第二十九話 朝はちゃんと来た
この章は、雫が“自分の足で朝を迎える”物語です。
眠れなくてもいい。
そわそわしてもいい。
それでも朝はちゃんと来る。
祖母の言葉。
母のやわらかな支度。
家の中の灯り。
そして、会いたいと思う人の存在。
雫はその全部に支えられながら、
不安と楽しみを両方抱えたまま、
自分の足で今日を始めます。
これは、大きな冒険ではないけれど、
雫にとって確かな一歩となる朝の章です。
第二十九話 朝はちゃんと来た
目が覚めたとき、まだ空は薄青かった。
カーテンの隙間から、朝になりきる前のやわらかな光が部屋へ入っている。
雫はしばらく布団の中で、その光を見ていた。
眠れなかったわけではない。
でも、何度か目が覚めた。
そのたびに、今日が校外学習の日なのだと思い出して、胸の奥が少しだけざわついた。
それでも――朝はちゃんと来た。
昨夜、母が言った通りだった。
眠れないなら眠れないままでもいい。
明日はちゃんと来る。
その言葉は、寝起きのまだ静かな胸の中でも、ちゃんと灯っていた。
雫は布団から出て、机の上を見た。
しおり、筆記用具、水筒、ハンカチ。
昨夜のうちに整えたものたちが、静かに並んでいる。
そのきちんとした並びを見ると、自分の中も少し整う気がした。
居間へ行くと、母はすでに台所に立っていた。
卵焼きの甘い匂いと、炊きたてのごはんの湯気が、朝の空気に混じっている。
「おはよう」
「おはよう。ちゃんと起きられたね」
母は振り向いて笑った。
「うん」
雫が席につくと、母は弁当箱のふたを閉めながら言った。
「今日は、卵焼きちょっと甘めにしといた」
「なんで?」
「こういう日は、甘いのが入ってると少し安心するかなと思って」
その言い方が、母らしかった。
直接“がんばって”と言う代わりに、味で気持ちを支えようとする。
雫は胸の奥が少しあたたかくなるのを感じながら、小さく笑った。
「ありがとう」
母は「はい」とだけ返して、お弁当を保冷袋に入れる。
居間の棚には、祖母のランタンがいつものように置かれていた。
火は灯っていない。
けれど朝の光を受けて、ガラスの縁が静かに光っている。
雫はそのランタンを見た。
祖母の声は、もう聞こえない。
でも、“明日はちゃんと来る”という言葉は、たしかに今の朝の中に残っていた。
ごはんを食べ終えるころには、空はもう少し明るくなっていた。
窓の外では、町もゆっくり動きはじめている。
「忘れ物ない?」
母が聞く。
雫は鞄の中をもう一度だけ確かめた。
「たぶん、大丈夫」
「たぶん、でいいよ」
そう言って、母はハンカチを一枚追加で差し出した。
「これは予備。何かこぼしたとき用」
「そんなにこぼさないよ」
「宙くんなら確実にこぼすけどね」
その名前が出た瞬間、雫は思わず笑った。
「たしかに」
笑ったことで、胸の緊張が少しほどけた。
玄関で靴を履くとき、母はいつものように見送りに出てきた。
でも今日は、雫の肩のあたりを一度だけ見て、やわらかく言った。
「大丈夫。楽しんでおいで」
その言葉に、雫は少しだけ目を見開いた。
大丈夫。
そのあとに続いたのが、“気をつけて”でも“ちゃんとして”でもなく、“楽しんでおいで”
だったからだ。
「……うん」
雫は小さくうなずいた。
玄関を出ると、朝の空気は少しひんやりしていた。
でも冷たすぎない。
深く吸い込むと、胸の奥まできれいに入ってくる。
駅までの道を歩きながら、雫は自分の足音を聞いていた。
今日は、ただ学校へ行くだけではない。
海の見える場所へ行く。
班のみんなと歩く。
まだ見ていない一日が、これから始まる。
不安はゼロではない。
人が多い場所で疲れるかもしれない。
途中で少し息が浅くなるかもしれない。
でも、それでも行きたいと思っている自分がいる。
その気持ちが、雫には少しうれしかった。
学校に着くと、校門の前にはすでに何人かの生徒が集まっていた。
朝の光の中で、しおりを持つ手や、リュックの色が目に入る。
いつもの教室前のざわめきとは違う、外の空気に混じったにぎやかさだった。
「雫」
その声に、雫はすぐ振り向いた。
湊が立っていた。
肩に鞄をかけ、手にはしおりを持っている。
いつもと同じように落ち着いた顔をしているのに、どこか少しだけ朝の光にやわらかく見えた。
「おはよう」
「おはよう」
その短いやりとりだけで、雫の呼吸はひとつ深くなった。
会えた。
それだけで、今日の輪郭が少しはっきりする。
「ちゃんと来たな」
湊が言う。
雫は少し笑った。
「うん。ちゃんと来た」
「いいじゃん」
その言葉は軽かった。
でも、軽いからこそ、雫の胸にはすっと入った。
桜井さんが少し離れたところから「おはよー! みんな早いね!」と手を振っている。
三村くんはすでに「朝からもう眠い」とぼやいていて、先生に「まだ出発してないぞ」と笑わ
れていた。
そのやりとりを見て、雫はふと気づく。
今日は、教室の中より空が広いぶん、人の声が少しだけやさしく聞こえる。
同じにぎやかさでも、外の朝の中では息が詰まりにくい。
点呼が始まり、班ごとに並ぶ。
雫はしおりを持つ手に少し汗を感じた。
でも、それはもう“帰りたい”感じの緊張ではなかった。
これから何かが始まる前の、ちゃんと前を向いたざわめきだった。
「大丈夫?」
桜井さんが明るく聞く。
雫は一瞬だけ迷って、それから素直に答えた。
「うん。ちょっと緊張してるけど」
すると桜井さんは笑って言った。
「私も。遅刻してないのに、なんか緊張する」
三村くんが「それは珍しいな」と言って、みんなで少し笑う。
その笑いの中に、雫もちゃんと入っていた。
バスに乗り込む直前、雫は校舎のほうを振り返った。
いつもの窓。
いつもの廊下。
いつもの自分の席がある場所。
そこから今日は、外へ出る。
大きな冒険ではない。
でも、今の雫にとってはたしかな一歩だった。
「雫」
また湊の声がして、雫は振り向く。
「窓側、座る?」
「え?」
「海、途中で見えるかもしれないし」
その言い方があまりにも自然で、雫は少しだけ笑った。
「……うん。座りたい」
「じゃあ、どうぞ」
湊が軽く手で示して、雫を先に通す。
バスの窓際に座ると、ガラスの向こうの朝の光が少し近くなった。
しばらくして、湊が隣に座る。
エンジンの低い音が足元に伝わってきた。
先生の声。
点呼の返事。
友達の笑い声。
動き出す前の小さなざわめき。
その全部の中で、雫は窓の外を見た。
空はもうすっかり朝になっている。
明日はちゃんと来る。
祖母の言葉は本当だった。
そして今日は、その朝から、ちゃんと出発できる。
バスがゆっくり動き出す。
その瞬間、雫は胸の奥で静かに思った。
こわくてもいい。
不安でもいい。
それでも、自分の足でここまで来た。
そして今、ちゃんと前へ進んでいる。
それだけで、今日はもう十分に始まっていた。
雫はこの日、
“こわくても前へ進める”ということを知りました。
不安があってもいい。
胸がざわついてもいい。
それでも、自分の足で外へ出られる。
母の
「楽しんでおいで」
という言葉は、
雫の背中をそっと押す灯りでした。
そして湊の
「ちゃんと来たな」
という一言は、
雫の朝を静かに肯定する風でした。
朝はちゃんと来る。
そして、雫はその朝にちゃんと立てる。
宙は、この章の光をこう言っています。
――「朝ってね、心が前に向いてるときほど
やさしく見えるんだよ。
わらわら……」
読んでくださり、ありがとうございました。




