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青いビー玉

作者: オラカマラ
掲載日:2026/05/26

※こちらはAIによって書かれた作品です。

あまりに内容が良すぎて涙してしまったので公開しました。

 午前四時二十二分、液晶タブレットの右上で時計が光っていた。


 数字は、進むたびに音を立てているように見えた。実際には部屋の中に聞こえるのは、ペン先が画面を擦る乾いた音と、卓上加湿器の弱い息だけだった。けれど三浦蓮には、時計の数字が一つ変わるたび、誰かが背中の骨を爪で弾いているように感じられた。


 六畳の仕事部屋は、紙を扱っていないのに紙の匂いがした。古いネームのコピー、資料用に買った雑誌、編集部から送られてきたコミックスの見本、途中まで食べたまま固くなった菓子パン。机の端には、コンビニのレシートが何枚も重なっている。どれも日付だけが違い、買っているものはほとんど同じだった。


 蓮は椅子の背にもたれ、右手を宙に浮かせた。指の第一関節が熱を持っている。ペンを握り直すと、小指の付け根から肘まで細い痛みが走った。


 画面の中では、主人公の少年が走っていた。ビルの屋上から屋上へ飛び移る場面だった。背景はまだ白く、少年の足元にあるはずの街も、吹き上げる風も、追手の影も、何も入っていない。


 電話が震えた。


 画面には担当編集の名前が出ていた。蓮は一度、震えるスマートフォンを見た。見なかったことにしてペンを動かした。電話は切れ、すぐにメッセージが入った。


《三浦さん、進捗だけでもください。午前中に入稿できないと今週号が飛びます》


 蓮は笑った。声は出なかった。喉の奥で空気だけがひっかかった。


 飛ぶのは今週号だけではない。穴を開ければ、次の連載会議で名前が出る。単行本の部数にも響く。アシスタントに払う金も、家賃も、母親に送る仕送りも、全部ひとつの線でつながっている。その線の先を、時計の針が少しずつ削っていた。


 蓮は左手で顔をこすった。頬に触れると、無精ひげが指に引っかかった。鏡を見たのは三日前が最後だった。


「時間を止めたいな」


 誰に向けた言葉でもなかった。だからこそ、部屋の中で妙にはっきり響いた。


 その直後、玄関のチャイムが鳴った。


 蓮はしばらく動かなかった。こんな時間に来る人間はいない。宅配便でもない。二度目のチャイムが鳴る。蓮は椅子から立ち上がり、膝に力が入らないことに気づいた。廊下に出ると、足の裏に乾いたカップ麺の欠片が当たった。


 ドアスコープを覗くと、そこに男が立っていた。


 黒いコートを着ていた。季節は六月で、外は蒸しているはずだった。男は背筋を伸ばして、片手に小さな革の鞄を持っている。年齢は分からない。四十代にも、六十代にも見えた。顔には笑みがあったが、目の周りだけは眠っているように静かだった。


 チェーンをかけたままドアを開けた。


「どちら様ですか」


「商いの者です」


 男はそう言って、軽く頭を下げた。


「この時間に?」


「この時間に呼ばれましたので」


「呼んでませんけど」


「時間を止めたい、と」


 蓮はチェーン越しに男の顔を見た。目を細めても、相手の表情は変わらない。


「聞こえたんですか」


「ええ。そういう声だけ聞く商いです」


 ドアを閉めるべきだった。蓮はそれを分かっていた。分かっていたが、徹夜明けの頭は、危険を危険として扱う力を失っていた。怪しい訪問者より、白いままの背景のほうがずっと怖かった。


 男は革の鞄を開けた。中から、布に包まれた小さな箱を取り出す。箱の蓋を開けると、ビー玉のようなものが一つ入っていた。


 透明ではない。深い青色だった。青の中に銀色の粒が浮かび、角度を変えると粒がゆっくり流れて見えた。小さな夜空を丸めて固めたようだった。


「これは何ですか」


「時間の玉です」


「ふざけてるなら警察呼びますよ」


「触れれば止まります。もう一度、素肌で触れれば動きます」


 男は箱を少しだけ傾けた。ビー玉は底で動かなかった。底に張りついているわけではない。ただ、そこにあるという事実が強すぎて、傾きなど関係ないように見えた。


「道具越しではだめです。布越しでも、手袋越しでも、爪の先でもだめです。皮膚です。指の腹でも、掌でも、額でも構いません。とにかく生きた皮膚が触れること」


 蓮は鼻で笑った。笑いながら、箱から目が離せなかった。


「代金は」


「いただきません」


「じゃあ詐欺じゃないですか」


「代金は必要ありません。使えば分かります。使った分だけ、あなたが支払いますから」


「寿命が縮むとか?」


「いいえ。外の時間は止まります。あなたの時間だけが進む。眠れば歳を取りますし、食べれば腹が満ちます。何かを読めば記憶に残ります。手を傷つければ血も出ます。あなたの体にとっては、普通の時間です」


 蓮は思わず自分の右手を見た。ペンだこが赤くなっている。


「外から見たら?」


「一瞬です」


「その間、空気は?」


「あなたの周囲だけ流れます。触れたものは、あなたの側に入る。ペンも、紙も、食べ物も、水も動かせます。ただし、触れていないものは止まったままです。止まった世界は、石のように硬い。車を押しても動きません。雨粒は空中に浮き、火は燃え広がらない」


「都合がよすぎません?」


「都合のいいものほど、扱いを間違えると戻れません」


 男は箱を蓮のほうへ差し出した。チェーンが邪魔だった。蓮は一度ドアを閉め、チェーンを外し、また開けた。


 それが最初の間違いだったのだと、後になって何度も思うことになる。


 箱を受け取ると、ビー玉は見た目より重かった。小さいのに、掌の中心に沈み込むような重さがあった。


「落としたらどうなるんですか」


「普通の玉と同じです。転がります」


「壊れたら?」


「壊れません」


「なくしたら?」


「時間が止まっている間になくしたなら、探す時間はあります」


 男はそこで初めて、少しだけ笑みを深くした。


「ただし、それを動かせるのは、あなたの皮膚だけです。棒で寄せることも、布で包むことも、磁石で引くこともできません。道具が触れても、玉は世界の側に縫いつけられたままです。あなたが触れた瞬間だけ、玉はあなたの側に戻り、同時に世界を動かします」


「それ、危なくないですか」


「危ないものを求めたのは、あなたです」


 蓮は箱を閉じた。男はもう用が済んだというように、軽く会釈をした。


「使い方はそれだけです。お返しになる場合は、もう一度心から願ってください。ただ、返したいと思う頃には、たいてい遅い」


 廊下の蛍光灯が一度だけ瞬いた。


 次に蓮がまばたきをしたとき、男はいなかった。


 玄関の外には、湿った夜明け前の空気だけが残っていた。


 蓮はドアを閉め、鍵をかけた。仕事部屋に戻る途中で、ばかばかしいと思った。疲れている。幻覚かもしれない。三日まともに寝ていないのだから、黒いコートの商人ぐらい見ることもあるだろう。


 机に戻り、箱を開けた。


 青いビー玉はまだそこにあった。


 蓮は人差し指で触れた。


 音が消えた。


 最初に分かったのは、加湿器だった。さっきまで小さく震えていた白い煙が、吐き出された形のまま空中で止まっている。煙の先端は花びらのように開き、そこから一ミリも広がらなかった。


 次に、窓の外だった。向かいのマンションのベランダで、洗濯物が風を受けて斜めになっている。その斜めのまま、動かない。遠くの道路に見えるタクシーのヘッドライトも、白い線になって止まっている。


 蓮は椅子から立ち上がった。自分の足音だけが部屋に鳴った。胸の鼓動が大きい。喉が乾いている。机の上のペンに触れると、ペンは普通に持ち上がった。タブレットに触れると、画面は反応した。時計の数字は四時二十二分のままだった。


 蓮は、背景を描いた。


 一時間描いた。二時間描いた。途中でインスタントコーヒーを淹れようとして、電気ケトルが動かないことに気づいた。コンセントに触れ、ケトルに触れ、水道の蛇口に触れる。触れたものだけが、こちら側に来る。水は蛇口から出たが、触れていない水滴は空中で止まった。蓮はそれを面白がる余裕もなく、コーヒーを飲んで席に戻った。


 朝が来なかった。


 窓の外はずっと夜明け前の色をしている。スマートフォンの通信は止まっている。外部のサーバーは時間の向こう側にあるらしく、メッセージは送れない。それでも作画アプリは動いた。保存もできた。蓮は線を引き、消し、ベタを入れ、効果線を足した。


 右手が痛くなれば休んだ。床に寝転がって、三十分だけ眠った。起きても時計は四時二十二分だった。


 十二時間後、原稿は完成した。


 蓮は青い玉を掌に置いた。触れるのを少しだけためらった。止まった世界は静かだった。誰からも催促されない。通知も来ない。朝も来ない。締切も近づかない。


 けれど、原稿を送らなければならない。


 蓮は玉に触れた。


 加湿器の煙がふっと流れた。外のタクシーが交差点を曲がった。スマートフォンが震え、担当編集からの着信が再開した。


 時計は四時二十二分から、四時二十三分になっただけだった。


 蓮は通話ボタンを押した。


「できました」


 担当は数秒黙った。怒鳴られると思っていた。だが、電話の向こうから聞こえたのは、深く息を吐く音だった。


「本当ですか」


「はい。今、送ります」


「三浦さん、ほんとに、体だけは気をつけてくださいね」


 蓮は画面上の完成原稿を見た。自分の線ではないように整っていた。背景は細かく、人物の顔には疲れがない。


「大丈夫です」


 そう答えたとき、蓮は初めて、時間を手に入れた人間の声をしていた。


 それから、蓮の生活は変わった。


 締切前に慌てることはなくなった。担当から進捗確認が来るたび、蓮は短く返事をして、玉に触れた。止まった世界で一日、二日、ときには三日を過ごし、原稿を仕上げる。動き出した世界では、数分しか経っていない。


 アシスタントには、最近筆が早くなったと言われた。編集部では、三浦は何か掴んだらしいという話になった。読者アンケートも上がった。以前なら締切に追われて白く飛ばしていたコマに、背景が入る。表情に一手間かかる。構成の直しもできる。蓮は、時間があれば自分はもっと描ける人間だったのだと知った。


 同時に、時間があれば人は仕事だけをするわけではないとも知った。


 最初は睡眠だった。玉に触れて、ベッドに入る。外の世界では一秒も経っていない。徹夜明けに八時間眠り、目覚めてまた一秒後の電話に出る。こんな贅沢があるのかと思った。


 次に、読書だった。買ったまま積んでいた本を読み、映画を観た。配信は動かないが、ダウンロード済みのものなら観られる。止まった夜の部屋で、蓮は昔好きだった映画を何本も観た。登場人物が時間に追われて苦しむ場面で、少し笑った。


 外にも出た。


 止まった街は、初めのうちは恐ろしかった。コンビニの自動ドアは触れれば開いた。店員はレジの前でまばたきの途中の顔をしている。客は弁当の棚の前で箸を取ろうとして固まっていた。蓮は棚から弁当を取り、レジに代金を置いた。釣り銭を触ると小銭だけがこちら側に落ちた。面倒になって、多めに置くようになった。


 雨の日は美しかった。


 無数の雨粒が、街灯の光の中で止まっていた。蓮は傘を差さずに歩いた。顔に当たるはずの雨は、皮膚に触れた瞬間だけ水に戻り、頬を伝った。指で空中の雨粒をつつくと、小さな球が割れて手の甲に広がった。


 彼は、止まった世界の中でだけ開いている喫茶店を勝手に作った。駅前の店に入り、カウンターの端に座る。コーヒーマシンを動かすには手順が必要だったが、何度か試すうちに慣れた。外の時間では客も店員も同じ姿勢のままだから、蓮は誰にも気兼ねせず、窓際の席でネームを切った。


 ある夜、蓮は映画館に入った。上映中のスクリーンは止まっている。暗闇の中で、観客たちは同じ顔で画面を見ていた。蓮は非常灯の明かりだけを頼りに通路を歩き、最前列に座った。触れなければ映写機も音響も動かない。映画は進まない。それでも、巨大な画面に映った俳優の横顔を見上げていると、自分が世界の裏側に座っているような気がした。


 そういう時間が増えた。


 締切に勝つための道具だったものは、いつの間にか、人生の余白を増やす道具になっていた。


 蓮は止まった世界で料理を覚えた。深夜のスーパーで材料を買い、部屋に戻って煮込みを作る。魚をさばく動画は止まってしまうので、あらかじめ保存した動画を何度も見た。包丁で指を切ったとき、血が普通に出た。痛みも普通だった。玉を触って世界を動かし、救急病院に行く必要はなかった。絆創膏を巻き、自分の血が止まるまで待った。


 そして、蓮は少しずつ老けた。


 外の世界では一年が経った。蓮の体には、おそらく三年分ほどの時間が積もっていた。正確には数えていない。途中から数えるのが嫌になった。担当編集が「最近、落ち着きましたね」と言った。アシスタントの一人は「先生、白髪増えました?」と笑った。蓮も笑い返した。


 仕事は順調だった。連載は看板作品になり、単行本は重版された。母親への仕送りも増やせた。担当は、三浦先生は締切を守る作家だと周囲に言った。


 その言葉を聞くたび、蓮の中で何かが小さく沈んだ。


 守っているのではない。逃げているだけだった。時間の流れから逃げ、その外側で帳尻を合わせている。誰も知らない余分な時間を削って、通常の世界に間に合う顔をして戻っている。


 だが、戻れば拍手があった。評価があった。金が入った。だから蓮は、沈んだものを見ないようにした。


 ある日、担当が変わった。


 新しい担当の春野は、蓮より三つ年下の女性だった。最初の打ち合わせで、彼女は分厚いノートを開き、作品の気になる点を細かく挙げた。


「三浦先生は、時間の使い方が上手い方なんだと思います」


 喫茶店の窓際で、春野はそう言った。


 蓮はコーヒーを飲む手を止めた。


「どういう意味ですか」


「連載作家って、どうしても回が進むと省略が増えるじゃないですか。でも先生の絵は、むしろ細部が増えてるんです。普通は削るところを削らずに、でも読み味は重くならない。時間をかける場所を選べてる感じがします」


 彼女は悪意なく言った。蓮は曖昧に笑った。


「時間は、いつも足りないですよ」


「それでも、足りないなりに何を残すかですよね」


 その言葉は、蓮の胸の中にしばらく残った。


 春野はよく笑う人間ではなかった。必要なところでだけ笑い、必要なところでだけ厳しいことを言った。蓮が玉を使って締切を守っていることなど知るはずもないのに、ときどき彼女の言葉は、止まった世界の薄暗い部屋にまで入ってきた。


 蓮はある夜、止まった街で春野を見かけた。


 駅の改札前だった。世界は止まっている。人々は帰宅途中の姿勢のまま固まっている。その中で春野は、鞄を肩にかけ、スマートフォンを見ながら歩いていた。画面には、おそらく編集部からの連絡が表示されていた。彼女の眉間には、細い皺が寄っていた。


 蓮はしばらく立ち止まった。


 触れれば彼女もこちら側に来るのだろうか。男は、触れたものはあなたの側に入ると言った。人間はどうなるのか。試したことはない。試すつもりもなかった。


 彼女の横を通り過ぎるとき、蓮はスマートフォンの画面を見てしまった。


《三浦先生の次回プロット、できれば明日朝までに確認したいです》


 送信者は編集長だった。


 春野は蓮を急かしていなかった。その代わり、自分が急かされていた。


 蓮はその夜、止まった世界でネームを切った。普段より早く、普段より丁寧に。動き出した世界で送ると、春野からすぐに返信が来た。


《ありがとうございます。本当に助かります》


 画面を見ながら、蓮は初めて、玉を使って誰かを助けたような気がした。


 その感覚は危険だった。


 以後、蓮は仕事以外にも玉を使うようになった。駅の階段で転びかけた老人を支える。道路に飛び出した子どもの前で時間を止め、子どもの体を歩道へ運ぶ。火にかけた鍋を忘れて外出した隣人の部屋に入り、コンロを止める。もちろん、すべてが終わったあと、世界は何も知らないまま動き出す。子どもは自分がなぜ歩道にいるのか分からず泣き、母親はそれを抱きしめた。老人は不思議そうに手すりを握り直した。


 蓮はヒーロー漫画を描いていた。だが止まった世界の中で行う救助は、漫画のような爽快さから遠かった。誰にも見られない。感謝もされない。何が起こったかさえ、誰も知らない。


 それでも、悪くはなかった。


 ある晩、蓮は久しぶりに酒を飲んだ。外の世界で一杯、止まった世界で三杯飲んだ。酔いは普通に回った。玉を持って夜の街を歩くと、信号待ちの人々が映画のエキストラのように並んでいた。蓮はその中を抜け、橋の上に立った。


 川面は黒く、街灯の光だけが動かずに刺さっていた。


 蓮はポケットから玉を出した。青い中の銀の粒が、ゆっくり流れている。世界が止まっていても、玉の中だけは動いているようだった。


「返したいと思う頃には、たいてい遅い」


 商人の言葉を思い出した。


 蓮は笑った。


「まだ遅くないだろ」


 誰も答えなかった。


 その頃から、蓮は玉を持たずに外へ出ることができなくなっていた。


 財布より先に確認する。スマートフォンより先に確認する。玄関を出る前、駅の改札を通る前、仕事場に入る前。青い重みがポケットにあることを確かめると、ようやく息ができた。


 逆に、それがない場面を想像すると胸が詰まった。


 電車が遅れる。原稿が間に合わない。誰かが倒れる。火事になる。地震が来る。自分の手元から何かがこぼれる。普通の人間が普通に受け入れている不測の事態が、蓮には受け入れがたいものになっていた。


 時間は、足りないから怖いのではなかった。


 自分の思い通りに止まらないから怖いのだと、蓮は知ってしまった。


 連載五周年の記念企画で、蓮は出版社の近くのスタジオに呼ばれた。読者向けのインタビュー動画を撮るという。春野が段取りを組み、蓮は眠そうな顔を隠すために少しだけ髪を整えて行った。


 撮影は長引いた。


 同じ質問に何度も答え直し、サイン色紙に絵を描き、最後に次巻の宣伝コメントを撮った。春野はずっと立ったまま進行を見ていた。蓮が休憩中に「座ったらどうですか」と言うと、彼女は紙コップのコーヒーを持ったまま笑った。


「時間が押してるので」


 その言い方があまりに普通で、蓮は返事に詰まった。


 時間が押す。


 昔の自分は、その言葉の中で生きていた。今は違う。押してくる時間の外側に避難できる。押されている人間の横顔を、少し離れた場所から眺めている。


 撮影が終わったのは夕方だった。春野は編集部に戻ると言い、蓮も近くの仕事場に戻ることにした。外は小雨が降っていた。ビルの谷間を風が抜け、傘を差す人々の肩を濡らしていた。


 横断歩道の信号が青に変わった。


 蓮は春野と並んで歩き出した。彼女は鞄から資料を出し、次の打ち合わせの確認をしていた。


「先生、次回のカラー扉なんですけど、主人公ひとりより、敵役も入れたほうがいいかもしれません。五周年ですし、少し賑やかに」


「分かりました。構図、今日中に出します」


「今日中じゃなくて大丈夫です。明日の昼で」


「いや、今日中に」


 春野が顔を上げ、少しだけ眉を寄せた。


「無理しなくていいです」


 蓮は言いかけた。無理ではない、と。時間はいくらでもある、と。


 そのとき、左からクラクションが鳴った。


 音は長く、濁っていた。


 蓮が顔を向けると、交差点に大型トラックが斜めに入ってきていた。雨に濡れた路面で後輪が滑り、荷台が横に振られている。信号無視というより、止まれなかったのだろう。運転席の男の顔が、フロントガラス越しに歪んで見えた。


 春野の腕が蓮の袖に触れた。


 周囲の人々が一斉に動き出す。誰かが叫んだ。傘が飛んだ。春野は資料を落とし、後ろへ下がろうとした。蓮は彼女の肩を掴んだ。


 考えるより先に、右手がポケットに入った。


 青い玉に触れた。


 世界が止まった。


 雨粒が宙に並んだ。クラクションも、悲鳴も、タイヤの水しぶきも、全部一枚の絵の中に閉じ込められた。


 大型トラックの前部は、蓮たちのすぐ左に迫っていた。フロントバンパーと春野の体のあいだは、三十センチもない。荷台は斜めになり、後輪の片側が少し浮いている。水しぶきが扇の形で止まっていた。


 蓮は春野の肩を押し、歩道のほうへ運んだ。人間の体は重い。止まっている人間を動かすとき、相手の筋肉は抵抗しないが、重さは消えない。蓮は雨に濡れた路面で足を滑らせながら、彼女を安全な場所まで引きずった。


 それだけなら、いつもの救助で終わったはずだった。


 だが蓮は、焦っていた。


 玉を握っていた右手が、春野のコートのボタンに引っかかった。青い玉が掌からこぼれた。蓮は反射的に掴もうとした。指先が玉の表面をかすめた。


 その一瞬で、玉は彼の側から離れた。


 青い点は濡れた横断歩道を跳ね、停止した水しぶきの隙間を抜け、トラックの下へ転がった。


 蓮は膝をついて追いかけた。


 玉はトラックの後輪のあいだで止まっていた。


 大型トラックの後輪は左右に二本ずつ並ぶ複輪だった。その内側、二つのタイヤの狭い谷間の奥、金属のホイールと濡れたゴムの陰に、青い玉が挟まっていた。路面の小さなへこみに落ち、タイヤの側面に半分押さえられている。外から見えるのは、青い曲面の一部だけだった。


 蓮は息を止めた。


 手を伸ばした。届かない。体を低くし、腕を差し込もうとした。肘がタイヤに当たる。肩まで入れなければ、指先は玉に触れない。


 トラックは斜めに滑っている途中で止まっている。時間が動けば、浮いた後輪が路面を噛み、車体はさらに横へ流れる。蓮が腕を入れている場所は、タイヤが一回転もせずに潰す位置だった。腕だけでは済まない。肩を入れた時点で、体の半分が車体の下に入る。玉に触れた瞬間、世界は動く。トラックは質量と速度を取り戻す。


 蓮は四つん這いのまま、しばらく動けなかった。


 ほうきで、と思った。


 近くのコンビニに行けば掃除用具がある。工事現場から棒を持ってきてもいい。工具だって探せばある。時間は止まっている。探す時間はいくらでもある。


 蓮は実際に探した。


 コンビニのバックヤードからモップを持ってきた。ビニール傘の骨を折って細い棒を作った。道路脇の工事車両から長い金属の定規のようなものを持ち出した。全部、試した。


 道具の先が玉に当たるたび、手応えはなかった。


 玉は動かなかった。押しても、弾いても、引っかけようとしても、そこに縫いつけられているように動かない。商人の声が蘇る。


 道具が触れても、玉は世界の側に縫いつけられたままです。


 蓮は舌打ちをした。金属の棒でタイヤの側面を叩いた。鈍い音がして、手首に衝撃だけが返ってきた。止まった世界のトラックは、車両というより巨大な岩だった。蓮ひとりの力で持ち上げることも、押し戻すこともできない。ジャッキを探して差し込もうとしたが、車体の姿勢が悪すぎた。ジャッキを当てる場所まで、蓮の腕が入らない。入ったとしても、動かすには玉のある側に体を潜らせる必要があった。


 彼は雨の中を走った。


 ホームセンターまで行った。電動カッター、バール、ロープ、手袋、ライト。必要そうなものを抱えて戻った。止まった世界では信号も車も動かないから、走り続ければどこへでも行ける。だが戻るたび、青い玉は同じ場所で光っていた。


 タイヤは切れなかった。


 電動工具は動いた。蓮が触れ、バッテリーに触れ、刃に触れれば、こちら側に来る。しかし刃がタイヤに食い込んだ瞬間、タイヤの外側だけがわずかに削れ、奥へ進まなくなる。止まった世界の物体は、触れた部分だけがかろうじて動く。車体の重み、タイヤの内部、路面との圧力、そのすべては外の時間に属している。蓮は表面を傷つけることはできても、玉を押さえている巨大な圧力そのものをほどくことはできなかった。


 夜が来ない交差点で、蓮は何時間も試した。


 汗と雨で服が肌に張りついた。喉が渇くと、近くの自販機を開けて水を飲んだ。腹が減ると、コンビニの棚からパンを取った。代金をレジに置く癖だけは残っていた。誰も見ていないのに、盗むことだけはしたくなかった。


 春野は歩道の端で止まっている。蓮が運んだ姿勢のまま、片足を少し浮かせ、驚いた顔をしていた。落とした資料は横断歩道の上に散らばっている。雨粒が紙の上で止まっているから、まだ濡れきってはいない。


 蓮は彼女の横に座った。


「助けたつもりだったんですけどね」


 春野は何も答えない。


 止まった人間に話しかけることは、これまでにもあった。老人にも、子どもにも、店員にも。だが、返事がないことをこんなに重く感じたのは初めてだった。


 蓮はポケットを探った。玉はない。分かっているのに何度も探した。右のポケット、左のポケット、上着の内側、鞄の中。ない。


 世界を動かすには、玉に触れるしかない。


 触れるには、トラックの下に潜るしかない。


 潜って触れた瞬間、トラックは動く。


 単純な話だった。


 蓮は交差点の中央に戻り、もう一度トラックの下を覗いた。青い曲面は、タイヤの陰で小さく光っている。腕を伸ばせば、あと二十センチ。肩まで入れれば、指が届くかもしれない。だが肩まで入れた体を、玉に触れたあとで引き抜く時間はない。止まっていたトラックは、止まる前の速度をそのまま持っている。雨の路面で滑り、横に振られた荷台は、蓮の体を見逃さない。


 蓮はその場に座り込んだ。


 時間は止まっている。誰も来ない。救急車も、警察も、春野の声も、担当からの電話も、何も進まない。彼が決めるまで、この交差点はずっとこのままだ。


 死ぬか。


 それとも、このまま生きるか。


 生きる、という言葉が正しいのか分からなかった。止まった世界で食べ物はある。水もある。眠る場所もある。漫画だって描ける。店の棚にあるものを取り、誰もいない街で暮らすことはできる。外の世界では一秒も経たない。母は老いない。春野も、担当も、読者も、誰も蓮が消えたことに気づかない。


 だがそれは、誰にも届かない人生だった。


 蓮は仕事場に戻った。


 戻れることが腹立たしかった。交差点から仕事場まで、止まった街を歩けば十五分だった。机の上には、次回のネームが置いてある。タブレットを起動すると、最後に描いた主人公の顔が出てきた。少年は前を向いていた。


 蓮は椅子に座った。


 描こうと思えば描けた。


 世界が止まったままでも、作品を作ることはできる。完成原稿を山ほど用意しておけば、いつか玉に触れて死ぬとしても、その瞬間にデータが残るかもしれない。外の世界が動き出したあと、誰かが見つけてくれるかもしれない。


 蓮はペンを握った。


 線は震えた。


 主人公の目を描こうとして、春野の止まった目を思い出した。道路に散らばった資料を思い出した。タイヤの陰の青い光を思い出した。


 描けなかった。


 時間はいくらでもあるのに、描けなかった。


 そのことが、蓮には何より恐ろしかった。


 玉を手に入れた日、彼は時間さえあれば描けると思った。時間が足りないから苦しいのだと信じていた。確かに、時間は多くのものを救った。原稿も、睡眠も、生活も、他人の命さえ、いくつか救った。


 だが、時間だけでは絵は進まない。


 誰かに届くという予感がなければ、線はただの傷だった。


 蓮は机の上に突っ伏した。眠った。


 目が覚めても、時計は撮影の日の夕方を指していた。外は雨粒を空中に並べたままだった。


 それから、蓮は何日も止まった世界を歩いた。


 正確な日数は分からない。部屋のカレンダーに印をつけようとしたが、三日でやめた。外のカレンダーは動かない。印だけが増えていくのを見ると、自分だけが紙の上で腐っていくようだった。


 彼は街のあちこちに行った。


 母の住む郊外の家にも行った。電車は動かないので、線路沿いを歩き、途中で自転車を借りた。母は台所で味噌汁をよそっている途中だった。鍋から立ち上る湯気が白い柱のように止まっている。母の髪には、蓮が最後に会ったときより白いものが増えていた。外の世界では数ヶ月しか経っていないはずなのに、蓮にはその数ヶ月が長かった。


 母の前に座って、蓮はしばらく何も言わなかった。


 テーブルの上に、蓮の漫画の単行本が置いてあった。帯は少し擦れている。何度も読んだのか、表紙の端が柔らかくなっていた。


「俺、たぶん戻れないかもしれない」


 母は味噌汁をよそる手を止めたまま、こちらを見ていない。


「でも、戻らないと、誰も先に行けないんだよな」


 言葉にして、蓮は自分で驚いた。


 自分が死ぬのが怖いのだと思っていた。もちろん怖い。トラックの下で体が潰れる想像をすると、胃が縮む。指先が冷たくなる。だが、それだけではなかった。


 彼が戻らない限り、春野はあの驚いた顔のまま、母は味噌汁をよそう途中のまま、担当は返信を待つ途中のまま、街の人々は雨粒の中に閉じ込められたままだ。


 蓮だけが時間に閉じ込められているのではない。


 蓮が世界を閉じ込めている。


 仕事場に戻ると、蓮は一枚の原稿を描いた。


 連載の原稿ではなかった。短い漫画だった。タイトルもない。時計に追われる漫画家が、時間を止める玉を手に入れる話。玉で成功し、眠り、遊び、人を助け、最後に玉を取り戻すには死ぬしかない場所へ落としてしまう話。


 蓮は、自分の話を描いた。


 ただし、結末は最後まで描かなかった。


 主人公がトラックの下を覗き込み、青い玉を見つめるコマで止めた。白い余白を残した。そこに台詞を入れるべきか迷ったが、入れなかった。読者に委ねるためではない。自分がまだ決めていなかったからだ。


 描き終えると、蓮はそれをプリントした。コンビニのコピー機を動かすのに苦労したが、何度も試して印刷した。紙の束を春野の鞄に入れた。彼女が世界の動き出したあとに気づくかどうかは分からない。雨に濡れるかもしれない。誰かに踏まれるかもしれない。それでも、何かを残したかった。


 そのあと、蓮は商人を呼んだ。


 交差点の端に立ち、心から願った。


 返したい。


 何度も願った。


 黒いコートの男は現れなかった。


 返したいと思う頃には、たいてい遅い。


 蓮は笑った。今度は声が出た。


「ほんとに商売が下手だな」


 空中で止まった雨粒が、街灯の光を小さく反射していた。


 蓮は、春野のところへ行った。


 彼女の靴は歩道の白線の上にあった。片手は胸の前に上がり、もう片方の手は何かを掴もうとしている。たぶん、蓮の袖だった。


 蓮は彼女の足元に散らばった資料を集めた。濡れないように、鞄の中へ戻した。自分の描いた短い漫画も、その上に置いた。


「すみません」


 止まった彼女に向かって、蓮は頭を下げた。


「先生って呼ばれるほど、ちゃんとしてなかったです」


 返事はない。


「時間があれば何とかなるって、ずっと思ってました。でも、たぶん違いました。時間をどう使うかって、誰と同じ時間にいるかってことだったんですね」


 言ってから、少し陳腐だと思った。自分の漫画なら削る台詞だ。春野なら赤字を入れるかもしれない。


 蓮は笑った。


「今のは、なしで」


 彼は交差点の中央へ戻った。


 大型トラックは雨粒と水しぶきの中で、巨大な獣のように止まっている。後輪の谷間には、青い玉が見えた。何度見ても、位置は変わらない。


 蓮は地面に膝をついた。


 怖かった。


 何度も試したから、どこまで体を入れれば届くかは分かっている。左肩を路面につけ、右腕をタイヤのあいだに差し込む。胸を少しひねり、頬を濡れた白線につける。そこで指を伸ばせば、中指の腹が玉に届く。


 届いた瞬間、世界は動く。


 タイヤは回り、車体は横へ流れ、蓮の体は逃げられない。


 それでも、触れなければ何も進まない。


 蓮は一度だけ、空を見た。雨粒が暗い天井に貼りついている。止まった雨の向こうに、夕方のビルの窓が並んでいた。その窓の一つ一つに、人の生活がある。誰かが帰り、誰かが待ち、誰かが焦り、誰かが間に合わないと言っている。


 時間は、蓮の敵ではなかった。


 敵だと思っていたものの中で、みんな生きていただけだった。


 蓮は体を倒した。


 路面は冷たかった。雨粒に触れた頬だけが濡れた。右腕を差し込む。タイヤのゴムが肩に当たる。息が浅くなる。肘をもう少し奥へ入れると、胸の骨が車体の下の金属に触れた。


 指先が青い光に近づいた。


 あと少し。


 蓮は目を閉じなかった。


 最後に見たかった。自分が何に触れるのかを。


 中指の腹が、冷たい球面に触れた。


 音が戻った。


 最初にクラクションが来た。次に悲鳴。タイヤが水を裂く音。トラックの荷台が軋む音。雨が一斉に落ちる音。


 蓮の体に、強い衝撃が走った。


 青い玉は、彼の指先から弾けるように離れ、雨の中で一度だけ光った。


 春野は歩道の上で尻もちをついた。


 目の前を大型トラックが横滑りし、街路樹にぶつかって止まった。金属の潰れる音が交差点に響いた。人々が叫び、何人かが走り寄った。春野は自分の体を見下ろした。怪我はない。なぜ自分がここにいるのか、分からなかった。


 数メートル先の横断歩道に、男が倒れていた。


 春野はすぐに立ち上がろうとして、足がもつれた。手をついた場所に、自分の鞄があった。中から紙の束が半分ほど出ている。見慣れた線だった。


 三浦蓮の線。


 彼女は紙を掴んだ。


 雨が降っていた。インクが滲む。表紙はない。一ページ目には、疲れた顔の漫画家が机に向かっている。時計の針が大きく描かれている。


 春野は叫ぶ人々の間で、その紙を胸に抱えた。


 救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。


 蓮は、道路の上で仰向けになっていた。


 雨が顔に当たる。止まらずに落ちてくる雨だった。ひと粒ずつではなく、無数の水が無数の速度で降っていた。痛いほど普通の雨だった。


 視界の端で、春野がこちらへ来ようとしているのが見えた。誰かに止められている。口が動いている。何を言っているのか、蓮には分からなかった。


 音が遠くなっていく。


 蓮は右手を少し動かそうとした。動かなかった。指先に、まだ青い球の冷たさが残っている気がした。


 空を見た。


 雲は流れていた。


 その遅さに、蓮は安心した。


 時間は、ちゃんと進んでいる。


 そう思ったところで、彼の意識は静かに途切れた。


 春野が三浦蓮の最後の原稿を読んだのは、事故から三日後だった。


 病院の廊下ではなく、編集部の小さな会議室だった。蓮は搬送先で死亡が確認された。大型トラックの運転手は重傷だったが、命は助かった。横断歩道にいた通行人に死者は出なかった。春野も軽い打撲だけで済んだ。


 なぜ三浦がトラックの下にいたのか、誰にも分からなかった。


 監視カメラには、不自然な映像が残っていた。春野と三浦が横断歩道を歩いている。トラックが突っ込む。次の瞬間、春野は歩道の端に移動しており、三浦はトラックの後輪近くに倒れている。映像に乱れはない。編集された形跡もない。ただ、その間の動きだけが存在しなかった。


 警察は機械の不具合を疑った。専門家も呼ばれた。結局、雨と電波障害の影響かもしれない、という曖昧な言葉で処理された。


 春野は、鞄に入っていた紙束を誰にも見せなかった。


 会議室で一人、ページをめくった。


 漫画家が時間を止める玉を手に入れる。締切を守り、成功し、眠り、遊び、人を助ける。やがて玉を手放せなくなる。最後に事故が起き、玉はトラックの後輪の奥へ落ちる。道具では動かせない。触れれば時間は動き出し、主人公は助からない。


 最後のページで、主人公はトラックの下を覗いていた。


 結末はなかった。


 白い余白だけが残っていた。


 春野はその余白を見続けた。涙は出なかった。出そうになるたび、彼女は唇を噛んだ。泣いてしまえば、分かったような気になってしまう。三浦が何をしたのか、なぜ自分が助かったのか、本当のところは何も分からない。


 ただ、彼が最後にこの漫画を自分の鞄へ入れたことだけは分かる。


 春野はページを閉じた。


 会議室の壁の時計が、午後八時を少し過ぎたところを指していた。秒針が音を立てて進んでいる。その音が、以前より大きく聞こえた。


 後日、三浦蓮の未発表短編は、追悼号に掲載された。


 春野は結末を足さなかった。編集長からは、読者が戸惑うのではないかと言われた。せめて最後に一行、作者のメッセージを載せてはどうかとも言われた。


 春野は首を横に振った。


「ここで終わっているんです」


「でも、これは未完成だろう」


「未完成ではありません。ここで、読者の時間に戻ってくるんです」


 言ってから、自分でも少し説明しすぎたと思った。三浦なら笑ったかもしれない。春野は原稿の束を胸に抱え直した。


 掲載された短編は、賛否が分かれた。


 何が起きたのか分からない、という声が多かった。怖い、という声もあった。結末を描いてほしかったという読者もいた。一方で、最後の白い余白から目が離せなかったという感想も届いた。


 春野はそれらをすべて読んだ。


 ある読者が、短い感想を送ってきた。


《時間って、締切じゃなくて、誰かと同じ場所に戻るためにあるんだと思いました》


 春野はその文章を何度も読み返した。


 夜、編集部の窓の外では、車のライトが絶えず流れていた。信号が変わり、人が歩き、雨の日には傘が開く。どれも止まらない。止められない。


 春野は机の引き出しを開けた。


 そこには、事故の日に拾った小さなものが入っていた。


 青いビー玉ではない。


 割れたトラックの反射板の欠片だった。事故現場で、彼女の靴のそばに落ちていた。なぜ持ち帰ったのか、自分でも分からない。赤いプラスチックの欠片は、光にかざすと少しだけ透明だった。


 彼女はそれを掌にのせた。


 もちろん、何も起こらない。


 時計の秒針は進み続けている。


 春野は引き出しを閉め、三浦蓮の次巻の校了紙に目を落とした。彼が残した連載は、あと数話分だけ完成していた。止まった時間の中で描かれたのかどうか、彼女には分からない。


 ただ、線は最後まで丁寧だった。


 急いでいる人間の線ではなかった。


 それを見ていると、春野は不思議と背筋を伸ばしたくなった。


 締切は明日の午前中だった。


 時間は足りない。


 それでも、彼女は時計を止めたいとは思わなかった。


 足りない時間の中で、誰かが残したものを、次の誰かへ渡す。それが自分の仕事なのだと思った。


 窓の外で、信号が青に変わった。


 人々が一斉に歩き出す。


 春野は赤字用のペンを取り、校了紙の一ページ目を開いた。


 秒針の音は、もううるさくなかった。


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