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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第三十八話 急がない距離

この章は、雫と湊のあいだにある“急がない距離”が

静かに育っていく物語です。


特別な出来事があるわけではない。

海へ行く日でもない。

写真を撮る日でもない。


ただ、ふつうの月曜日。

ふつうの授業。

ふつうの昼休み。

ふつうの掃除。


その“ふつう”の中で、

雫は前より少し深く息ができている。


名前を急がない気持ち。

しまい込まないで、見える場所に置いておく気持ち。

そのままの形で、静かに育っていく距離。


湊の「なんとなく」という受け取り方も、

雫の「前より話しやすい」という言葉も、

どちらも急がないまま、確かに近づいている。


大きな約束はいらない。

劇的な変化もいらない。


朝の挨拶、

短い会話、

窓を並んで拭く時間。


そういう小さな積み重ねが、

雫の中で“距離”という灯りを育てていく。


第三十八話 急がない距離

校外学習が終わってからの数日は、驚くほどふつうに過ぎていった。

朝、学校へ行く。

授業を受ける。

休み時間がきて、昼になって、放課後になる。

それだけのことの繰り返しなのに、雫にはその“ふつう”が前より少しだけやわらかく見えて

いた。

何かが急に変わったわけではない。

湊と特別な約束をしたわけでもないし、毎日長く話すようになったわけでもない。

それでも、教室の中にいるとき、窓の外を見たとき、帰りの廊下を歩くとき、雫の中には小さ

な灯りのようなものが残っていた。

それは、名前を急がないまま大事にしている気持ちだった。

月曜の朝、雫はいつものように窓際の席へ座った。

教室の空気はまだ薄く、人の声も少ない。

机の端には、今朝家を出る前に鞄へ入れた小さなどんぐりが入っている。

宙くんの秘密基地の会員証。

なぜか今日は、それを持ってきたかった。

「おはよう」

湊の声がして、雫は顔を上げた。

「おはよう」

その短いやりとりが、もう少しずつ日常になりはじめている。

でも慣れきってしまった感じはなかった。

毎回、ちゃんと小さく胸が動く。

そのことが、雫には少しうれしかった。

「今日は眠そうだな」

湊が席に鞄を置きながら言う。

「ちょっとだけ」

「夜更かし?」

雫は少し迷って、それから笑った。

「考えごと」

「それは眠くなるやつだ」

その返しが自然で、雫もつられて笑った。

ほんとうは、昨夜は少しだけ長くノートを書いていた。

母と話した“名前を急がないもの”のことを、何度も心の中でなぞっていたのだ。

けれど、それを今ここで全部言わなくてもいい。

全部言わなくても、こうして短い言葉を交わせることが、今の雫にはちょうどよかった。

午前中の授業は静かに過ぎていった。

国語の時間、先生が短い随筆を読み上げた。

“人は、何でもすぐ理解しなくてもよい。分からないまま抱えているうちに、自分の中で少し

ずつ見えてくるものもある。”

そんな意味の一節があり、雫は思わず顔を上げた。

黒板の文字が少しにじんで見える。

教室の中の空気が、その一瞬だけ少し深くなった気がした。

隣の列では、湊も前を見ている。

何を思っているのかは分からない。

でも、あの人もこういう言葉を、どこか静かな場所で受け取っているのかもしれないと、雫は

ふと思った。

休み時間になり、雫は教科書を閉じた。

すると、湊が机の上のプリントを見ながらぽつりと言った。

「さっきの文、雫好きそうだったな」

雫は少し驚いて、でもすぐに笑った。

「分かる?」

「なんとなく」

その“なんとなく”が、やっぱりうれしい。

「好きだった」

雫は素直に言った。

「すぐ分からなくてもいい、ってところ」

「うん」

湊は短くうなずいた。

「分からないまま持ってる時間って、たぶん必要だしな」

それ以上は続かなかった。

でも、その一言で十分だった。

急がなくていい。

分からないままでも大丈夫。

同じような感覚を、相手もどこかで持っているのだと分かるだけで、雫の心は少し深く息をつ

けた。

昼休み、雫は今日は図書室ではなく、教室の窓際に残った。

外は薄い雲が流れていて、日差しは強くない。

パンを食べながら、雫はぼんやりと校庭を見た。

サッカーボールが転がって、遠くで誰かが笑っている。

ごくふつうの昼休み。

でも、こういう何でもない時間の中で、自分が前よりずっと落ち着いて座っていられることに 、

雫は少しずつ慣れてきていた。

「雫、それなに?」

突然、桜井さんに声をかけられた。

「え?」

「そのどんぐり」

雫は、机の端に出していた小さなどんぐりに目を落とした。

知らないうちに、鞄から出して指先で転がしていたらしい。

「あ……これ」

少しだけ迷って、それから笑う。

「秘密基地の会員証」

「なにそれ」

桜井さんが吹き出す。

三村くんまで「意味分からん」と笑っている。

雫もつられて笑いながら、宙くんの話を少しだけした。

五歳なのに妙に大人びた言葉を使うこと。

基地には目的が必要だと言ったこと。

大事なものは見える場所に置いたほうがいいと、もっともらしく進言したこと。

話しながら、雫は少し驚いていた。

こうして自分の身近な大事なものを、前より自然に人へ渡せるようになっているからだ。

「その子、会ってみたい」

桜井さんが笑いながら言う。

「私も」

三村くんも珍しく乗る。

「かなり気になる」

雫はその反応がうれしくて、小さくどんぐりを握った。

大事なものは、見える場所に置いておきたい。

宙くんのその言葉が、今日は違う形で効いていた。

気持ちも、思い出も、言葉も、全部しまい込みすぎなくていいのかもしれない。

放課後、掃除当番が一緒になって、雫は湊と教室の窓際を拭くことになった。

夕方前の光が、ガラスに薄くのっている。

雑巾を絞る音と、廊下から聞こえる部活のかけ声が、遠く混ざっていた。

「こういうの、意外と嫌いじゃない」

湊が窓を拭きながら言った。

「掃除?」

「うん。ちょっと無心になれるから」

雫は、雑巾を動かしながら少し笑う。

「分かる」

「雫も?」

「うん。静かだし」

「たしかに」

しばらく並んで窓を拭いていると、ガラスの向こうの空が少しずつ明るく見えてくる。

汚れが取れて、景色がはっきりする。

それがなんだか、今の自分の心に少し似ている気がした。

「湊」

雫が、小さく呼ぶ。

「ん?」

「前より、話しやすくなった」

言ってから、少しだけ照れた。

でも今日は、その言葉を引っ込めたくなかった。

湊は雑巾を持つ手を止めて、少しだけ笑った。

「俺も」

その返事は、短いのにあたたかかった。

「最初、雫はもっと遠い感じだった」

「遠い?」

「うん。きれいだけど、触ると音がしそうな感じ」

雫は思わず吹き出した。

「なにそれ」

「でも今は、ちゃんと話しかけられる」

その言い方が真面目で、雫の胸の奥に静かな波が広がった。

遠い感じ。

たしかにそうだったかもしれない。

前の自分は、平気な顔をしすぎて、近づきにくい静けさをまとっていたのだろう。

でも今は違う。

やわらかいまま、少しずつ人の声や景色が入ってきている。

「……よかった」

雫が言うと、湊は窓のほうを向いたまま、やわらかくうなずいた。

掃除が終わり、窓は少しきれいになった。

外の空も、さっきより明るく見える。

帰る支度をしているとき、雫はふと思った。

こうして、特別なことのない日々の中で、少しずつ距離は育つのかもしれない。

大きな約束や劇的な出来事がなくても、朝の挨拶、短い会話、窓を拭く時間、そういうもので。

帰り際、校門のところでまた道が分かれる。

「また明日」

湊が言う。

「また明日」

雫も返す。

前より、その言葉はもう少しだけ自然になっていた。

でも軽くなったわけではない。

むしろ、静かに重みを増している気がする。

急がないまま、でも確かに育っていくものが、その中にあるからだ。

家へ帰ると、母が台所で味噌汁を温めていた。

「おかえり。今日はどうだった?」

雫は鞄を下ろしながら、少し考えた。

「……特別なことはなかったけど、よかった日」

母はその答えに笑った。

「そういう日、大事だね」

「うん」

ほんとうに、そうだった。

夜、机の前でノートを開く。

雫は少しだけ考えてから、書いた。

大事な気持ちは、急がなくても少しずつ育っていくのかもしれない。

それから、もう一行。

特別じゃない日の中で、朝の声や短い会話や、並んで窓を拭く時間みたいなものが、静かに距

離をつくっていく。

書き終えて、雫はどんぐりを指先で転がした。

小さくて、目立たなくて、でもちゃんと形がある。

いまの気持ちも、少しそれに似ていると思った。

名前を急がなくていい。

でも、育っていることは分かる。

それだけで、今日は十分だった。

窓の外では、夜の風が静かに木を揺らしていた。

雫はノートを閉じ、少しだけ深く息をつく。

急がない距離。

それは、思っていたよりずっとやさしいものだった。

雫はこの日、

“急がない距離”がどれほどやさしいものかを知りました。


名前をつけない気持ち。

急がない会話。

無理に近づかない歩幅。


それなのに、

確かに近づいている。


湊の「最初は遠い感じだった」という言葉も、

雫の「前より話しやすい」という言葉も、

どちらも相手を急がせないやわらかさを持っていた。


距離は縮めるものではなく、

育つもの。


特別な日ではなく、

ふつうの日の中で育つもの。


そらは、この章をこう言っています。


――「急がない距離ってね、

   風みたいにそっと近づいてくるんだよ。

   気づいたら、もうそこにあるんだよ……

   わらわら……」


読んでくださり、ありがとうございました。


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