表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/51

第三十一話 ここへ来たかった

この章は、雫が“自分の足で来た場所”を

初めて心の底から肯定する物語です。


バスの窓から見えた青は、

ただの景色ではなく、

雫の胸の奥で静かに育っていた“行きたい”という気持ちの証。


海に降り立った瞬間、

風の匂い、光の揺れ、波の動きが

雫の中の緊張をほどき、

“ここへ来たかった”という言葉を自然に生んでいく。


静かで、明るくて、広いのに置いていかれない海。

それは、今の雫自身の呼吸とよく似ている。


この章は、雫が“自分の望み”を

初めてはっきりと自分の言葉で言えるようになる朝の物語です。


第三十一話 ここへ来たかった

バスが止まると、車内の空気が一度にほどけた。

「着いたー!」

誰かが声をあげて、あちこちで椅子の音がする。

先生の「降りるときは慌てない!」という声が重なるけれど、生徒たちの足取りはもう半分、

外の光のほうへ向いていた。

雫は立ち上がって、鞄の肩紐を持ち直した。

窓の向こうには、もう海がすぐ近くに見えている。

青い。

ただ青いだけではなく、朝の光を細かく散らしながら、やわらかく揺れていた。

「行こう」

湊がそう言って、通路を少しあけるように立つ。

「うん」

バスを降りた瞬間、風が雫の頬にふれた。

それは町の中で吹く風とも、学校の窓から入る風とも違っていた。

少し塩の匂いがして、遠くまでひらけていて、息を吸いこむと胸の奥までまっすぐ届く。

「あ……」

雫は思わず立ち止まった。

目の前には、広い海。

空は高く、雲は薄く、光は白くきらめいている。

波は荒くない。

けれど止まってもいない。

絶えず細かく動きながら、岸へ寄せては返している。

その景色を見たとたん、雫の胸の中で何かがすっとほどけた。

来てしまえば同じだと思っていた。

きっと楽しいか、少し疲れるか、そのどちらかだろうと思っていた。

でも違った。

この景色の中に立った瞬間、自分がここへ来たかったのだと、体のほうが先に分かった。

「すごい……」

小さくこぼれた声は、風にすぐさらわれた。

桜井さんが少し先で「ねえ見て! めちゃくちゃきれい!」とはしゃぎ、三村くんが「うわ、

ほんとだ」と珍しく素直な声を出している。

先生たちは点呼をしながらも、どこか少しだけ機嫌がよさそうだった。

雫はまだ、その場からすぐには動けなかった。

「雫」

湊の声が、すぐ横から聞こえる。

「うん?」

「……すごい顔してる」

雫は振り向いた。

「どんな顔?」

湊は少しだけ笑った。

「来てよかったって顔」

その言葉に、雫は自分でも気づかなかった表情を見つけられたような気がした。

たしかに、今の自分はそういう顔をしているのかもしれない。

「うん」

雫は海を見たまま答えた。

「来てよかった」

その一言は、思っていたより自然に出た。

言ってしまうと、それはもう疑いようのない本当のことになった。

先生の案内で、まずは海沿いの遊歩道を歩くことになった。

白い手すりの向こうで、波が日に光っている。

足元の道は明るく、ところどころに小さな花壇や、海を見下ろすベンチが置かれていた。

班ごとに固まりながら歩く生徒たちの声は、外へひらけた空気の中で少しやわらかく聞こえる。

桜井さんが前を歩きながら、「ここ絶対、お昼おいしいやつじゃん」と言う。

三村くんは「まだ午前中なのに、もう昼の話」と笑っている。

雫も、その後ろを歩きながら、時々立ち止まりそうになるのをこらえていた。

空の色も、海の光り方も、風の強さも、全部が少しずつ違って見える。

同じ青でも、ひとところにとどまっていない。

ずっと見ていたくなるのに、見ているあいだにも変わっていく。

「雫、こっち」

桜井さんに呼ばれて、雫は我に返る。

みんなが展望スペースのほうへ寄っていた。

そこは遊歩道から少しだけ高くなった場所で、海が広く見渡せる。

白い柵の向こうに、遠くの船が小さく浮かんでいた。

「ほら、ここで写真撮ろうよ!」

桜井さんが明るく言う。

「いいね」

雫は気づけば、前よりずっと素直にそう返していた。

三村くんが「じゃあ俺撮るよ」とスマホを構え、桜井さんが「え、ちゃんと海入れてよ!」と

注文をつける。

湊は少し後ろで苦笑しながら、その様子を見ていた。

「雫も入って」

桜井さんに手を引かれそうになって、雫は少しだけ戸惑った。

でも、今日はその戸惑いの向こうに、前より少し広い気持ちがあった。

「……うん」

海を背にして並ぶ。

風が髪を少し乱し、まぶしさに目を細める。

三村くんが「はい、撮るぞー」と言った瞬間、桜井さんが笑い、つられて雫も笑った。

シャッター音が鳴る。

その一瞬、雫はたしかにこの景色の中にいた。

見ているだけではなく、ちゃんとここに立っていた。

写真を見せてもらうと、自分の顔が思っていたよりずっとやわらかかった。

少し驚いているようで、でもちゃんと笑っている。

「雫、いい感じじゃん」

桜井さんが何気なく言う。

「そうかな」

「うん。今日の海に合ってる」

その言い方が少し照れくさくて、雫は小さく笑った。

そのあと自由に少し歩ける時間があり、雫は柵のそばへ寄った。

湊が、その少しあとから並ぶように立つ。

しばらく二人で何も言わずに海を見た。

風が吹く。

水面が細かく揺れる。

遠くで白い鳥がひとつ、低く飛んでいく。

「こういう海なんだな」

湊がぽつりと言った。

「こういう?」

「雫が好きなの」

雫はその言葉に、少しだけ考えた。

好きな海。

たしかに自分は海が好きだ。

でも、それがどういう海なのか、ちゃんと考えたことはなかったかもしれない。

「……静かだけど、明るい海、かも」

「うん」

「あと、広いのに、置いていかれる感じがしない海」

湊はその答えを聞いて、静かにうなずいた。

「分かる気がする」

その返事が、雫にはうれしかった。

分かってもらうために、うまい言葉を探したわけじゃない。

ただ見たまま、感じたままを言っただけなのに、それをちゃんと受け取ってくれる。

そのことが、この景色の中ではいつも以上にやわらかく感じられた。

少しして、湊が言った。

「雫、前よりちゃんと笑うようになったな」

雫は海から目を離さないまま、小さく笑った。

「それ、最近よく言われる」

「俺も言いたくなるくらいには、そう見える」

その言葉が、まっすぐ胸へ入った。

前より笑う。

それはつまり、前より光が入ってきているということなのかもしれない。

雫は柵に手を置いた。

陽にあたたまった白い塗装の感触が、指先にやわらかい。

「……たぶん」

「うん?」

「ここへ来たかったんだと思う」

湊は、雫の横顔を見るように少しだけ顔を向けた。

でも何も急がせず、ただその言葉が出るのを待っていた。

雫は続けた。

「海も見たかったし、みんなと来るのも思ってたより嫌じゃなかったし……」

そこで少しだけ言葉が止まる。

湊は黙っている。

「あと」

雫は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

でも今日は、その熱を無理に隠したくなかった。

「……湊がいるのも、たぶん大きい」

言ってしまったあと、風がひとつ強く吹いた。

髪が揺れて、海の匂いが少し濃くなる。

湊は、すぐには何も言わなかった。

その沈黙が、雫には少しだけ長く感じられた。

でも嫌ではなかった。

ちゃんと受け取ってくれている沈黙だと分かったからだ。

やがて、湊が小さく言った。

「そっか」

その声は、前より少しだけやわらかかった。

「俺も、雫がいると、景色がちゃんと入ってくる感じする」

雫は息をのんだ。

景色がちゃんと入ってくる。

その言い方は、とても湊らしかった。

大きな言葉ではない。

でも、自分にしか言えない静かな本当の言葉だと思った。

先生の「そろそろ集合!」という声が、少し遠くから聞こえてくる。

桜井さんが「はーい!」と元気よく返していた。

雫は最後にもう一度だけ海を見た。

青い。

明るい。

静かだけど、止まっていない。

まるで今の自分の呼吸みたいだと思った。

ここへ来たかった。

その気持ちは、もうはっきりしていた。

そしてその景色の中に、ひとりで立っているのではなく、ちゃんと誰かの気配があることも、

雫にはうれしかった。

集合場所へ戻る道すがら、風はまだ頬にやさしかった。

雫は歩きながら、自分の足元が前よりずっと自然に前を向いているのを感じていた。


雫はこの日、

“来てよかった”を自分の声で言えるようになりました。


不安があっても、緊張があっても、

それでも前へ進んだ自分を肯定できる。


海の青は、雫の中の青と重なり、

静かに、でも確かに心を開いていく。


湊の

「来てよかったって顔」

という言葉は、

雫の変化をそっと照らす灯りでした。


そして雫の

「湊がいるのも、たぶん大きい」

という言葉は、

雫が誰かを“自分の景色の一部”として

受け入れはじめた証。


ここへ来たかった。

その気持ちは、もう迷いではなく、

雫の中で静かに根を張った“確かな前進”。


そらは、この章をこう言っています。


――「雫ちゃんの心がね、

   海みたいに広くなった日なんだよ。

   風が通る場所が増えたんだよ。

   ふわぁ……」


読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ