第二十八話 前の日のしずけさ
この章は、校外学習の前日という
“まだ何も起きていない時間”を描いた物語です。
楽しみと不安が混ざり合う前の日。
家の中の静けさが、いつもより少しだけ落ち着かない。
でも、その落ち着かなさは、心が明日のほうへ歩きはじめている証。
母の声。
祖母の言葉。
宙くんの不思議な観察。
そして、澪のような静かな気配。
雫はその全部に支えられながら、
“見えていない明日”をこわがりすぎずに迎えようとする。
前の日の静けさが、
雫の中でひとつの道になる章です。
第二十八話 前の日のしずけさ
校外学習の前日、家の中はいつもより少しだけ落ち着かない静けさに包まれていた。
朝から雫は、しおりを何度も開いては閉じていた。
持ち物の欄を見て、また戻り、集合時間を見て、行き先の地図を見て、もう一度閉じる。
忘れ物をしたくないという気持ちもあった。
でもそれだけではない。
胸の奥にある小さなそわそわが、じっとしていられなくしていた。
学校から帰ると、居間のテーブルの上には、きれいにたたまれたハンカチと、小さな保冷剤が
置かれていた。
「これ、明日使うでしょう」
台所から母が言った。
鍋のふたの音と、包丁の小さな音が続いている。
「うん、ありがとう」
雫が返すと、母は顔を出して笑った。
「お弁当、何がいい?」
「え?」
「前日の特権。ひとつだけ希望を聞きます」
その言い方が少しおかしくて、雫は笑った。
「そんな制度あったっけ」
「今日からできました」
母はそう言って、また台所へ引っ込む。
こういうところが、前とは違っていた。
前ならきっと、母は「持ち物見たの?」「早く準備しなさいよ」と先に言っていたかもしれな
い。
それはそれで愛情だったのだろうけれど、いまは少し違う。
同じ心配でも、急かす形ではなく、一緒に前の日を整えてくれるようになっていた。
雫はテーブルの上のハンカチを手に取った。
やわらかくて、少しだけ洗剤の匂いがする。
そのとき、玄関のほうで元気な声がした。
「こんにちは。本日は、前日確認に来ました」
宙くんだった。
「前日確認?」
雫が笑うと、文子さんが後ろから「ちょっと寄っただけよ」と苦笑している。
宙くんはきちんと靴をそろえてから上がってきて、居間のテーブルを見るなり、うなずいた。
「準備が進行していますね」
「進行しています」
雫が合わせると、宙くんは満足そうに言った。
「それは良いことです。前日に落ち着かないのは、明日がちゃんと来る証拠です」
母が台所で吹き出した。
「宙くん、ほんとに五歳?」
宙くんは真剣な顔で言った。
「いまのところ、そうです」
文子さんが「いまのところって何よ」と笑う。
その笑い声が家の中に広がると、雫の胸のそわそわも少しだけやわらいだ。
宙くんはテーブルの上のしおりをのぞき込んだ。
「海、見えるんですね」
「うん」
「それは、かなり重要です」
「なんで?」
「海が見えると、人の気持ちは少し整理しやすいからです」
雫は思わず宙くんを見た。
本人は本気なのか、自然に出てきたのか分からない顔をしている。
「……またすごいこと言う」
「今日は前日なので、少し深くなっています」
雫は声を立てて笑った。
母も文子さんも笑っている。
その笑いの中で、雫はふと気づいた。
家の空気が、前より明るい。
ただ静かなだけではなく、人の声があっても苦しくなりすぎない静けさに変わってきている。
夕方になって、文子さんと宙くんが帰ると、居間にはまた穏やかな静けさが戻った。
台所からは、だしの匂いが流れてくる。
母はお弁当用のおかずを少し取り分けながら、冷蔵庫の中をのぞいていた。
「雫」
「うん?」
「明日、少し緊張してる?」
雫は少し考えてから、正直にうなずいた。
「うん。ちょっと」
母はそれを聞いても、すぐには何も言わなかった。
ただ、手を動かしながら、やがて静かに言った。
「おばあちゃん、昔よく言ってたのよ」
雫は顔を上げた。
「楽しみの前の不安はね、心が先に歩きだしてる証拠だって」
その言葉に、雫は思わず祖母の顔を思い出した。
あの、少し芝居がかったような、でもほんとうにやさしい目。
「心が先に……」
「うん。だから、不安があるからだめなんじゃないの。むしろ、明日のほうをちゃんと向いて
るから、落ち着かないのよって」
母はそう言って、保冷バッグの口を閉じた。
「私も、小さいころ遠足の前は眠れなかったなあ」
「お母さんも?」
「もちろん」
母は笑った。
「おばあちゃんに“早く寝なさい”って言われると思ったら、逆だったの。“眠れないなら、
眠れないままでも大丈夫。明日はちゃんと来るから”って」
雫はその言葉を胸の中で何度か繰り返した。
眠れないなら、眠れないままでも大丈夫。
明日はちゃんと来る。
祖母らしい進言だと思った。
無理に気持ちを変えようとしない。
でも、ちゃんと足元は見せてくれる。
夕食のあと、雫は自分の部屋で明日の持ち物を並べた。
しおり、筆記用具、ハンカチ、水筒、小さなお菓子。
ひとつずつ確認して、鞄に入れていく。
窓の外には、やわらかな月が出ていた。
机の上のコップの水に、その月の光が細く落ちている。
その光が、水面の上に小さな道をつくっていた。
雫はその道を見つめた。
そのとき、ふと心の中に、澪のような静かな気配が立った。
声はない。
はっきりした姿もない。
けれど、水の上に月が道をつくるみたいに、雫の内側に細く静かな導きが通る。
急がなくていい。
こわくてもいい。
でも、進むほうを見ているなら、それでいい。
そんなふうに、後ろからそっと支えてくれる気配だった。
雫は、その気配をこわいとは思わなかった。
むしろ、祖母の灯しとよく似た、やわらかなものに感じた。
祖母は暮らしの言葉で、足元を照らしてくれた。
澪は水の気配みたいに、心の奥の呼吸を整えてくれる。
どちらも強く引っぱるのではなく、静かに道を見せてくれる存在だった。
雫は椅子に座り、ノートを開いた。
少しだけ迷ってから、書く。
家庭は、いつのまにか少し変わっていた。
前よりも、言葉を置いてもいい場所になっていた。
そこまで書いて、鉛筆を止める。
それはたぶん、母が変わっただけではない。
雫自身も、家の中で少しずつ呼吸を戻してきたからだろう。
ランタンが居間の棚に置かれたこと。
文子さんや宙くんが出入りして笑いが増えたこと。
祖母の言葉が思い出ではなく、今の暮らしの中で生きはじめていること。
そういうもの全部が、家を少しずつ変えてきた。
雫は、もう一行書き足した。
祖母は、明日はちゃんと来ると言った。
澪のような静かな気配は、急がなくていいと教える。
その言葉を書いているうちに、胸の中のそわそわは少しだけ形を変えた。
不安が消えたわけではない。
でも、それはもう、ただ苦しいものではなかった。
行きたい気持ちと、少し怖い気持ちが、同じ場所に静かに並んでいる。
寝る前、母が部屋をのぞいた。
「準備、終わった?」
「うん」
「そっか。じゃあ、あとは寝るだけだね」
雫は少し笑った。
「眠れなかったら?」
母は戸口にもたれたまま、やわらかく言った。
「そのままでいいよ。明日はちゃんと来るから」
祖母の言葉が、そのまま母の声になっている。
雫はそれが、なんだか少しうれしかった。
「うん」
電気を消すと、部屋の中は月の明かりだけになった。
コップの水面に、まだ細い光の道が見える。
雫は布団の中で、静かに息をついた。
明日はまだ見えていない。
でも、見えていないことが前より少しこわくない。
家の灯しがあり、祖母の進言があり、澪のような静かな導きがある。
そして、学校には、会いたいと思う人もいる。
それだけで、明日の形は少しだけやさしく見えた。
雫はこの日、
不安と楽しみが同じ場所に静かに並んでいることを受け入れました。
不安があるからこそ、心は明日のほうへ向いている。
楽しみがあるからこそ、そわそわがやさしく形を持つ。
母の
「眠れないなら、そのままでいいよ」
という言葉は、祖母の灯しをそのまま受け継いだ声でした。
そして、澪のような静かな気配は、
雫の心の奥に細い道をつくり、
“急がなくていい”というやわらかな導きを置いていく。
前の日の静けさは、
ただの不安ではなく、
明日へ向かう心の準備。
宙は、この章の夜をこう言っています。
――「静けさってね、心が明日を迎えるための
やわらかい布団みたいなものなんだよ。
ふわぁ……」
読んでくださり、ありがとうございました。




