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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第二十四話 返す言葉

この章は、雫が“受け取ったものを返す”という

小さくて大きな一歩を踏み出す物語です。


青い表紙の本。

静かな海の気配。

湊の言葉。


それらを胸の中でゆっくり温めて、

雫は初めて、自分の言葉を相手へ返そうとします。


ただ返すだけではなく、

自分の中に生まれたものを添えて返すこと。


その小さな往復が、

雫と湊の距離をそっと近づけていきます。


第二十四話 返す言葉

雨の翌日、空はきれいに晴れていた。

雫は朝の光の中で、青い表紙の本を鞄に入れた。

昨夜、最後のページまで読み終えたあと、しばらく机の上に置いたまま眺めていた本だ。

読み終えたのに、すぐには閉じられなかった。

海辺の町の静けさも、言葉にしきれない人の気配も、どこか自分の中へ薄く残っていて、それ

が簡単にはほどけなかったからだ。

表紙をそっとなでてから、雫は本を鞄へしまった。

今日は、返す。

ただ返すだけのはずなのに、朝から胸の奥が少し落ち着かなかった。

返すとき、何を言おう。

おもしろかった、だけでは少し足りない気がする。

でも、たくさん話せるほど、自分の気持ちをうまく並べられる自信もない。

そんなことを考えながら学校へ着くと、教室にはまだ朝の静けさが少し残っていた。

湊は、すでに席にいた。

机に頬杖をついて、開いたノートの端に何か小さく書いている。

雫はその姿を見て、少しだけ呼吸を整えた。

そして鞄を置き、自分の席に座ってから、振り向いた。

「おはよう」

湊が顔を上げる。

「おはよう」

その短いやりとりのあと、雫は机の横に掛けた鞄へ目をやった。

本の重みが、そこにちゃんとある。

一時間目、二時間目が過ぎても、雫はなかなかその本を出せなかった。

返そうと思えば、朝でも休み時間でもよかったはずなのに、なぜか“いまじゃない”気がする。

きっと、ただ物を返すだけではなく、自分の中で何かも一緒に返したいと思っているからだろ

う。

昼休み、教室のざわめきがいちばん濃くなったころ、湊が席を立った。

窓際の席から外を見て、それから本を持っていないほうの雫の机へ視線を向ける。

「図書室、行く?」

唐突でもなく、でも回り道もしない聞き方だった。

雫は少しだけ驚いてからうなずいた。

「うん」

図書室は昼休みのわりに空いていた。

窓から入る光が、本棚の背を静かに照らしている。

奥のほうの机に向かい合って座ると、雫はようやく鞄から青い表紙の本を取り出した。

「これ」

湊が本を見る。

「読み終わった?」

「うん」

雫は両手で本を持ったまま、少しだけ笑った。

「返すの、ちょっと惜しかった」

湊はそれを聞いて、目元を少しやわらげた。

「そんなに?」

「うん。……落ち着いたから」

そう言いながら本を差し出す。

湊は受け取ると、表紙に指を置いてから言った。

「どこが一番好きだった?」

前にも似たようなことを聞かれた。

でも今日は、前より少しだけ答えやすい気がした。

雫は窓の外を見た。

図書室の向こうに見える空は、昨日の雨が嘘みたいに明るい。

「海辺のベンチの場面も好きだったけど」

「うん」

「最後のほうで、何も解決してないのに、その人がちゃんと朝を迎えるところが好きだった」

湊は黙って聞いている。

雫は続けた。

「全部うまくいかなくても、朝が来ることってあるんだなって思った」

それは本の感想でありながら、どこか自分のことでもあった。

湊も、それが分かったのかもしれない。

本を机の上に置いたまま、静かにうなずいた。

「……うん」

それだけで、雫は少しだけ安心した。

「湊は?」

雫が聞く。

「この本の、どこがいちばん好きなの?」

湊は少し考えた。

それから、しおりをはさんでいたあたりを指で軽くなぞる。

「海がちゃんと海のままいるところ」

「海のまま?」

「人の気持ちに合わせて、急に優しくなったり、都合よく答えたりしないだろ」

雫は、その言葉に小さく笑った。

「たしかに」

「でも、見てると少し落ち着く」

「うん」

「それがいい」

本当に湊らしい言い方だと思った。

大げさに語らない。

でも、言葉を選んでいないわけでもない。

そのちょうどあいだに、この人の静けさがある。

しばらく沈黙が落ちた。

図書室の遠いところで、本を戻す音がひとつだけする。

雫は机の上で指先を重ねた。

ここで終わってもよかった。

本を返して、感想を言って、それで十分な昼休みだ。

でも今日は、もう少しだけ返したいものがあった。

「あのね」

自分から言葉を出すと、湊が顔を上げた。

「この本を読んでて、私も少し書いた」

「書いた?」

「うん。ノートに」

言ってから、少しだけ緊張した。

自分のノートのことは、まだほとんど誰にも話していない。

母に少し知られているくらいで、学校では初めてだった。

湊は意外そうにしながらも、変に身を乗り出したりしなかった。

「どんなこと?」

雫はすぐには答えず、窓の外へ視線を逃がした。

言ってもいいだろうか。

まだ全部は無理だ。

でも、一行くらいなら。

「……海は急かさない。でも、何度でも呼吸を思い出させてくれる」

言い終わったあと、雫は自分の声が少しだけ揺れていたことに気づいた。

湊はしばらく黙っていた。

その沈黙が長すぎたらどうしよう、と雫が少し不安になりかけたころ、湊が小さく息をついた。

「それ、いいな」

雫は顔を上げた。

湊は冗談でも慰めでもない顔をしていた。

ただ、本当にいいと思ったときの、静かな目だった。

「雫の言葉って感じがする」

そのひと言が、雫には思っていたよりずっと深く沁みた。

借りた本の感想ではなく、自分の言葉を受け取ってもらった。

それが、こんなにも胸をあたためるとは思っていなかった。

「……恥ずかしい」

思わずそう言うと、湊が少しだけ笑った。

「言うと思った」

「だって、急に自分の言葉って言われると」

「でも、ちゃんと残る」

その言い方に、雫はまた少しだけ照れた。

静かだけど、残る。

前に自分が言われたことと、よく似ていた。

「ありがとう」

雫が言うと、湊は机の上の本に手を置いたまま、少しだけ首をかしげた。

「本、貸したお礼?」

「半分くらい」

「じゃあ、あと半分は」

雫は少し考えてから答えた。

「……聞いてくれたお礼」

湊はそれを聞いて、小さく笑った。

「そっか」

昼休みの終わりを知らせる予鈴が、廊下の向こうで鳴った。

二人は同時に立ち上がる。

本は湊の手元へ戻り、でもそこに挟まっていたものは、もう少し増えた気がした。

しおりみたいに、雫の一行が静かに残ったような気がしたのだ。

教室へ戻る廊下で、湊がふと言った。

「雫」

「うん?」

「また、何か書いたら聞かせて」

雫の胸が、小さく鳴った。

「全部は無理」

「全部じゃなくていい」

その返事が、雫にはうれしかった。

全部じゃなくていい。

少しずつでいい。

そう言われることが、自分にはとても合っている。

「……少しなら」

そう答えると、湊はやわらかくうなずいた。

午後の授業中、雫はノートを取りながら、昼休みの会話を何度も思い返していた。

本を返した。

感想も言えた。

そして、自分の言葉をひとつ返した。

それはとても小さなことだった。

でも、ただ受け取るだけではなく、自分の中にあるものを少し相手に渡せたことが、今日は特

別に思えた。

放課後、家に戻ってから雫は机の前に座り、いつものノートを開いた。

少しだけ考えて、書く。

借りた本を返した。

でも、本だけじゃなくて、自分の言葉も少し返せた気がする。

それから、もう一行。

受け取ってもらえると、言葉は少しだけ自分の中で息をしやすくなる。

書き終えて、雫は鉛筆を置いた。

窓の外では、夕方の光がやわらかく部屋へ入ってきている。

机の端には、もう青い表紙の本はない。

でも、そのかわりに、昼休みの静かな会話が残っていた。

返したのに、なくなった感じはしなかった。

むしろ、少しだけ近くなった気がした。

雫はノートを閉じ、そっと胸の前で呼吸を整えた。

借りたものを返すこと。

返しながら、自分のものも少し渡すこと。

そのやりとりは、思っていたよりあたたかかった。

雫はこの日、

借りた本を返すだけでなく、

自分の言葉をひとつ返しました。


「海は急かさない。でも、何度でも呼吸を思い出させてくれる」


その一行を、湊は静かに受け取ります。

大げさに褒めるわけでもなく、

軽く流すわけでもなく、

ただ“雫の言葉として”受け止める。


そのやりとりは、

本の貸し借り以上のものを二人の間に残しました。


言葉を返すこと。

受け取ってもらえること。

その往復が、雫の呼吸を少し深くしていきます。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「返す言葉ってね、

   心の灯りが相手のほうへそっと渡っていく瞬間なんだよ。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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