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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第四十一話 大事にしたいもの

この章は、雫が“まだ名前のない気持ち”を

初めて自分の言葉で「大事にしたい」と言えた夕方の物語です。


特別な出来事はない。

海もない。雨もない。

ただ、放課後の澄んだ空と、静かな公園のベンチ。


それなのに、胸の奥には

前よりはっきりした“確かさ”がある。


名前はまだつけない。

でも、見失いたくない。


湊と並んで座る距離は、

近すぎず、遠すぎず、

いまの雫にとってちょうどいい。


「前より、ちゃんと大事にしたいものがあるからかも」


その言葉が、

夕方の光の中でそっと形になっていく。


第四十一話 大事にしたいもの

その日の放課後、空はひどく澄んでいた。

雨の名残もなく、雲もほとんどない。

教室の窓から見える空は、青というより、少し深い透明に近かった。

授業が終わると、クラスのあちこちで椅子が鳴り、鞄を持つ音がして、人の流れがゆっくり外

へ向かっていく。

雫は、自分の席でしばらく動かなかった。

今日は特別なことがあったわけではない。

湊と長く話したわけでもないし、何かが急に進んだ感じもない。

でも、窓の外の空を見ながら、雫は胸の奥にひとつ、静かな確かさがあるのを感じていた。

前より、はっきりしている。

まだ名前はついていない。

それでも、もう見失いたくないと思う。

「雫、帰らないの?」

桜井さんが鞄を肩にかけて聞いた。

「うん、帰る」

雫が立ち上がると、桜井さんは笑った。

「また明日ね」

「また明日」

いつものやりとり。

でも今日は、その言葉を返す自分の声が、前より少し深く聞こえた。

廊下へ出ると、西日に近い光が床の上へ長く伸びていた。

雫は昇降口へ向かいながら、ふと窓の外を見た。

校庭の端の木々が、光を受けて静かに揺れている。

そのとき、後ろから足音が近づいてきた。

「待って」

湊だった。

雫は立ち止まる。

「一緒に帰る?」

その問いは、いまではもう前ほど特別な響きではない。

けれど、だからといって何でもなくなったわけでもなかった。

むしろ、少しずつ日常になっていくこと自体が、雫にはうれしかった。

「うん」

二人で校門を出る。

夕方の光はやわらかく、町の輪郭を少しだけやさしく見せていた。

風は強くない。

歩くたび、影が道の上で少し伸びたり縮んだりする。

「今日、空きれいだな」

湊が言う。

「うん」

雫は空を見上げた。

「なんか、深いね」

「分かる」

それだけの会話なのに、なぜだか胸の奥があたたかい。

雫は、その感じを静かに見つめた。

いまの自分は、もうこの気持ちから目をそらしたくないのだと思う。

しばらく歩いていると、小さな公園の前を通った。

ブランコが二つ、風もないのに少しだけ揺れているように見える。

夕方の公園には人が少なく、ベンチの上に光が一枚の布みたいにのっていた。

「ちょっと座る?」

湊が聞いた。

雫は少しだけ驚いたが、すぐにうなずいた。

「うん」

二人でベンチに座る。

隣にいても苦しくない距離。

近すぎず、遠すぎないそのあいだに、いまの雫は前よりずっと自然にいられるようになってい

た。

公園の向こうでは、小学生がひとりだけボールを蹴っている。

その音がときどき、乾いた夕方の空気を小さく打った。

「なんか」

湊が空を見たまま言う。

「最近、雫の“うん”の感じが変わった」

雫は思わず笑った。

「なにそれ」

「前は、“うん”って言ってても少し遠かった」

「いまは?」

湊は少し考える。

「ちゃんと、ここに落ちてくる感じ」

その言い方があまりにも湊らしくて、雫は笑いながらも、胸の奥に静かに沁みるのを感じた。

ここに落ちてくる。

たしかに、そうかもしれない。

前の自分は、言葉も気持ちも、どこかで浮いていた。

人に返事をしながら、自分の中へちゃんと落ちていかない感じがあった。

でも今は違う。

少しずつ、自分の言葉も、自分の気持ちも、自分の中へ戻ってきている。

「……たぶん」

雫はベンチの前の地面を見ながら言った。

「前より、ちゃんと大事にしたいものがあるからかも」

言ってから、少しだけ頬が熱くなった。

でも、引っ込めたくはなかった。

湊は何も言わずに待っている。

その静けさに背中を押されるように、雫は続けた。

「まだ名前はつけてないけど」

「うん」

「でも、前みたいに分からないからこわい、じゃなくて……分からないままでも、見失いたく

ないって思う」

夕方の光が、ベンチの端を少しずつ薄くしていく。

風はないのに、空気だけがゆっくりと夜のほうへ傾いていた。

「それって、たぶん」

雫は少しだけ息をついた。

「大事にしたいってことなんだと思う」

言い終わると、胸の奥が少しだけ軽くなった。

大きな答えを出したわけではない。

好き、とはまだ言っていない。

でも、自分の中でひとつ確かなものに触れた感じがあった。

湊はしばらく黙っていた。

その沈黙は長すぎず、短すぎず、ちゃんと受け止めて考えている沈黙だった。

やがて、静かに言う。

「うん」

その声はやわらかかった。

「それ、すごく大事なことだと思う」

雫は横顔だけ少し湊のほうへ向ける。

「そうかな」

「うん」

湊はベンチの前の光を見たまま続けた。

「名前をつけるより先に、大事にしたいって思えるの、たぶんちゃんと本物なんだと思う」

その言葉は、雫の中のいちばん静かなところへ落ちていった。

ちゃんと本物。

それは、いまの自分がいちばんほしかった言葉だったのかもしれない。

まだ形はあいまいでも、まだ完成していなくても、ここにあるものがたしかであると、そう

言ってもらえた気がした。

雫は少しだけ目を閉じ、ゆっくり息を吸った。

夕方の空気は昼より少しひんやりしていて、でもやさしい。

「……ありがとう」

その一言には、いつものお礼より少しだけ深いものが混ざっていた。

湊は少しだけ笑う。

「どういたしまして」

また沈黙が落ちる。

でも、その沈黙は前よりもっと落ち着いていた。

急いで何かを決めなくてもいい。

それでも大事にしていい。

そう思える沈黙だった。

少しして、遠くから母親に呼ばれる子どもの声が聞こえた。

公園の小学生がボールを抱えて帰っていく。

夕方が、静かに閉じていく時間だった。

「帰るか」

湊が立ち上がる。

「うん」

雫も立ち上がった。

ベンチに残っていた光は、さっきより少しだけ薄くなっている。

歩き出しながら、雫は心の中でさっきの言葉を何度もなぞっていた。

大事にしたい。

それでいい。

それはちゃんと本物。

その確かさが、胸の中で小さな灯りみたいに落ち着いている。

曲がり角の手前で、湊が立ち止まる。

「また明日」

「また明日」

返しながら、雫は思った。

この言葉の中には、前よりずっと静かな信頼がある。

明日も会える、というだけではない。

今日、大事だと思えたものを、そのまま持って明日へ行っていいという感じがする。

家に帰ると、母が台所で夕飯の支度をしていた。

だしの匂いがして、鍋のふたが小さく鳴っている。

「おかえり」

「ただいま」

その声を聞いただけで、雫は少しほっとした。

家庭の空気もまた、前よりずっと、自分の気持ちを置いておける場所になっている。

部屋へ戻り、机の前に座る。

ノートを開く。

窓の外はもう夜の手前で、空の青が少しずつ深くなっている。

雫は、ゆっくり書いた。

まだ名前はない。

でも、この気持ちは大事にしたい。

それから、少し考えて、もう一行。

急がなくても、本物のものはちゃんと残る。

だから、見失わないように、あたためて持っていたい。

書き終えたあと、雫は鉛筆を置いた。

胸の奥に、静かな満ち足りた感じがある。

答えを出した満足とは少し違う。

でも、自分の中で大事なものをちゃんと見つけたあとの、落ち着いたぬくもりだった。

雫はノートを閉じて、小さなどんぐりを指先でなでた。

見える場所に置いておきたいもの。

それはもう、ただの気分ではなく、静かな決意に近づいていた。

窓の外で、夜の最初の風が木の葉を揺らした。

その音を聞きながら、雫は思う。

いまはまだ、それでいい。

名前より先に、大事にしたいと思えること。

それが今日の自分にとって、いちばんたしかな答えだった。


雫はこの日、

“名前より先に確かさが来る”ということを知りました。


好き、とはまだ言わない。

でも、見失いたくない。

大事にしたい。


その静かな決意は、

大声で言う必要も、急いで形にする必要もない。


湊の「本物だと思う」という言葉は、

雫の中の灯りをそっと深くした。


大事にしたいと思える気持ちは、

名前がなくても、

ちゃんと残る。


そして、急がないほうが、

きれいに育つこともある。


夕方のベンチに落ちていた光のように、

静かで、あたたかくて、

消えずにそこにあるものとして。


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