第二十二話 知りたいという気持ち
この章は、雫が“誰かを知りたい”と思う気持ちに
初めて静かに触れる物語です。
湊の横顔、読む本、静けさの種類。
それらが少しずつ雫の目に入っていき、
ただ「そこにいる」だけだった存在が、
ゆっくりと輪郭を持ちはじめます。
知りたいと思うことは、
怖いことではなく、
その人の静けさに近づくための小さな灯り。
そんな、やわらかな午後の物語です。
第二十二話 知りたいという気持ち
次の日の午後、空は少し曇っていた。
白い雲が薄く広がり、教室の光もやわらかい。
強い日差しがないぶん、窓際の席は少し落ち着いて見えた。
雫はノートを閉じながら、ふと前のほうの席に目を向けた。
湊が、黒板を見ていた。
授業中の横顔は、いつも静かだ。
先生の話をちゃんと聞いているようにも見えるし、どこか少し別のことを考えているようにも
見える。
その曖昧な感じが、雫には前から少し気になっていた。
気がつくと、最近はそういう小さなことばかり目に入るようになっていた。
どんなふうに笑うのか。
どんなときに黙るのか。
誰かと話すとき、少しだけ声が低くなること。
席に座るとき、机の端を指で軽く整える癖。
前は、そこに「いる」と感じるだけで十分だった。
でも今は、もう少しだけ、その先を知りたいと思っている自分がいる。
それは雫にとって、新しい気持ちだった。
授業が終わり、短い休み時間になる。
教室のあちこちで椅子が鳴り、誰かが立ち上がって廊下へ出ていく。
雫は机の上に広げたプリントをまとめようとして、手を止めた。
湊の机の横に、文庫本が一冊置いてある。
見慣れない青い表紙だった。
休み時間のあいだ、湊が読むこともあるのだろうか。
雫は、そこに小さく挟まれた紙のしおりを見つめて、少しだけ気になった。
「それ、読むの?」
気づけば、そう聞いていた。
湊が振り向く。
「ん?」
雫は少しだけ指先で本を示した。
「あ、その本」
「ああ」
湊は本を手に取って、表紙を見た。
「たまに読む」
「どういう話?」
「海の出てくる話」
その答えに、雫は少し驚いて顔を上げた。
「海?」
「うん」
湊は本を指で軽くたたきながら言った。
「大きいことはあんまり起きないんだけど、読んでると少し落ち着く」
その言い方が、どこか海そのものみたいで、雫は思わず笑った。
「それ、湊っぽい」
「どういう意味だよ」
「ちゃんと説明しにくいけど……静かなのに、残る感じ」
この前、自分が言われた言葉を、今度は少しだけ返した形になった。
湊は一瞬だけきょとんとして、それから小さく笑った。
「それ、前に俺が言ったやつに似てるな」
「うん。ちょっと借りた」
「じゃあ、おあいこだな」
そのやりとりが、雫には妙にうれしかった。
自分の中に残っていた言葉が、こんなふうに相手へ返っていく。
それだけで、二人のあいだにほんの少しだけ橋がかかった気がした。
「読んでみる?」
湊が本を差し出す。
雫は少しだけ迷った。
相手のものを借りることは、その人の時間の一部を預かるみたいで、少し緊張する。
「いいの?」
「いいよ。読みかけじゃないし」
雫はそっと受け取った。
本は思ったよりあたたかかった。
たぶん、さっきまで湊が手にしていたからだろう。
「ありがとう」
「気に入らなかったら、途中でやめても平気だから」
「そんな言い方するんだ」
「本って、合う合わないあるし」
雫はその言葉にも、少し湊らしさを感じた。
無理に薦めない。
受け取る側が苦しくならない言い方をする。
そういうところが、この人の静かさなのかもしれない。
昼休み、雫はひとりで図書室へ行った。
ざわめきから少し離れたかったのもあるけれど、借りた本を少しだけ開いてみたかった。
窓際の椅子に座り、青い表紙をめくる。
最初の数行を読む。
海辺の町。
風の音。
夕方の色。
たしかに大きな出来事は起きていないのに、行間に静かな呼吸がある。
「……ほんとだ」
小さくつぶやく。
湊がこの本を読む理由が、少し分かる気がした。
落ち着くものを、ちゃんと知っている人なのかもしれない。
それとも、落ち着ける場所を探して読むようになったのかもしれない。
雫はページを閉じ、本の表紙をそっとなでた。
もっと知りたい。
その気持ちは、こういうところから始まるのかもしれない。
派手な秘密や、特別な過去ではなくて、どんな本を好きなのか、どんな静けさを心地いいと思
うのか。
その人が何に少し救われるのか。
それを知りたいと思うことが、今の雫にはとても大事に思えた。
放課後、帰り支度をしていると、湊が雫の机のそばへ来た。
「どうだった?」
「少しだけ読んだ」
「うん」
「たしかに、落ち着いた」
湊は少しだけ目元をやわらげた。
「そっか。よかった」
雫は本を胸の前で持ったまま、少し迷ってから言った。
「湊って、海、好きなの?」
聞いてから、少しだけ緊張した。
でもこれは、ただの会話というより、少しだけ相手の中へ入っていく問いだった。
湊はすぐには答えなかった。
少しだけ窓の外を見てから、静かに言った。
「好き、っていうより……ちゃんと黙ってくれる感じがして」
雫は、その答えに小さく息をのんだ。
ちゃんと黙ってくれる感じ。
それは、雫にとっても海の大事なところだった。
「分かる」
「雫も?」
「うん。分からないことを、急がせないところが好き」
湊は雫を見た。
ほんの短い時間だったけれど、その視線の中には“同じだ”という静かな驚きがあった。
「……そっか」
それだけの返事なのに、雫の胸は少しあたたかくなった。
もっと知りたいと思う。
そして、知るたびに少し安心する。
たぶんそれは、この人の中にも、自分と似た静けさがあるからだ。
校門までの道で、雫は本を鞄にしまわずに抱えて歩いた。
重くはない。
けれど、ただの紙の束以上のものを持っている気がした。
家へ帰ると、母が台所で野菜を切っていた。
「おかえり。それ、図書室で借りたの?」
「ううん」
雫は靴を脱ぎながら、少しだけ笑う。
「クラスの子に借りた」
母は包丁を止めて、ちらっと雫を見た。
でも、何もからかわなかった。
「へえ。いい本そうだね」
「うん。まだ少ししか読んでないけど、落ち着く感じ」
「それはいいね」
その自然さが、やっぱりありがたかった。
夜、机の前でノートを開く。
雫は少し考えてから、ゆっくり書いた。
もっと知りたいと思う。
それは、前より少し呼吸が深くなったからかもしれない。
それから、もう一行。
その人が、どんな静けさを好きなのか知ると、少しだけ近くなれた気がした。
書いたあと、雫は本の青い表紙を見た。
借りたもの。
でも、今日はそれが少しだけ、自分の心の地図の上にも置かれた気がする。
窓の外では、夜の風が静かに木を鳴らしていた。
雫は灯りを消す前に、本をそっと机の端へ置く。
誰かを知りたいと思うことは、怖いだけのものじゃない。
それは、やわらかく前へ進むための、もうひとつの灯しなのかもしれなかった。
雫はこの日、
湊の好きな本を知り、
その静けさに触れました。
派手な秘密ではなく、
大きな出来事でもなく、
“どんな静けさを心地よいと思うのか”
そんな小さな部分に触れることで、
雫は湊に少しだけ近づきます。
知りたいと思う気持ちは、
相手の中にある静けさを
そっと照らす灯りのようなもの。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「誰かを知りたいってね、
心の灯りが相手のほうへ伸びていく瞬間なんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




