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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第二十三話 青い表紙の向こう側

この章は、雫が“湊という人の静けさ”に

初めてそっと触れる物語です。


青い表紙の本。

海辺の町の静かな呼吸。

大きな出来事は何も起きないのに、

胸の奥が少しずつ落ち着いていく物語。


その本を通して、雫は湊の中にある

“黙って寄り添う静けさ”を知りはじめます。


知りたいという気持ちは、

相手の心へ無理に踏み込むことではなく、

その静けさを大事にしながら近づく灯り。


そんな、やわらかな午後の物語です。


第二十三話 青い表紙の向こう側

その本は、思っていたより静かだった。

夜のあいだに雫は少しずつページをめくり、眠る前にも、朝起きてからも、短い時間を見つけ

て読んだ。

海辺の町に住む人たちの、小さな出来事ばかりが書かれている。

誰かが遠くへ行くわけでもなく、大きな秘密が明かされるわけでもない。

それなのに、読んでいると胸の奥のざわつきが少しずつ沈んでいく。

まるで、波の音を文字にしたような本だった。

学校へ持っていくと、鞄の中にその青い表紙があるだけで、少し安心した。

言葉にならないものを抱えたままでもいい、とその本が言ってくれている気がしたからだ。

昼休み、雫は窓際の席でその本を開いていた。

教室の中はにぎやかで、パンの袋を開ける音や、笑い声が重なっている。

でも本の中の海は静かで、その静けさが雫の呼吸を少し整えてくれる。

「そこまで読んだんだ」

声がして顔を上げると、湊が立っていた。

「うん」

雫は本を閉じて、表紙を見せた。

「思ってたより、ずっと好きだった」

湊は少しだけ目を細めた。

「そっか」

「なんか……大きいことが何も起きないのに、ちゃんと残る感じ」

「うん」

「それに、海が出てくるたび、すこし呼吸が楽になる」

そこまで言うと、湊は椅子の背に手を置いたまま、小さくうなずいた。

「それ、分かる」

雫は本の端を指でそっとなでながら聞いた。

「湊は、最初からこういう本が好きだったの?」

湊はすぐには答えなかった。

少しだけ視線を窓の外へ流してから、机の端に指を置いた。

「……最初からじゃない」

その言い方が、ほんの少しだけいつもより低かった。

雫は、それ以上急いで聞かなかった。

聞きたい気持ちはあった。

でも、言葉は海みたいなものだと、このごろ少し思う。

急かすと濁るし、待っていると、向こうから静かに寄せてくることがある。

湊はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「前は、もっと分かりやすい本ばっかり読んでた」

「分かりやすい?」

「話が速く進むやつ。何が起きて、どう決着つくか、はっきりしてるの」

「うん」

「でも、少し前に……そういうのが、しんどくなった時期があって」

雫は本を持つ手を少しだけ強くした。

教室のざわめきは続いている。

誰かが笑って、誰かが廊下へ出ていく。

けれど雫の周りだけ、空気が少し静かになった気がした。

「しんどくなったって?」

湊は苦笑に近い顔をした。

「家で、ちょっといろいろあったんだ」

その言葉は、軽くも重くもなかった。

ただ、そこに事実として置かれた感じだった。

雫はそれ以上すぐには聞かなかった。

聞いていいことと、いまはまだ聞かなくていいことのあいだに、小さな線がある気がしたから

だ。

湊はその沈黙を、嫌がる様子もなかった。

「別に、すごく大変だったとか、そういうんじゃないんだけど」

しばらくしてから、湊が続けた。

「父親が転勤で家を空けることが増えて、母親もずっと忙しくて。家にいても、なんかみんな

少しずつ別のところ向いてる感じがしてた」

その言葉に、雫は胸の奥が静かに動くのを感じた。

それは、派手な不幸の話ではない。

でも、だからこそ分かる気がした。

何かが壊れたわけではなくても、家の中の呼吸が少しずつ合わなくなること。

誰も悪くないのに、気持ちだけが置き場所を失っていくこと。

「それで、海の話を読むようになったの?」

湊はうなずいた。

「うん。静かなもののほうが、落ち着いた」

少し笑ってから、付け足す。

「変だろ」

雫は首を振った。

「変じゃない」

「そう?」

「うん。ちゃんと黙ってくれるもののほうが、助かる時あるから」

その瞬間、湊は雫を見た。

まっすぐで、でも押しつけない視線だった。

自分の言葉がちゃんと届いたのだと、雫には分かった。

「……雫って、そういう言い方するよな」

「どういう?」

「すぐ分かったふりしないけど、勝手に遠くにも行かない」

雫は少しだけ照れた。

そんなふうに言われたことがなかったからだ。

「それ、ほめてる?」

「たぶん」

ちょうどそのとき、桜井さんが後ろから「湊ー、次の時間のノート見せて」と声をかけてきた。

湊は「あとで」と短く返し、それから雫の机に目を落とした。

「その本、読み終わったら返して」

「うん」

「でも、急がなくていい」

その一言が、雫には本のことだけを言っているようには聞こえなかった。

急がなくていい。

読むのも。

知るのも。

相手の中へ入っていくのも。

午後の授業は、雨の前の空みたいに少し重かった。

窓の外の雲が厚くなり、教室の中の光も鈍くなる。

けれど雫の胸の中には、昼休みの会話が静かに残っていた。

湊にも、ちゃんと見えない場所がある。

ただ静かな人ではなくて、静かなものを必要としてきた人なのだ。

それを知ったことで、雫はうれしいというより、少しだけ大事なものを預かった気持ちになっ

た。

放課後、雨がぽつぽつ降り出した。

昇降口で傘を開こうとしたとき、雫の横で湊も立ち止まった。

「降ってきたな」

「うん」

「本、濡らすなよ」

その言い方が少しだけおかしくて、雫は笑った。

「そんなに大事なんだ」

「まあ、少しは」

湊はそう言いながら、自分の傘を開いた。

それから、ほんの少し迷うような間があって、雫のほうを見た。

「駅のほうまで、一緒に行く?」

雫は雨音を聞いた。

強くはないけれど、細かく続く雨だった。

「うん」

二人で並んで歩く。

傘の縁から落ちる雫が、アスファルトの上ではじける。

昨日までと同じ道なのに、今日は空気が少し違っていた。

黙っていても気まずくない。

でも、ただ静かなだけでもない。

お互いの中に見えない場所があると知ったからか、その沈黙は前より少しやわらかかった。

駅前の曲がり角で、湊がふと聞いた。

「本の中で、どこが一番好きだった?」

雫は少し考えた。

「海辺のベンチに一人で座ってる場面」

「なんで?」

「何も起きてないのに、その人の中では、ちゃんと何かが動いてる感じがしたから」

湊は小さく笑った。

「それ、雫が好きそう」

「またそれ言う」

「でもほんとだろ」

雫も少し笑った。

雨は細いまま続いている。

道の端の水たまりに、街の灯りがにじみはじめていた。

「湊」

雫が自分から名前を呼ぶ。

「ん?」

「話してくれて、ありがとう」

湊は少しだけ驚いた顔をした。

でもすぐに、いつもの静かな目に戻る。

「大した話じゃないよ」

「それでも」

雫がそう言うと、湊は少しだけ視線を落として、それから小さくうなずいた。

「……うん」

その一言だけで十分だった。

家に帰ると、母が玄関で「雨、降ったでしょう」とタオルを差し出してくれた。

雫は「うん」と返して、自分の部屋へ行く。

机の上に本を置く。

青い表紙は、昼間より少し深い色に見えた。

雫はノートを開いて書く。

静かな人の中にも、ちゃんと雨の降る場所がある。

それから、少し考えて、もう一行。

知るということは、近づくことだけじゃなくて、その人の静けさを大事にすることなのかもし

れない。

書き終えると、雫は鉛筆を置いた。

胸の奥が少しだけあたたかい。

それは、知れたことのうれしさと、知ってしまったことのやさしい重さが混ざった感じだった。

窓の外では、雨がまだ静かに降っている。

雫は青い表紙の本を見ながら、小さく思った。

もっと知りたい。

でも急がなくていい。

その距離が、いまはきっといちばん大切なのだ。


雫はこの日、湊の中にある“見えない場所”を

初めて静かに知りました。


家の呼吸が合わなくなること。

誰も悪くないのに、気持ちの置き場がなくなること。

静かなものを必要とした理由。


それは派手な秘密ではなく、

ただの“生活の中の寂しさ”でした。


だからこそ、雫はその言葉を

大事なものを預かったように受け取ります。


知るということは、

相手に近づくことだけではなく、

その人の静けさを壊さずにそばにいること。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「青い表紙の向こう側ってね、

   その人の心の海が静かに広がってる場所なんだよ。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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