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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第二十七話 楽しみの輪郭

この章は、雫が“楽しみ”という気持ちを

初めて自分の言葉で触れられるようになる物語です。


不安がなくなったわけではない。

人の声に疲れる日もある。

それでも、胸の奥に小さな明るさが生まれる。


行きたいかもしれない。

見たいかもしれない。

その“かもしれない”が、雫の中で静かに形を持ちはじめます。


楽しみは、急に大きくなるものではなく、

少しずつ輪郭が見えてくるもの。


その輪郭が、雫の明日をそっと照らす章です。


第二十七話 楽しみの輪郭

校外学習まで、あと三日になった。

朝のホームルームで担任がそう言うと、教室の空気が少しだけ明るく揺れた。

後ろの席では桜井さんが「やっとだー」と声をあげ、三村くんは「早起きだけが心配」と机に

突っ伏している。

誰かがしおりをぱらぱらめくり、別の誰かが持ち物の確認をしていた。

そんな教室のざわめきを聞きながら、雫は自分の机の上に置いたしおりを見つめていた。

前の自分なら、こういう“みんなで楽しみにしている予定”を、少し遠いもののように感じて

いたかもしれない。

行ってしまえば何とかなる。

でも、その前のざわざわした期待の中には、うまく入れない。

そんなふうに思っていた気がする。

けれど今は、少し違っていた。

まだ落ち着かない。

人の声が重なると、呼吸が少し浅くなることもある。

でも、その中に自分の気持ちがまるでないわけではなかった。

しおりの行き先を見るたび、胸の中に小さな輪郭のようなものが生まれる。

それはきっと、楽しみなのだ。

「雫、しおり見てる?」

隣の列から桜井さんが身を乗り出した。

「うん」

「お昼、どこで食べるか決めた?」

「まだ」

「うちらの班、せっかくだから海の見えるところがよくない?」

その言葉に、雫は自然に顔を上げた。

「海、見えるんだ」

「見える見える。三村くんが昨日、地図で探してた」

「俺、そんな役だったっけ」

三村くんがのんびり口をはさむと、教室の後ろで小さな笑いが起きた。

湊はそのやりとりを聞きながら、机の上のしおりに指を置いていた。

「ここ」

湊が地図の一か所を指す。

「昼の時間なら、光もきれいだと思う」

雫はその指先を見た。

海沿いの公園の名前。

ベンチの印。

遊歩道の線。

「……そこ、いいかも」

自分の口から、自然にそんな言葉が出た。

桜井さんがすぐに「じゃあ決まりね」と笑い、三村くんも「海見ながらごはん、いいじゃん」

とうなずく。

会話はいつものように流れていく。

でも雫の中には、その“いいかも”を自分で言えたことが、小さく残っていた。

いいかも。

行きたいかもしれない。

見たいかもしれない。

そういう気持ちを、前より少しだけそのまま口に出せるようになっている。

一時間目が始まり、先生の声が教室に広がる。

でも今日は、机の中のしおりの存在がどこか気になっていた。

まだ行っていない場所。

でも、もう少しで行く場所。

その“まだ”と“もう少しで”のあいだに、やわらかい明るさがある気がした。

二時間目のあとの休み時間、雫は窓際でしおりをもう一度開いた。

行程。

集合時間。

班行動の地図。

見学先の簡単な説明。

文字を目で追っているうちに、不意に隣から声がした。

「珍しいな」

湊だった。

「なにが?」

「そんなにしおり見てるの」

雫は少し照れた。

「……ちょっとだけ、楽しみなのかも」

言ったあとで、自分の言葉に自分で少し驚いた。

けれど、もう引っ込める気にはならなかった。

湊は一瞬だけ目を細めて、それから静かに笑った。

「そっか」

その“そっか”は、前みたいに驚きもからかいもなくて、ただ自然に受け取ってくれる音だっ

た。

「前は、こういうの苦手だった気がする」

雫が小さく言うと、湊は窓の外へ目を向けた。

「今も、得意ってほどじゃないんだろ」

「うん」

「でも、楽しみは楽しみなんだ」

雫はその言葉を聞いて、少しだけ胸の中が整うのを感じた。

そうなのだ。

不安がなくなったわけじゃない。

朝が少し苦しい日もあるし、人が多いと疲れる。

でも、それと楽しみは両立するのかもしれない。

片方しか持てないわけじゃない。

「……うん」

雫はしおりを閉じて、笑った。

「両方ある」

湊も小さくうなずいた。

「それでいいんじゃない」

その言葉は、雫にとって今日いちばんしっくりくる言い方だった。

昼休み、雫は図書室へ行く代わりに、教室の自分の席に残った。

窓を少しだけ開けると、外の風が薄く入ってくる。

教室はにぎやかだ。

パンの匂い、笑い声、椅子を引く音。

でも今日は、その中にいても、少しだけ大丈夫だった。

桜井さんが「雫、お菓子持っていく?」と聞きにきて、三村くんが「持ってくるなら交換しよ

うよ」と言う。

雫はそのやりとりにちゃんと加わりながら、ときどき窓の外を見た。

青い空の端に、薄い雲がひとつ流れている。

そこにいる。

話も聞く。

たまに自分の言葉も出す。

そして疲れたら、窓の外を見る。

そのやり方が、少しずつ自分のものになってきていた。

放課後、班で最後の軽い確認をしたあと、桜井さんが「じゃあ当日は遅れないこと!」と妙に

先生っぽい口調で言って、みんなで少し笑った。

三村くんが「それ、おまえが一番危ないだろ」と言い返し、また笑いが広がる。

その笑いの中で、雫はふと気づいた。

いま、自分はちゃんとこの輪の中にいる。

無理に目立っているわけじゃない。

でも、遠くで見ているだけでもない。

それが、うれしかった。

帰る支度をしているとき、湊がしおりを机に軽くたたきながら言った。

「海、晴れるといいな」

雫は振り向いた。

「うん」

「雫、海見えるとこ好きそうだし」

「……湊もでしょ」

そう返すと、湊は少しだけ笑った。

「まあ、否定はしない」

二人で教室を出て、廊下を歩く。

窓の外は、もう夕方へ向かう光に変わりはじめていた。

「校外学習って、ただの学校行事だと思ってたけど」

雫がぽつりと言うと、湊が「うん」と返す。

「でも、最近ちょっと違う気がする」

「どう違う?」

雫は少し考えてから答えた。

「前は“ちゃんと行かなきゃ”のほうが大きかった。今は……行ってみたい、も少しある」

湊はその言葉を、ゆっくり受け取るみたいに黙っていた。

それから短く言った。

「いい変わり方だな」

雫は、その言葉に少し笑った。

いい変わり方。

たしかにそうかもしれない。

家に帰ると、母が洗った布巾をたたんでいた。

雫が「ただいま」と言うと、母は顔を上げて、すぐに何かを感じ取ったみたいに言った。

「今日はちょっと明るいね」

「そうかな」

「そうだよ。何か楽しみでもある顔」

雫は靴を脱ぎながら、少しだけ考えた。

それから、前より素直に答えられる気がした。

「……校外学習、少し楽しみかも」

母はその言葉に、やわらかく笑った。

「そっか。それはいいね」

たったそれだけなのに、雫の胸の中でその気持ちは少しだけ確かなものになった。

夜、机の前でノートを開く。

しおりは横に置いたままだ。

雫はその端を見ながら、ゆっくり書いた。

楽しみって、急に大きくなるものじゃない。

少しずつ輪郭が見えてくるものなのかもしれない。

それから、もう一行。

不安があっても、楽しみにしていい。

両方あるままで、前を向ける日がある。

書き終えると、雫はしおりを手に取った。

ただの紙。

でも、その紙の向こうに、自分がまだ見ていない景色がある。

海の見えるベンチ。

班のみんなの声。

歩く道。

その中にいる自分。

まだ全部は想像しきれない。

でも、その“まだ”の中に、今日はちゃんと明るさがあった。

窓の外では、夜の手前の風がやさしく木を揺らしていた。

雫はノートを閉じ、しおりをそっとはさむ。

楽しみ、という気持ちは、どうやら静かな灯りにもなれるらしい。

そう思えた夜だった。

雫はこの日、

“楽しみ”という気持ちを初めて自分の言葉で認めました。


不安があってもいい。

疲れる日があってもいい。

そのままで、楽しみを持ってもいい。


湊の

「楽しみは楽しみなんだ」

という言葉は、

雫の中の揺れをそっと整える灯りになりました。


楽しみは、強くなくていい。

大きくなくていい。

ただ、輪郭が見えるだけで十分。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「楽しみってね、

   心の中に小さな窓が開くことなんだよ。

   そこから光が入ってくるの。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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