第八話 ぶつかる日
この章は、雫と母が初めて正面からぶつかる場面です。
家族だからこそ、言えないことがあり、
家族だからこそ、言ってしまうこともあります。
雫はまだ、自分の気持ちをうまく言葉にできません。
母もまた、心配が先に立ってしまい、
やさしさが少し強い形で出てしまう。
すれ違いは痛いものですが、
それでも“灯りのある家”では、
ぶつかったあとに戻れる場所があります。
そんな、家族の揺れと温度を描いた章です。
第八話 ぶつかる日
数日後の夕方、家の中の空気が少しだけ重かった。
母は台所で夕飯の支度をしながら、何度か雫に話しかけた。
洗濯物を取り込んで、味噌汁の味を見て、冷蔵庫の残りを確認しているうちに、母は何気ない
ように言った。
「雫、最近少し元気になってきたなら、来月のことも少し考えようか」
雫は新聞を読んでいた手を止めた。
「来月?」
「うん。学校のことでも、その先のことでも。ゆっくりでいいけど、ずっと曖昧なままも落ち
着かないでしょう」
母はやさしく言ったつもりだったのだろう。
でも、その言葉は雫の胸の奥に引っかかった。
「またそういう話……」
「またって、避けてばかりもいられないでしょ」
「避けてるわけじゃないよ」
思ったより強い声が出た。
母も少し驚いた顔をした。
「じゃあ、どうして何も言わないの」
「何も言えないからだよ」
台所の音が止まった。
母と雫のあいだに、ぴんと張った糸のような沈黙が落ちる。
雫は立ち上がった。
「ちゃんとしなきゃって分かってるよ。でも、今はまだ、うまく考えられないの」
「私は責めてるんじゃないのよ」
「分かってる。でも、急かされると、余計に分からなくなる」
言ってから、雫は自分の息が少し荒いことに気づいた。
母は何か言い返そうとして、やめた。
その顔が少し傷ついて見えて、雫はたまらなくなった。
「ごめん、ちょっと外行ってくる」
返事を待たずに、雫は家を出た。
外は、まだ明るさが残っていた。
けれど心の中は、さっきまでの静けさが嘘のようにざわついている。
角まで歩いて、雫は立ち止まった。
怒っているのか、泣きたいのか、自分でも分からない。
ただ、母の顔が頭から離れなかった。
帰ると、台所の灯りはまだついていた。
居間のテーブルには、切ったりんごが皿に盛られていた。
上に小さな紙がのっている。
先に食べてて。私も言い方、よくなかった。
雫は紙を見たまま、しばらく動けなかった。
やがて母が台所から出てきた。
目が合うと、母は少しだけ困ったように笑った。
「怒ってる?」
雫は首を振った。
「怒ってるっていうか……しんどかった」
「うん」
母は向かいに座った。
「私、心配になると、つい“ちゃんとした話”を先にしてしまうのよね」
雫はりんごを一切れつまみながら言った。
「私は、ちゃんとした話より、分かろうとしてくれるほうがうれしい」
母はその言葉を、ゆっくり受け止めるようにうなずいた。
「そうだね。ごめん」
それは素直な謝り方だった。
雫も、少しだけ肩の力が抜けた。
「私も、ごめん。言い方、きつかった」
「たまには、ぶつかったほうが分かることもあるかもね」
母はそう言って、りんごを一切れ口に入れた。
その顔が少しおかしくて、雫は思わず笑った。
大きな仲直りではない。
でも、こうしてちゃんとぶつかって、少し戻れることもある。
それはきっと、家の中に灯りが残っているからだ。
雫と母は、互いに悪気があったわけではありません。
ただ、言葉になる前の気持ちがぶつかってしまっただけでした。
雫は「急かされると分からなくなる」と言い、
母は「心配すると先に言ってしまう」と気づく。
その小さな理解の積み重ねが、
家族の灯りを少しずつ強くしていきます。
大きな仲直りではなくても、
りんごを分け合いながら戻れる関係は、
それだけで十分にあたたかいものです。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「ぶつかるのはね、灯りが消えたからじゃなくて、
まだ灯ってるからなんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




