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第1章 帰郷、義姉との再会

第1章 帰郷、義姉との再会


 アルバートは小さなディーゼルカーを見送ると、故郷の風が運んだ、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

風は西南から木々の間を抜け、小川を渡り、トウモロコシ畑を小走りで駆け抜け、黒すぐりとラズベリーの生垣をくぐり、アルバートの頬をやさしく撫でていった。六月の風には木と草の匂いが含まれていて、穏やかで優しかった。


 アルバートは初夏の陽光を浴びながら、小さな無人の駅舎から出た。アルバートよりも先に降りて行った、中年の女性は迎えに来ていたトラックに乗りどこかへ去っていくと、誰もいなかった。


 アルバートは顔を上げ、その先を見た。遠く丘を取り囲むように、灰色の石灰岩を組んだ塀が見え、自分の足元から、遠近法のお手本のように、ポプラ並木の一本の道が向こうの丘の上にある消失点まで続いていた。懐かしい風景だった


「戻ってきたんだ」とアルバートは自分の耳にも届かない小さな声でつぶやいた。

 

 アルバートは上着を脱ぐと、皮のすれた旅行かばんを置き、雨ざらしになって灰色になったベンチに座った。アルバートは人を待っていた。


 アルバートはぼんやりとポプラ並木の先を見ていた。そうしていると、自分が子どもの頃に感じていた事とか、小さな思い出があふれ出てきた。思わずアルバートは何か楽器を奏でてみたくなった。でも、残念な事に手元にそれはなかった。


 しばらくするとポプラ並木の先から土煙を上げて、こちらへ年代物の自動車がかなりの速度で向ってくるのが見えた。塗装が所々剥がれ、ボディーのあちこちが凹んだ車は急なブレーキを踏むと、砂利を軋ませつつレンガ積みの駅舎の前に止まった。車の中には品のいい初老の男が乗っていた。

アルバートは車に向かって笑いながら手を振った。


「やあ、やあ、エドガー」アルバートは良く通る声で車に向かって声をかけた。


 エドガーは機敏に車を降り、背筋の伸びた上品な歩き方でアルバートの方へとやってくると頭を下げた。その頭は半分以上禿げ上がり、白髪頭だった。けれども、その黒服の執事のいでたち、穏やかな灰色の眼、余分な肉などない、ひょろりとした長身の体つきは全く変わっていなかった。アルバートはそれを見て親しく温かい気持ちが湧き上がるのを抑えられなかった。そして、アルバートは自分とエドガーとの間にはずいぶんと長い時間が流れた事を実感した。


「おかえりなさいませアルバート様、お待たせしてしまって申し訳ありません」エドガーはうれしそうに微笑みながら言った。


「そうでもないよ。さっきついたばかりさ」アルバートは右手を差し出して握手をした。大きく骨ばったエドガーの手の感触にアルバートは感極まりそうになった。


アルバートは旅行かばんを車のトランクに入れると、車に乗り込んだ。車は滑り出すように発進した。


「エドガー、君はずいぶん歳をとってしまったんだね」アルバートはせつなさを抑えられずに言った。


「そうですね、でも、あなたは立派な青年になられた。それだけで、私は満足なんですよ」


「ありがとう」


「それに、私もあなたからずいぶん多くのものをいただきました。だからお礼なんて必要ないんですよ。年をとると戻れないことが増えていきます。でも、換わりに多くの得がたいものが積み重なって行くものなんです。それは自分が本当に豊かになることですからね。坊ちゃん」とエドガーは笑った。


「エドガー、もう坊ちゃんはないだろう」アルバートは笑った。


「いやいや、私にとっては坊ちゃんは幾つになっても坊ちゃんですよ」


 アルバートはエドガーと会話をしながら、懐かしさの他に、なんだか自分が全く新しい場所へやってきたという、全く反対の不思議な感覚を感じていた。


 車は光に満ちた初夏の田園をゆっくり進んだ。丘を越えポプラの並木が途切れると、小さな小川を渡り、今度はすずかけの並木を抜けて、大きな樫の木の前を過ぎ、中ぐらいの丘を幾つも越えた。丘には先住民ハラレの残した石柱が幾つも並んでいるのが見えた。

 だいぶ進むと、小山が見え、山際にある巨岩をトンネルで潜り抜けると、両脇に大きな尖塔を持ったゴシックの城門が前方に見えてきた。黒く固焼きしたレンガを積み、鍛造された太い鉄格子を巧みに組み合わせた厳しいデザインで、門の上にはバラと剣をモチーフにしたロマンティックとも言える伯爵家の紋章がついている。尖塔の左手には同じ様式の門番の詰め所兼住宅があったが、今は誰もいないようで、エドガーが車から降りて門を開けた。

 アルバートは助手席から換わり、サイドブレーキを引いて、ギアをローに入れて、門の内側入り、車を止め、エドガーを乗せると、さらにゆっくりと走り始めた。


「ありがとうございます。運転覚えられたんですね」


「うん、向こうじゃ、鉄道のないところに住んでいたからね」


「車は好いもんです」


「乗っていると愛着を持つからね。この車はいつ買ったの?」


「もう、4年も前ですよ。中古車ですからね。あちこちがたがきています」


「仕方がないよ。新車は軍需優先で作られていないからね」


「どうしようもありませんな」


「うん、どうしようもない。あらゆる意味で・・・・」


「屋敷のふところ具合はどう?」


「まあ、前よりはずっと良くなりました。今年の小麦やとうもろこしに良い値がつけば、あちこち修繕する費用も出せそうですが」


「国が一定価格で買い上げてしまうかもしれない」


「そうです。その可能性はあります。なにせ非常時ですから。でも、国の買い上げはそんなに悪くはない。向こうで引取りに来てくれますから、輸送のコストが出ません」


「なるほど」


「最近は穀物にいい値が付きますからね。この辺りもずいぶんと変わってしまいましたよ。荒地にも人が入っています。ただ、これはおかしな景気のよさですな、いつまでつづくやら」


「まあ、お金が入ってくるのは良い事だよ。15の時にここを出たけど、あの頃は苦しかった。免税特権もなくなったからね」



「ええ、だんな様はそのことで苦労されておりました。でも、もうここにはだんな様もピーター様もいません」


「そうだね」

 

 会話が途切れる。


「母さんはどうしている?」


「リンシアに居られますよ。この間、手紙と色々なものを、屋敷の者たちに送ってくださいました」


「母さんは元気みたいだな」


「ええ、力強い方ですから」


「うん、そういえば、義姉さんは?まだ、ルーカス街にいるの?」


「いえ、タウンハウスからはもうずいぶん前にこちらへ戻ってこられました。まあ、首都あちらはあんな感じですからね」


「そうか義姉さんとウィリアムはここにいるんだ」

 

 マリーは亡くなった実兄ピーターの妻で、彼女には10歳になる息子のウィリアムがいる。


「そのマリー様なんですが」


「義姉さんがどうしたの?」


「その」とエドガーは口ごもると「こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、マリー様のお話になること、行動されることが、最近、私には理解できないのです。それに明らかに、以前よりも多くお酒をお呑みになります」


「うん、それは前にあなたから聞いたよ。義姉さんがおかしくなってきているって。それはどんな感じなんだろう。とにかく具体的に教えて欲しい」


「わかりました。マリー様はご自分の事を使用人だと思っておいでのようなのです」


「使用人?それは一体どういうことなんだい?」


 アルバートは車を停めた。


「それが、よく分かりません。ここ一年ほど前から、そのように言われ始め、使用人の仕事をされるのです。私たちは何度も止めて頂くように申し上げましたが、一向に聞き入れていただけないのです。それで私たち一同は困惑しているのです」


「そうか・・・・、ウィリアムはどうしてるの?」


「ウィリアム様も困惑されております。私どもも情けない話ですが、どうしたらいいか分からず。マリー様のなさるようにしてしまっているのです」


「仕方がなくということか」


「そうです」


「一体、なぜなんだろう。兄さんと父さんが亡くなった事が原因なのだろうか」


「わかりません」


「ドクターに相談したことはあるの?」


「ええ、ゲルツェンシュトゥーベ先生に相談した事はあるのですが、専門外で全く分からないということでした。それに、仮に他からお呼びしても、マリー様が診察されることを承諾されるかどうかということもありまして」


「なるほどそういう状況なんだね」


「ええ、そうなんです。おそらく、この後、マリー様はアルバート様を使用人として迎えると思います。そこで、アルバート様はマリー様にいきなりそのことを質問したり、驚いたりされないようにしていただきたいのです。もちろん、機を見てマリー様にその事をお話になることは問題ありません。でも、はじめは何事もないようにしていただきたいのです」


「もし、僕が驚いたり、問い詰めたりすると?」


「おそらく、全力でその事を否定なさるでしょう。あるいは、貝のように口を閉ざされてしまうかもしれません。もしかしたら、アルバート様を避けるようになられるかもしれません」


「建設的な話し合いになることはないと言う事か」


「そうです。おそらくは」


「その、もう一つ確認しておきたいんだが、義姉さんは僕の事は、僕だと分かるんだね」


「はい、それは別に問題はございません。失礼な言い方ですが、マリー様に知的な障害は何一つありません」


「なるほど、わかった。義姉さんのやりたいようにさせてあげればいいんだね」


「はい、そうしていただきたいのです」


 車は再び進みだし、石橋を渡り丘の上に向って、緩やかに旋廻して続く道を登っていった。すると車窓に広がる深い緑をたたえた大きなブナの木々の狭間に、徐々に館が見え隠れし、その姿がはっきりと把握できるようになってきた。車は最後の坂を登りきると、サッカー場くらいの、幾何学模様に刈り込まれた芝と生垣の庭園があらわれ、その真ん中を進み館の正面の車止めの石畳に静かに止まった。

 館は中央に大きな尖塔と植物をあしらった彫刻が賑やかで、見たものに明るい印象を与える建物である。館は薔薇石というこの地方特有の遠望すると、うすばら色に輝く(実際は白く)、高価な天然石を惜しげもなく使っている。伯爵家が裕福だった時代に建てられたものである。アルバートは子どもの頃と何一つ変わっていないと思った。

 

 車止めの前には背の高いブロンドの若い女性が立っていた。マリーだった。アルバートは車を降り義姉に対して、右手のひらを心臓に当ててお辞儀をする。この国の貴族の挨拶をした。アルバートはマリーに会うのずいぶん久しぶりであったが、なんとなく緊張感を感じた。マリーはやや慇懃な感じで、使用人のする深々とお辞儀をした。


「おかえりなさいませアルバート様」


 マリーはアルバートのトランクを持ち屋敷の中へといざなった。


 マリーは人目をひく女性だ。アルバートは出会った時からマリーを見るたびに思う。それから年月を経てもその印象は変わらない。その、均整のとれた体つき、整った目鼻立ちも驚く事の一つだが、加えて深いダークグリーンの瞳が神秘的であり、じっと何かを見つめる仕草は、物事を容易に看過しない観察眼のあることを暗示させ、同時にとても強い意志の持ち主であることを想像させた。マリーはワンピースにエプロンドレス、頭には緑色の線の入ったホワイトブリムといったメイドのいでたちだった。そして、右腕には伯爵家の紋章、刺繍のある腕章をはめていた。アルバートはその後姿を追いながら広間に入った。そして、エドガーの言っていた事を思い出した。確かにマリーはメイドの格好をしている。奇妙な事に。


 マリーに初めて会ったのは、ずいぶん子どもの時の事だった。兄との結婚式の時も、その後、幾度かタウンハウスで会ったときも今日のような感じではなかった。だが、これらの時のマリーはもっと何もかもが自由だったような感じがしたのだ。マリーがこの屋敷にやってくる事になったのは、彼女が父と親交のあった人の娘で、その人が亡くなり、屋敷に身を寄せる事になったからだった。その後、マリーは兄と恋仲になり、正式の手続きを経て結婚式を挙げた。マリーは平民出身だが、身分制度が崩壊の途上にある今では貴族との結婚は珍しい事ではない。 

 

 アルバートはマリーの中に心を病んだ人間にありがちな、ちぐはぐした暗さを見つけ出そうとした。しかし、マリーと視線を交わしたが、そこにはむしろ正気の、何か思いを感じられるものが含まれていた。アルバートは確かに変だが、さほど心配することはないのではと思った。

 

 アルバートは整えられた部屋と案内され、ここが自分の部屋になると言われた。


「アルバート様、長旅は大変お疲れになったことと思います。お食事は7時からでまだ間がございます。お休みになってお待ちください」とマリーは言った。


 アルバートは思い切って疑問をマリーに聞いてみることにした。


「義姉さん、ウィリアムはどうしていますか?私は彼に会うのは初めてなんです。もうずいぶんと大きくなったんでしょうね」


「ウィルは、ウィリアム様は元気です。あの」とマリーは言いかけると、何か真剣な目でアルバートを見つめた。アルバートは視線を交わすとそこには何かを伝えたいというメッセージがあるような気がした。マリーの濃緑の瞳にある感情、もちろんアルバートにはそれが分からないが、存在しているように思えた。


「義姉さん、どうかされましたか」とアルバート言った。

 

 するとマリーの目が幾分大きく見開かれて何かを言いかけたように見えた。


「あ、あの」


「義姉さんどうされました?」


「なんでもありません」

 

「そうですか、その義姉さんに質問があるんです。なぜ、義姉さんはメイドの格好をされているんでしょうか?」


 マリーはとても驚いた表情をすると、それは当然だと言うように。

 

「自分はこの屋敷の使用人ですから」と言った。

 

 アルバートはエドガーから事の仔細を聞いてはいたが、この言葉をマリーから聞くと今更ながら驚き、疑問が炭酸水の泡のように沸いてきた


「義姉さん、どうしてあなたがそう言われるのか分かりません。その理由か訳を聞かせていただけませんか?貴女は私にとって大切な家族だ。貴女からそんな事を言われるとどうしたらいいのか分からなくなってしまう」


 するとマリーの顔に困ったような、悲しいような極めて複雑な表情が浮かんだ。それからマリーは早口でこう言った。


「な、なんでもありません。その、私たちは、そうです。主人と使用人なんです」


「主人と使用人なんて、何を意味の分からない事を言うんですか?貴女は私の義理の姉ですよ」


「ちちち、違います。私は結婚なんてしていません。やめてくださいっ」とマリーは叫んだ。マリーはひどくうろたえていた。

 

 アルバートは驚いた。これは、もしかしたら、本当にこの人は心をやんでいるのかもしれない思った。そして、いずれにせよ、これ以上、彼女の心を刺激するのはまずいと言う事だ。マリーに対して、接し方を間違えたことを感じた。

 

「ええ、そのすみません。私は貴女の事情と言うものをよく知りません。だから、その、これからよく知るようにしたい。だから、貴女の気に触るような言い方をしたかもしれません」とアルバートはマリーに言った。


「そんなことは、そんなことはないです。すみません」とマリー言うと俯き逃げ出すように去っていった。

 

 マリーが部屋を出て行った後、アルバートは下唇を咬むと深くため息をついた。アルバートは悲しい気持ちになった。これから自分はマリーに対してどう接していけばいいのだろうかと思った。アルバートはしばらくそのことを考えてみたが、いい考えは浮かばなかった。アルバートはマリーの事をほとんど何も知らなかったのである。アルバートは乱れた気持ちのまましばらく座っていた。


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