表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/51

第三十二話 海の見えるベンチ

この章は、雫が“自分の居場所に座る”物語です。


海の見える白いベンチ。

母の甘い卵焼き。

クラスメイトの笑い声。

風のやわらかさ。

その全部が、雫の胸の奥で静かに重なっていく。


前は、楽しい場所にいてもどこか遠かった。

輪の中にいても、少し外側に立っているような感覚があった。


でも今日は違う。

ちゃんと風が当たる。

ちゃんと味がする。

ちゃんと声が届く。

ちゃんと笑える。


“ちゃんと生きている感じがする”


雫がその言葉を自分で言えるようになった、

とても大切な昼の章です。


第三十二話 海の見えるベンチ

昼が近づくころ、空の青は朝より少しやわらかくなっていた。

班ごとの見学がひと区切りつき、先生から「昼食は自由に、でも時間は守ること」と声がかか

る。

その途端、あちこちで「どこ座る?」「海見えるとこがいい!」という声があがった。

桜井さんがすぐにしおりを丸めて持ち上げた。

「行くよ、海の見えるベンチ!」

三村くんが「もう決定なんだ」と笑い、湊は苦笑しながらもその後ろをついていく。

雫も、その流れの中で自然に歩き出した。

遊歩道を少し進んだ先に、白いベンチがいくつか並ぶ小さな広場があった。

柵の向こうはすぐ海で、陽を受けた水面が静かにきらめいている。

波の音は近いのにうるさくない。

風はあるけれど、強すぎない。

昼の光の中で、景色全体がどこかやわらかかった。

「ここ、当たりだね」

桜井さんがうれしそうに言う。

「うん」

雫は素直にそう返していた。

ベンチに座ると、膝の上のお弁当箱がほんの少しあたたかい。

朝、母が入れてくれた卵焼きのことを思い出す。

“こういう日は、甘いのが入ってると少し安心するかなと思って”

あの言葉まで一緒に、ここへ来ている気がした。

「いただきます」

四人で何となく声をそろえる。

桜井さんは自分のお弁当を開けるなり「見て、うち今日めっちゃ茶色い」と笑い、三村くんは

「茶色い弁当は強い」ともっともらしく返す。

そのやりとりがおかしくて、雫も笑った。

自分のお弁当箱を開く。

卵焼き。小さな唐揚げ。きんぴら。

端に、赤いミニトマトがひとつ。

いつもの母の味だった。

ひとくち食べると、少し甘い卵焼きが、朝の台所の匂いごと胸に戻ってくる。

「おいしい?」

湊が何気なく聞いた。

「うん」

雫は笑った。

「今日、ちょっと甘めなんだって」

「へえ」

「こういう日は、そのほうが安心するかなって、お母さんが」

言いながら、雫はふと気づいた。

前なら、こういう家庭の話を学校で口にするのは少し照れくさかったかもしれない。

でも今は、隠したい感じがあまりなかった。

桜井さんがすぐに反応する。

「いいなあ。そういうの、ちょっとうれしいよね」

「うん」

雫は小さくうなずいた。

「なんか、朝から見送ってもらった感じも入ってる」

その言葉に、自分で少し驚く。

でも、言ってみるととても自然だった。

三村くんが海を見ながら言った。

「外で食べると、同じ弁当でもちょっと違うよな」

「わかるー」

桜井さんがすぐに乗る。

「なんか、おにぎりとか二割増しでおいしい」

「二割って、細かいな」

湊が笑う。

雫はその会話を聞きながら、海を見た。

白い光の上を、遠くの船が小さく動いている。

風が柵を越えて、頬にそっと当たる。

いま、自分はここに座っている。

海の見えるベンチで、クラスメイトとお弁当を食べている。

それは、とても普通のことのようでいて、少し前の自分には案外遠かった景色だ。

胸の奥に、静かな実感が広がっていく。

前より、ちゃんとここにいる。

前より、ちゃんと食べて、笑って、景色を見ている。

前より、ちゃんと今日の中にいる。

「雫?」

湊に呼ばれて、雫は我に返った。

「うん?」

「トマト、転がりそう」

「あ」

お弁当箱の端で、ミニトマトがちょうどころりと傾いていた。

雫はあわてて指で押さえ、つい笑ってしまう。

「危なかった」

「かなり平和な危機だな」

三村くんが言って、みんなで少し笑う。

その笑いの輪の中に、自分がちゃんといる。

ただ座っているだけではなく、ちゃんと混ざっている。

そのことが、雫にはなんだか少しうれしかった。

食べ終わったあと、桜井さんが「ちょっと写真撮ってくる!」と立ち上がり、三村くんも

「じゃあ俺も」とついていった。

ベンチには、雫と湊だけが残る。

しばらく、二人で海を見た。

昼の海は、朝より少し明るく、でもやっぱり静かだった。

光の粒が水面に散っていて、見ているだけで胸の奥がすこしゆるむ。

「……なんか」

雫がぽつりと言う。

「うん?」

「いま、自分がちゃんとここにいる感じがする」

湊は、すぐには何も言わなかった。

ただ、雫の言葉の続きを待つように、海を見たまま静かにしている。

「前は、こういう場所にいても、どこか少し外にいるみたいな感じがあったの」

雫はゆっくり言葉を選んだ。

「楽しいはずなのに、自分だけ少し遠いとか。ちゃんと笑ってても、どこかで息を止めてる感

じとか」

風が、少しだけ強く吹いた。

髪が揺れて、ベンチの下で影も揺れる。

「でも、今日は違う」

雫は海を見たまま言った。

「ちゃんと風が当たってるし、お弁当もおいしいし、みんなの声もちゃんと聞こえる。……前

より、ちゃんと生きてる感じがする」

言い終わってから、少しだけ頬が熱くなった。

大げさすぎるだろうか、と一瞬思う。

でも、嘘ではなかった。

湊は静かに息をついた。

「うん」

その“うん”は、とても静かで、でもとても深かった。

「それ、すごく大事なことだと思う」

雫は湊を見た。

湊は海の光を少し細めた目で見ながら、続けた。

「ちゃんと生きてる感じって、なくなってからじゃないと気づけないこともあるし」

その言葉は、重すぎないのに、少し胸に残った。

湊もきっと、自分なりにそういう時間を通ってきたのだろう。

詳しく聞かなくても、そのことだけは分かる気がした。

「……うん」

雫も、小さくうなずいた。

二人の間に沈黙が落ちる。

でも、その沈黙は少しも苦しくなかった。

ただ、昼の海の光みたいに、静かにそこにある。

少しして、湊が言った。

「雫がそう言えるようになって、よかった」

その言葉は、前にも何度かもらった“よかった”より、少しだけ深く聞こえた。

雫自身が、自分で自分の変化を言葉にしたからかもしれない。

「……ありがとう」

雫がそう返すと、湊は少しだけ笑った。

「今日は、ほんとに来てよかった日だな」

雫も笑った。

「うん」

それはもう、迷いなく言えた。

遠くで桜井さんが「見て見て、海めっちゃ青い!」と大きな声をあげている。

三村くんが「さっきから青いよ」と返して、また笑いが起きる。

その声を聞きながら、雫はベンチに背中をあずけた。

空は広い。

海は光っている。

昼の風はやさしい。

母の卵焼きの甘さが、まだ少し口の中に残っている。

いまの自分は、前よりちゃんと生きている。

それは派手な変化ではない。

でも、こういう一日の中でこそ、はっきり分かることなのかもしれない。

ベンチの白い背もたれに、陽のあたたかさが残っていた。

雫はそのぬくもりを背中で感じながら、小さく目を細める。

ちゃんとここにいる。

ちゃんと景色が入ってくる。

ちゃんと、おいしいと思える。

ちゃんと、うれしいと思える。

それだけで、今日はもう十分に満ちていた。

雫はこの日、

“自分が世界の中にいる”という実感を取り戻しました。


それは大きな出来事ではなく、

海の光、風の匂い、母のお弁当、

友達の笑い声のような、

小さなものの積み重ね。


けれど、その小さな積み重ねこそが、

雫の呼吸を深くし、

“ちゃんと生きている”という感覚を胸に灯した。


湊の

「それ、すごく大事なことだと思う」

という言葉は、

雫の変化を静かに肯定する灯りでした。


そして雫は、

“ここにいていい”

“ここに座っていい”

という感覚を、

初めて自然に受け取れた。


そらは、この章をこう言っています。


――「雫さん、今日はね、

   世界のほうが雫さんをちゃんと迎えに来てたよ。

   だから、お弁当も風も、全部やさしかったんだよ。

   わらわら……」


読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ