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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第五話 祖母のランタン

この章は、雫が祖母のランタンに触れ、

“灯し”の原点を思い出す物語です。


祖母の手の温かさ、

停電の夜の安心、

近所の人たちの笑い声。


灯りはただ明るいだけではなく、

人と人をつなぎ、

不安な夜にそばにいてくれるもの。


雫が受け取ってきた灯しの記憶が、

静かに息を吹き返します。


昼すぎ、雫は物置の前に立っていた。

朝から気になっていたのだ。昨夜と今朝、あのランタンに何度も助けられた気がした。それな

のに、煤けたまま棚に戻すのは、どうにも落ち着かなかった。

物置の引き戸を開けると、乾いた木の匂いと古い布の匂いがした。

段ボール箱、使わなくなった扇風機、祖母が漬物を入れていた大きな瓶。

その奥の棚に、ランタンの箱が置いてあった。

雫はそれをそっと取り出し、縁側まで持っていった。

「何してるの?」

背後から母の声がした。

「ランタン、少しきれいにしようと思って」

母は洗濯物のかごを抱えたまま、ふっと笑った。

「おばあちゃんが見たら喜ぶねえ。あれ、本当に大事にしてたから」

「そんなに?」

「うん。停電になるたびに、妙にはりきってたもの。『よし、私の出番だね』って」

雫は思わず笑った。

「言いそう」

「言ってたよ。懐中電灯があるのに、わざわざあのランタンを出すの」

母は洗濯物を干しながら、くすくす笑っている。

「しかも火をつけるまでが長いのよ。芯がどうだ、油がどうだって、いちいち大げさで」

雫はガラスの覆いを外し、やわらかい布でそっと拭いた。

指先に、細かな黒い煤がつく。

その瞬間、不意に昔の夜がよみがえった。

まだ雫が小さかったころ。

夏の終わり、夕立のあとに雷が鳴って、家じゅうの電気がぱたりと消えた夜だった。

「きゃっ」

真っ暗になった居間で、幼い雫は母の服にしがみついた。

外では風が雨戸を鳴らし、遠くで雷がごろごろと唸っていた。

「大丈夫、大丈夫」

母はそう言ったけれど、声が少し上ずっていた。

台所では父が「懐中電灯どこだ」と戸棚を開けたり閉めたりして、余計にがたがた音を立てて

いる。

そこへ、祖母がのんびりした声で言った。

「騒がしいねえ。電気が消えたくらいで、みんな大事件みたいな顔して」

「おばあちゃん、暗いよぉ……」

半べそをかく雫に、祖母は笑った。

「だからこそ、いいものがあるんだよ」

祖母は物置からランタンを持ってきて、慣れた手つきで火を入れた。

かちり、かちり、と金具が鳴る。

やがて、小さな火がぽっと灯った。

真っ暗だった部屋の中に、やわらかなオレンジ色がじわりと広がる。

それだけで、雫は少し息ができるようになった。

「ほらね」

祖母は得意そうに言った。

「大きな灯りは便利だけどね、こういうときは小さな灯りのほうが、人の顔がよく見えるんだ

よ」

父が苦笑した。

「母さん、そんなこと言ってないで、もっと明るいのないの」

「ないよ」

祖母はきっぱり言った。

「でも十分。あんた、転ばないで歩けるだろ?」

父は返す言葉をなくして、「まあ、そうだけど」と頭をかいた。

母がその横で笑いをこらえていた。

そのとき、玄関がとんとんと鳴った。

「おーい、無事かー」

聞こえてきたのは、若いころの吉岡のおじいさん――そのころはまだ“おじさん”だった――

の声だった。祖母は「はいはい、生きてるよ」と大きな声で返した。

戸を開けると、向こうも懐中電灯を持って立っている。

「そっちは?」

「うちは大騒ぎよ。うちの孫なんか、暗いだけで泣きそうになってる」

そう言って吉岡さんが連れていたのは、まだ小学校にも上がっていない男の子だった。今なら

きっと三十代半ばくらいになっているだろう。泣きそうな顔で祖母のランタンを見ている。

祖母は、その子に向かってにやりとした。

「どうだい、かっこいいだろう」

男の子はこくんとうなずいた。

「これ、魔法みたい」

「そうとも。ばあちゃんの秘密兵器だからね」

祖母は本気とも冗談ともつかない顔でそう言って、雫のほうを見た。

「雫、あんたも見な。暗い夜にはね、こういう灯りがひとつあるだけで、人は安心するんだ

よ」

「でも、暗いのやだ……」

幼い雫がそう言うと、祖母は少しだけ声をやわらげた。

「やだよねえ。怖いよねえ。でもね、怖い夜があるから、灯りのありがたさが分かるんだよ」

それから、雫の頭をぽんぽんと撫でた。

「暗いのを無理に好きにならなくていい。でも、灯りを信じることはできる」

その言葉を、雫はその夜は半分も分かっていなかった。

ただ、祖母の手の温かさと、ランタンの火の色だけは、しっかり覚えていた。

回想から戻ると、縁側にはやわらかな午後の日差しがあった。

手の中のランタンは、さっきより少しだけきれいになっている。

「どうしたの、急に黙って」

母が洗濯物を干し終え、雫のそばに来た。

「思い出してた。停電の夜」

母は「ああ」と声をもらした。

「吉岡さんのところの坊やまで来た夜ね。あの子、ランタン見て“魔法みたい”って言って

た」

「覚えてるんだ」

「覚えてるよ。おばあちゃん、得意満面だったもの」

母は笑って、それから少し目を細めた。

「おばあちゃんって、不思議な人だったよね。普段はのんびりしてるのに、誰かが不安そうに

してると、急にしゃんとするの」

雫はうなずいた。

「うん」

「自分が前に出るっていうより、“ほら、大丈夫だから”って空気を作る人だった」

雫は磨き終えたランタンのガラスを光にかざした。

向こう側の庭木が、少しゆがんで映る。

そうかもしれない、と思った。

祖母はいつも、何かを大きく変える人ではなかった。

でも、その場の空気を少しやわらかくしたり、怖がっている人の肩の力を抜いたりすることが

できる人だった。

それはきっと、灯しと同じだ。

世界を一度に照らすことはできない。

けれど、目の前にいる誰かを安心させることはできる。

そのとき、庭先から声がした。

「こんにちはー」

見ると、近所の文子さんが野菜の入った袋を提げて立っていた。

「きゅうり多く採れたから、持ってきたよ。あら、そのランタン、懐かしいねえ」

母が立ち上がる。

「でしょ。雫が磨いてるの」

文子さんは目を丸くした。

「へえ。おばあちゃん、喜ぶねえ。あの人、そのランタン持つと急に偉そうだったもんね」

「分かる」

母が吹き出し、雫もつられて笑った。

文子さんは縁側に近づき、しみじみとランタンを見た。

「昔、台風の日にうちまで持ってきてくれたのよ。“文子ちゃん、暗いと転ぶよ”って。ああ

いうの、ありがたかったなあ」

笑いながら話していた文子さんの顔が、その一瞬だけやさしく曇った。

雫は、その表情を見て胸があたたかくなった。

祖母はもうここにはいない。

けれど、こうして誰かの記憶の中で、ちゃんと灯ったまま残っている。

「いいわねえ」

文子さんが言った。

「物って不思議よね。残るだけじゃなくて、思い出まで連れてくるんだから」

雫はランタンをそっと膝の上に置いた。

「……ほんとだね」

それは古い道具だ。

少し重くて、手入れもいる。

けれど、ただの古道具ではなかった。

祖母の声。

停電の夜のぬくもり。

笑いながら行き来した近所の人たち。

怖かった夜に、確かにあった安心。

それら全部が、この小さな灯りの中に、まだ残っている気がした。

雫は静かに思った。

自分はこのランタンに、ただ照らされてきただけではない。

人が人を安心させる、その温かさを、知らないうちに受け取ってきたのだと。

そして今度は、自分も誰かにそうできるのかもしれない。

大きなことではなくていい。

派手な言葉じゃなくていい。

ただ、不安な夜にそばにいて、足元を照らせるような人に。

「雫」

母が呼んだ。

「それ、居間に置こうか。たまには見えるところに置いておきたいね」

雫はうなずいた。

「うん。そうしよう」

ランタンを抱えて立ち上がると、思ったより少しだけ重かった。

でも、その重さが、妙に頼もしかった。

居間の棚に置かれたランタンは、火がついていないのに、どこか部屋の空気をやわらかく見せ

た。

祖母の灯しは、まだ消えていない。

雫はそれを見つめながら、小さく笑った。

祖母のランタンは、ただの古い道具ではありませんでした。


怖い夜に寄り添い、

人の顔をやわらかく照らし、

「大丈夫だよ」と空気で伝える灯り。


雫はその灯りに照らされて育ち、

知らないうちに安心を受け取ってきました。


そして今度は、自分も誰かの足元を

そっと照らせる人になれるかもしれない。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「灯りってね、火がついてなくても残るんだよ。

   人の中に。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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