第三十七話 名前を急がないもの
この章は、雫が“気持ちに名前をつけない勇気”を
初めて自分の言葉で確かめる物語です。
会いたい。
話したい。
小さな景色を渡したい。
その全部が、前よりずっと自然に息をしているのに、
まだ“好き”という言葉に閉じ込めたくない。
名前をつけると、
いまのやわらかさが固まってしまう気がする。
そんな雫の迷いを、
母は急がせず、ただ静かに受け止める。
「大事だから、急がなくていい」
祖母の灯しのように、
母の言葉は雫の胸の奥にそっと灯りを残す。
名前のない気持ちを、
見える場所に置いておく。
そのやり方を、雫はこの夜に学んでいく。
第三十七話 名前を急がないもの
その夜、家の中はひどく静かだった。
静かといっても、冷たい静けさではない。
台所で母が食器を洗う水の音がして、居間の時計が小さく時を刻み、窓の外では風が庭木をや
さしく揺らしている。
そういう小さな音たちが、家の中にちゃんと暮らしをつくっている静けさだった。
雫はノートを閉じて、しばらく机の前に座っていた。
会いたい。
話したい。
小さな景色を渡したい。
そういう気持ちは、前よりずっと自然になってきた。
けれど、その先にあるものへ、まだ雫は急いで名前をつけたくなかった。
好き、なのかもしれない。
でも、その言葉にしてしまうと、急に形が固まってしまう気もする。
いまの気持ちはもっとやわらかくて、もっと静かで、まだ途中にあるものだった。
居間へ行くと、母が洗い終えた皿を布巾で拭いていた。
「雫、麦茶飲む?」
「うん」
母は冷蔵庫から麦茶を出し、氷の入っていないグラスに注いだ。
雫の前にそれを置いてから、自分のぶんも少しだけ注ぐ。
向かい合って座る。
テレビはついていない。
ランタンは棚の上に置かれたまま、火を灯していないのに、どこか部屋の空気をやわらかくし
ていた。
「今日は、なんだか考えごとの顔してるね」
母が言った。
雫はグラスの中の麦茶を見た。
濃い茶色の向こうに、天井の灯りが少しだけ揺れている。
「……うん」
「学校のこと?」
雫は小さくうなずいた。
母はそれ以上、急いで聞かなかった。
その間が、ありがたかった。
雫はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「お母さん」
「うん?」
「まだ、名前をつけたくない気持ちって、ある?」
母はグラスを持つ手を少し止めた。
でも驚いた顔はしなかった。
ただ、その言葉の意味を自分の中でゆっくり受け取るように、少しだけ目を細めた。
「あるよ」
その返事が、あまりにもまっすぐで、雫は少しだけ肩の力が抜けた。
「あるの?」
「あるある」
母は笑った。
「気持ちってね、すぐに“これはこうです”って箱に入れなくてもいいものがあるのよ」
雫はその言葉を静かに聞いていた。
「嬉しいのか、不安なのか、会いたいのか、さみしいのか。きれいに分けられないときってあ
るでしょう」
「うん」
「そういうときに、無理に名前をつけると、かえって苦しくなることもあるの」
母はそう言って、ランタンのほうへちらりと目を向けた。
「おばあちゃんも、似たようなこと言ってたなあ。
“まだ言葉にならないものは、そのまま少し持っていなさい”って」
雫は、その言葉に祖母の声を重ねた。
あの人なら、たしかにそう言いそうだと思った。
すぐに答えを出させるのではなく、持ったままでいいよ、と言える人だった。
「持ったまま……」
「うん。大事ならなおさらね」
母はやわらかく言った。
「名前がついてないから、いい加減な気持ちってわけじゃないのよ。
むしろ、ちゃんと大事にしたいからこそ、まだ急がないほうがいいこともある」
その言葉は、雫の胸の奥にすっと入ってきた。
大事だから、急がない。
たしかに、今の気持ちはそういうものに近かった。
会いたい。
話したい。
声を聞くと落ち着く。
同じ景色を見ていると、呼吸が少し深くなる。
それはもう、ただの偶然ではない。
でも、その先にある言葉を急いでしまうと、このやわらかな途中がこぼれてしまう気がしたの
だ。
母が、少しだけ笑いながら言った。
「気になる人でもいるの?」
雫は思わず顔を上げた。
「……お母さん」
「だって、そういう顔してる」
その言い方に、からかいはほとんどなかった。
ただ、少しだけ可笑しそうで、少しだけあたたかい。
雫は頬が熱くなるのを感じながら、麦茶をひとくち飲んだ。
「……いる、のかもしれない」
「うん」
「でも、まだ、何て言えばいいか分からない」
母は、すぐにうなずいた。
「分からなくていいよ」
そのひと言が、雫にはとてもやさしかった。
「会うと少し安心するとか」
母が、ひとつずつ確かめるみたいに言う。
雫は小さくうなずく。
「話したくなるとか」
「うん」
「その人がいると、今日が少し違って見えるとか」
雫は少し驚いて、母を見た。
「……なんで分かるの」
母は肩をすくめた。
「そういうものだから」
それから、少し遠くを見るような目になった。
「若いころって、はっきり好きって言える前に、もっと手前のやわらかい時間があるのよ。
その人がいると景色が少し変わるとか、明日が前より少し待てるとか。
そういうの、すごく大事なんだけど、あとにならないと気づきにくいのよね」
雫は、その言葉をじっと聞いていた。
明日が前より少し待てる。
それは、まるで今の自分のことみたいだった。
朝、学校へ行く足が少し軽いこと。
校門の向こうに会いたい人がいるかもしれないと思うこと。
小さな景色を、話したいと思うこと。
それら全部が、まだ名前を急がないままで、でもたしかに大事だった。
「お母さんは、そのときどうしてたの?」
雫が聞くと、母は少し笑った。
「私?」
「うん」
「私ねえ……」
母はグラスのふちに指を置きながら、少しだけ考えた。
「大事にしよう、とは思ってたかな」
「大事に?」
「うん。すぐに答えを出したり、無理にきれいな形にしようとしたりしないで。
ちゃんと自分の中にあるなって、見ておくの」
その言葉に、雫は静かにうなずいた。
見ておく。
それなら、自分にもできる気がした。
答えを出すのではなく、見失わないように見ておく。
灯しを見るみたいに、急がず、でも大事に。
母は雫の顔を見て、やわらかく笑った。
「雫は、そういうの丁寧に見られる子だと思うよ」
「そうかな」
「そうだよ。すぐに大声で言わないぶん、ちゃんと深いところまで見てる」
その言葉は、少し照れくさかった。
でも、うれしかった。
雫は視線を落とし、グラスの中の麦茶を見た。
そこに映る灯りは、小さく揺れている。
形ははっきりしないのに、ちゃんとそこにある。
「……じゃあ」
雫が言う。
「まだ名前はつけないで、でも大事にはしていいんだね」
母は迷わずうなずいた。
「もちろん」
それから、少しだけ笑って付け足した。
「そういうものって、急がないほうが、案外きれいに育つこともあるしね」
その“育つ”という言葉に、雫の胸の中で何かがやわらかくほどけた。
いまの気持ちは、完成したものではない。
でも、だからだめなのではない。
まだ途中だからこそ、大事にできるのかもしれない。
しばらくして、母は立ち上がってグラスを片づけた。
雫も一緒に立ち上がる。
「おやすみ前に、宙くんが置いていったものあるよ」
母が居間の棚の横を指さした。
見ると、小さなどんぐりがひとつ、ちょこんと置かれていた。
秘密基地の会員証、と言って渡されたあのどんぐりだ。
雫は思わず笑った。
「まだあったんだ」
「“大事なものは見える場所に”って、宙くんが言ってた」
母がそう言って笑う。
見える場所に置く。
それもまた、いまの自分の気持ちに少し似ていた。
大きく言葉にはしない。
でも、ちゃんと見える場所で、大事にしておく。
その夜、雫は自分の部屋に戻り、ノートを開いた。
窓の外では、夜の風が木の葉を静かに揺らしている。
遠くで、町の音が小さく続いていた。
雫は、ゆっくり書く。
まだ名前をつけない気持ちがある。
でも、それは曖昧だからではなく、大事だから急がないだけかもしれない。
そして、もう一行。
見失わないように、見える場所に置いておきたい。
灯しを見るみたいに。
書き終えたあと、雫は机の端に置いた小さなどんぐりを見た。
手のひらにのせると、軽くて、でもちゃんとそこにある重さだった。
大事にしたいもの。
まだ名前はない。
でも、たしかにここにある。
それだけで、今夜の呼吸は少しだけ深かった。
雫はこの日、
“名前がついていない気持ち”が
決して曖昧なものではないことを知りました。
むしろ、
大事だからこそ急がない。
途中だからこそ丁寧に持つ。
母の言葉は、
雫の胸の奥にあった“まだ途中の光”を
そっと肯定してくれた。
会うと安心する。
話したくなる。
その人がいると、今日が少し違って見える。
それはもう、
ただの偶然ではない。
でも、急いで名前をつけなくていい。
灯しのように、
見える場所に置いておけばいい。
宙は、この章をこう言っています。
――「名前がない気持ちはね、
まだ育ってる途中のやさしい芽なんだよ。
急がないほうが、きれいに伸びるんだよ……
わらわら……」
読んでくださり、ありがとうございました。




