第二十五話 渡した言葉の行方
この作品の核として見える言葉
整理すると、この作品の芯はこの三つです。
雫
言葉にならなかった気持ちが、ようやく一滴の形を持つこと。
灯し
人生すべてを照らす奇跡ではなく、次の一歩だけを見せる小さな光。
静かな海
孤独の象徴ではなく、気持ちを受けとめ、明日へつなぐ場所
第二十五話 渡した言葉の行方
本を返した次の日、雫は朝から少し落ち着かなかった。
大きな出来事があったわけではない。
学校へ行けば、きっといつも通り授業があって、休み時間があって、放課後になれば空の色が
変わる。
それでも、胸の奥には小さなざわめきが残っていた。
自分の言葉を、誰かに渡した。
ほんの一行だけ。
それなのに、そのことが思っていたよりずっと大きく感じられる。
居間では、母が朝の味噌汁をよそっていた。
湯気がのぼり、窓の外ではまだ早い光が庭に落ちている。
「なんだか今日は、静かにそわそわしてるね」
母が言った。
雫は箸を持ちながら、少しだけ笑った。
「静かにそわそわって、変な言い方」
「でもそんな感じ」
母は何でもない口調で言って、雫の前に味噌汁を置く。
雫は椀を見つめた。
母には、やっぱり少し見えてしまうらしい。
「昨日……ちょっとだけ、自分で書いたことを話したの」
そう言うと、母は「ああ」とだけ返した。
驚かない。
でも軽くもしない。
その間合いが、ありがたかった。
「どうだった?」
雫は少し考えてから答えた。
「……うれしかった。でも、ちょっとこわかった」
母は静かにうなずいた。
「そうだろうね」
「変だったらどうしようとか、重かったらどうしようとか、あとから少し考えちゃって」
それを口に出してみると、自分が思っていたよりずっと不安だったことに気づく。
受け取ってもらえた。
でも、だからこそ、今度はその“受け取ってもらえたこと”自体が、少し怖いのだ。
母は味噌汁の椀を手にしたまま、ぽつりと言った。
「言葉って、口に出したあとで急に心配になることあるよね」
雫は顔を上げた。
「お母さんも?」
「あるよ。今でもある」
母は少し笑った。
「でもね、ちゃんと受け取ろうとしてくれる相手なら、言葉は思ったより乱暴に扱われないも
のだよ」
その言葉は、やさしく雫の胸に入ってきた。
ちゃんと受け取ろうとしてくれる相手。
雫は、昨日の図書室の湊の顔を思い出した。
すぐに何かを言い返すのではなく、一度静かに受け止めてくれた目。
「……うん」
そのひと言だけで、少し呼吸がほどける。
学校では、昨日の続きみたいな空気が、うっすらと残っていた。
何か特別なことが起きたわけではない。
湊もいつも通りで、朝は「おはよう」と言い、授業中は静かにノートを取り、昼休みには桜井
さんの話を半分聞き流していた。
それなのに、雫のほうは少しだけ落ち着かない。
昨日、言葉を渡してしまったからだろうか。
相手がそれを覚えているのかどうかさえ、少し気になってしまう。
三時間目のあと、短い休み時間に湊が雫の机の横へ来た。
「雫」
「うん?」
「昨日の言葉、まだ残ってる」
あまりにも自然に、でもまっすぐ言われて、雫は一瞬だけ息を止めた。
「……え?」
湊は窓の外を見ながら言った。
「海は急かさない、ってやつ」
雫の胸の奥で、何かが小さくあたたかくなる。
覚えていた。
ちゃんと残っていた。
しかも、それを軽く流さずに、湊はこうして返してきた。
「そうなんだ」
雫がやっとそれだけ言うと、湊は小さくうなずいた。
「うん。なんか、いいなと思って」
それだけだった。
でも、その“いいな”は、昨日もらった言葉よりさらに静かで、さらに深く、雫の中へ残った。
午後の授業は、その一言の余韻を抱えたまま過ぎていった。
黒板の文字も、先生の声も、どこか少し遠い。
けれど、ぼんやりしているわけではない。
自分の中で、渡した言葉がちゃんと向こうへ届いて、そしてまた戻ってきたことを、雫はずっ
と感じていた。
放課後、まっすぐ帰るつもりだったのに、気づくとまた海へ向かっていた。
防波堤に着くと、風は少しだけ強かった。
でも空は明るく、海の表面には細かい光が揺れている。
雫はいつもの場所に座った。
言葉を渡すこと。
それは、思っていたより怖い。
自分の中から切り離して、誰かの前へ置くのだから、当然なのかもしれない。
でも、ちゃんと受け取ってもらえたとき、その言葉は消えてしまうのではなく、むしろ前より
少しだけ息をしやすくなる。
「不思議だな……」
雫がつぶやくと、風がひとつ、髪を揺らした。
海はやっぱり何も言わない。
でも、雫にはそれでよかった。
何も言われないからこそ、自分の中の答えが少しずつ浮かんでくる。
言葉は、渡したら減るわけじゃない。
うまく受け取ってもらえたとき、少しだけ広がるのかもしれない。
祖母の灯しも、そうだった。
ひとつの火から、別のあたたかさが生まれていく。
母の言葉も、宙くんの不思議な一言も、結菜の「一緒だとそんなに暗くなかった」も、みんな
そうだ。
そこへ、足音が近づいてきた。
「また来てたのか」
吉岡さんだった。
「こんにちは」
「こんにちは。……今日は、前より顔がほどけてるな」
「そうですか」
「そうだ」
吉岡さんは雫の少し横に立ったまま、海を見た。
「何か、届いた顔してる」
雫は、その言い方に少し驚いて、それから笑った。
「吉岡さんって、時々すごいですね」
「年の功だ」
雫は海を見たまま言った。
「書いた言葉を、人に少しだけ話したんです」
「ほう」
「そしたら、ちゃんと覚えててくれて……それが、うれしくて。でも、ちょっとこわくて」
吉岡さんは「うん」と短く返した。
「大事なもんほど、渡すときは少し怖い」
「やっぱりそうですか」
「当たり前だ。なんでも平気で渡せるなら、最初からそんなに大事じゃない」
その言葉に、雫は静かにうなずいた。
大事だから、こわい。
こわいのに、渡したくなる。
それはきっと、信じてみたい相手がいるからなのだ。
吉岡さんは少ししてから言った。
「でも、ちゃんと受け取られたなら、それはよかったな」
「はい」
「なら、その“よかった”を覚えとけ」
雫はその言葉を胸の中で繰り返した。
よかった、を覚えておく。
不安や怖さばかりではなく、ちゃんと届いたときのあたたかさを、見失わないように。
夕方の光が、海の上で長く伸びていた。
雫はその光を見ながら、少しだけ深く息を吸う。
家に帰ると、居間にはランタンが置かれたままだった。
火は灯っていない。
でも、そこにあるだけで部屋の空気が少しやわらかい。
母が台所から「おかえり」と声をかける。
その声にもまた、変わらず小さな灯しがある。
夜、机の前に座ってノートを開く。
雫は少しだけ迷ってから、ゆっくり書いた。
言葉を渡すのは、少しこわい。
でも、ちゃんと受け取ってもらえると、言葉は消えないで、少しだけ広がる。
そこまで書いて、鉛筆を止める。
そして、もう一行。
怖さのあとに残る“よかった”を、忘れないでいたい。
書き終えたあと、雫はそのページをしばらく見つめていた。
自分の言葉が、前より少しだけまっすぐに見える。
窓の外では、夜の風がそっと木々を揺らしている。
雫はノートを閉じ、ランタンの置かれた棚を見た。
灯しは、火だけではない。
渡して、受け取って、また残っていくもの。
言葉もたぶん、そのひとつなのだ。
その夜、雫の呼吸は少しだけ深く、静かだった。
雫はこの日、
自分が渡した言葉が湊の中に残っていたことを知りました。
「昨日の言葉、まだ残ってる」
その一言は、
雫が思っていた以上に深く胸へ届きます。
言葉を渡すのはこわい。
でも、ちゃんと受け取ってもらえたとき、
その言葉は消えずに、むしろ広がっていく。
吉岡さんの
「大事なもんほど、渡すときは少し怖い」
という言葉も、雫の胸に静かに灯ります。
怖さのあとに残る“よかった”。
その小さな灯りを、雫は忘れずに抱きしめようとします。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「渡した言葉ってね、
相手の胸でいったん呼吸してから、
やわらかく戻ってくるんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




