼女は「私」にとらわれなくて済む。
自分が消えてしまえば、彼女は眼を覚ましてくれるかもしれない。
生命を維持するための装置が外されたことで、自分はもう長くは生きていられないだろう。呼吸の調子を見る限り、せいぜいあと十分くらいか。
肌が乾燥して、無数のひびが走った。ひりつく。
長いこと自分の意志を宿して動いてきた体が消滅するのはとても哀しいことだが、でも、構わない。彼女が解き放たれることが重要なのだ。そう、これでいいのだ。
本心を言うと、彼女を一瞬でも長く自分の元にとどめておきたかったが、昨日の彼女の透き通った瞳を見ていたら気が変わった。いや、自分が彼女の瞳を見つめたと同時に、むしろ彼女の瞳を通して自分が見えたのだ。自分の丸裸の心を客観的に見てしまったようで、恥ずかしくなった。拙い心の独占欲にまみれた自分の姿がありありと映っていた。違う。こんな醜い自分を晒すのは不本意だ。
乾ききった足の裏の皮膚が、一歩進むごとにひび割れていく。燃えるような痛みが後から後から這い上がってきた。でもそれに構っている余裕はない。
これで全部回収したはずだ。早くこの集めた硝子をゴミ箱に捨てなければ。ゴミ箱はどこだ。
自分は未発達な段階にあり、存在できるのが「箱」の中に限られていて、制御された環境の中でしか生きていけない。彼女が自分の「世話」をしている間、彼女の時間は自分のものだった。彼女だけが自分の知っている唯一の他者だった。今、彼女は自分だけを見ている。彼女が話しかけてくれて、笑顔を見せてくれて、「食事」をくれる。いとおしげに視線を交わせる。なんて幸福なことか。いや、幸福だと思い込んでいた。
昨日、あの瞳を見てしまうまでは。
ただただ、美しかった。
私は、あと一ヶ月で完成するはずだった。彼女が昔愛した者とそっくりな存在として。
彼女は昔、恋をした。
二人は出会ってすぐ恋に落ちた。周囲に迷惑をかけることもなく、静かに、深く深く愛しあう暮らしを送っていたという。その後、何があったかは知らない。彼女が話したがらないからだ。今、彼女の隣にその人はいない。愛する人の話をするとき、私をまっすぐ見ながら、彼女は泣きそうな眼で笑っていた。察するに、そういうことなのだろう。
あの瞳を見つけてしまったとき、私は悟った。この美しさを未来においても存続させるためには、「私」は存在してはならないと。思い出は、思い出のままでなければならない。思い出の続きをつくることはできない。私は彼女の思うあの人にはなれない。生まれ落ち、あの人と私との差異を見つけるたびに、彼女は絶望し、瞳は曇るだろう。大切に思っていた記憶の続編がいびつな愛の形で紡がれていくのを、一体誰が願うというのだろう。もしかしたら「私」が生まれるのはこれが初めてではなく、何回目かの試作品なのかもしれない。いや、関係ない。私が私として生まれたのは今回が初めてで、そして最後なのだ。なんとかしなければ。彼女がこんな虚構ではない幸せを手に入れられるように。何か手を打たなければ。彼女が絶望を手にする前に。
ひとたび我に返り、ただ自分の欲望を果たしたいという凝り固まった執着を手放してしまえば、まるで雪解けのように、心の奥からするすると愛が流れ出してきた。悩んで、熟考して、思考回路を無茶苦茶に乱して、頭の中だけで無数の試行をして、ひとつの結論を得て、この手段を実行するに至った。後悔はない。だが。彼女の将来を思うとこんなにも幸せなのに、鼻の奥がツンとしてくるのはなぜだろう。
呼吸がうまく出来ない。喉が張り付く。もう痛みはない。ただただ苦しい。お願いだ。あと少しだけ、もってくれ。
紙とペンを見つけた。文字というものを初めて書く。練習したことはないが、書き方は知っている。体が熱い。内蔵が燃えるようだ。
「ちょっと出かけます」
意識が途切れがちになる。
「窓辺に」
インクがにじんだ。
「飾る花を探しに。」
書き終わった。最後の力を振り絞り、萎えた足をひきずって外へ出る。
家の裏には黒く濁った池がある。底なしの、一度落ちれば二度と浮かび上がって来られないような池が。
灼けきった体に、冷たい水が心地よい。
「きっとあなたに似合うでしょう。
私が戻るまで、いい子で待っていてください。」