第二十一話 自分から呼ぶ声
この章は、雫が“自分から声を出す”ことを
初めて選ぶ物語です。
会いたいと思う気持ち。
名前を呼びたいと思う気持ち。
その小さな揺れを、雫はもう怖がらなくなりはじめています。
自分から声をかける。
たったそれだけのことなのに、
雫にとっては大きな一歩でした。
“自分の声で風を動かす”
そんな静かな朝の物語です。
第二十一話 自分から呼ぶ声
次の日の朝、空は薄い雲におおわれていた。
晴れているわけでもなく、雨でもない。
白くやわらいだ光が町の上に広がっていて、どこか迷っているような空だった。
雫は制服の袖を通しながら、その空を少しだけ自分に似ていると思った。
気持ちは前へ向いている。
でも、まだはっきりした形にはなっていない。
それでも、昨日より少しだけ、自分の中の何かを怖がらなくなっている気がした。
朝食のとき、母はトーストにバターを塗りながら言った。
「今日は、昨日より顔が静かだね」
「静か?」
「うん。落ち着いてるってこと」
雫は少し考えてから笑った。
「それなら、いい意味だね」
「うん、いい意味」
母はそれだけ言って、雫の前に温かいスープを置いた。
その湯気を見ながら、雫はふと思った。
今日は、できるかもしれない。
小さなことでも、自分から。
学校へ向かう道で、その考えは何度か胸の中に浮かんでは消えた。
自分から話しかける。
たったそれだけのことなのに、雫にとっては少し勇気がいる。
相手は湊だ。
たぶん、話しかけても困った顔はしない。
変に受け止めすぎることも、軽く流しすぎることもない。
それは分かっているのに、それでも少しだけ緊張する。
教室へ入ると、湊はまだ来ていなかった。
雫は自分の席に座り、窓の外を見た。
校庭の端の木が、風もないのに静かに立っている。
教室にはまだ人が少なく、椅子を引く音もまばらだった。
そのとき、後ろの戸が開いた。
振り向くと、湊が入ってきた。
鞄を肩にかけたまま、いつものように少し眠たそうな顔をしている。
「おはよう」
いつもより先に、雫のほうから声が出た。
言ってから、自分で少しだけ驚く。
でも、もう遅い。
言葉はちゃんと、湊のほうへ届いていた。
湊は一瞬だけ目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「……おはよう」
その返事が、雫には少しうれしかった。
「今日は早いな」
湊が席に鞄を置きながら言う。
「ちょっとだけ」
「珍しい」
「そうかも」
それだけの会話なのに、雫の胸の中では小さな波が静かに広がっていた。
ちゃんと話しかけられた。
ほんの一言だけれど、自分から。
湊は席に座る前に、雫の机の上に目をやった。
「それ、昨日のノート?」
雫ははっとした。
鞄から出したままになっていた小さなノートが、机の端に置かれていたのだ。
「うん」
「よく書いてるよな」
「……少しだけ」
湊はそれ以上、中を見ようとはしなかった。
ただ、何気ない調子で言った。
「書けるものがあるの、ちょっといいな」
その言い方が、羨ましさとも感心ともつかなくて、雫は少し気になった。
「湊は書かないの?」
「書かない」
「なんで?」
湊は自分の席に座ってから、少しだけ考えた。
「言葉にすると、そこで固まる感じがして」
その返事に、雫は目を上げた。
「固まる?」
「うん。まだ分からないままにしておきたいものもあるし」
それはまるで、自分が海で感じていたことに少し似ていた。
分からないものを、急いで決めなくてもいい。
名前をつけることは安心になるけれど、つけないまま大事にしたいものもある。
「……分かるかも」
雫がそう言うと、湊は少しだけ雫を見た。
「雫は書くほうなのに?」
「書くけど、全部は書けないよ」
「そっか」
「白いままのページもあるし」
その言葉を聞いて、湊が小さく笑った。
「それ、なんか雫っぽいな」
「どういう意味?」
「ちゃんと書くけど、余白も残してる感じ」
雫は少しだけ照れた。
そんなふうに言われるのは、やっぱりまだ慣れない。
一時間目が始まり、先生の声が教室に広がる。
数学の数字が黒板に並び、ノートを取る音が続く。
窓の外では、白い雲がゆっくり流れていた。
授業中、雫はふと気づいた。
さっきの短いやりとりが、まだ自分の中であたたかく残っている。
話しかけたこと。
返してもらえたこと。
それだけで、教室の空気が少しだけやさしくなった気がした。
昼休み、雫は珍しく自分から席を立った。
教室の後ろの棚に、校外学習の追加資料が置かれている。
プリントを取りに行くついでに、湊の席の近くを通る。
湊は窓際で頬杖をつきながら、外を見ていた。
その顔があまりにも静かで、雫は一瞬だけ声をかけるのをためらった。
けれど、ここで引いたら朝の一歩が途中で止まる気がした。
「湊」
自分の声で名前を呼ぶと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
湊が振り向いた。
「ん?」
「このプリント、あとで見る?」
そう言いながら、雫は手にした紙を少し持ち上げる。
ほんとうは、班のことを話すきっかけなんて何でもよかった。
ただ、自分からもう一度声をかけてみたかったのだ。
湊は雫の手元を見て、うなずいた。
「見る。あとで借りていい?」
「うん」
「ありがと」
たったそれだけ。
それでも、雫には十分なくらい大きなことだった。
席へ戻る途中、桜井さんが雫に「雫、今日ちょっと機嫌よくない?」と笑いながら言った。
雫は「そうかな」と返しつつ、顔が少し熱くなるのを感じた。
午後の授業が終わるころには、雫は少し疲れていた。
でもその疲れの中に、前のような重さはなかった。
放課後、みんなが帰り支度をする中で、湊が雫の机のそばへ来た。
「プリント、いい?」
「うん」
雫は紙を渡しながら、少しだけ迷った。
いまなら、もうひとつくらい話せるかもしれない。
でも、何を言えばいいのか分からない。
湊はプリントを受け取って、ふと雫の顔を見た。
「今日、自分から話しかけたな」
雫はどきりとした。
「……分かった?」
「分かるよ」
湊は少しだけ笑った。
「朝も、さっきも」
雫はプリントを渡した手を引っ込めながら、小さく息をついた。
「ちょっとだけ、頑張った」
「うん」
湊はその“頑張った”を、軽くも重くもせず受け取った。
「よかった」
それだけだった。
けれど、その二文字が、雫には思っていたより深く沁みた。
すごいね、でもなく、えらいね、でもない。
ただ、“よかった”。
それは、雫が今日やった小さなことを、そのままの大きさで受け止めてくれる言葉だった。
「……うん」
雫は少し笑って、うなずいた。
廊下に出ると、窓の向こうの空は朝より少し青みを増していた。
白い雲は遠くへ流れ、夕方はまだ少し先にある。
今日は、自分から声をかけた。
自分から名前を呼んだ。
それだけのことなのに、心の中では小さな道がひとつ増えたみたいだった。
帰り道、雫はそのことを何度も思い返した。
会いたいと思うこと。
自分から近づいてみたいと思うこと。
それは前の雫なら、きっともっと怖かった。
でも今は違う。
まだ浅い呼吸のままでも、灯しのあるほうへなら少しずつ歩いていける気がする。
家へ着くと、母が玄関の音に気づいて声をかけた。
「おかえり。今日はどうだった?」
雫は靴を脱ぎながら、少しだけ笑った。
「……ちょっと、ちゃんと前に行けたかも」
母はその言葉に、静かにうなずいた。
「そっか」
それ以上聞かないところが、やっぱりありがたかった。
夜、雫は机の前でノートを開いた。
ページをめくり、少しだけ考えてから書く。
今日は、自分から名前を呼んだ。
それから、少し間を置いて、もう一行。
小さなことなのに、心の中では道がひとつ増えたみたいだった。
書いたあと、雫はその文字をしばらく見つめた。
道はまだ細い。
でも、ちゃんと前へつながっている。
窓の外では、夜になりきる前の風が、やわらかく木を揺らしていた。
雫はノートを閉じ、そっと胸の前で息を整える。
呼吸は、前より少しだけ深くなっていた。
雫はこの日、
自分から湊の名前を呼びました。
ほんの短い会話。
たった一言の「おはよう」。
それでも、雫の胸の中には
小さな道がひとつ増えたような感覚が残ります。
“頑張った”と言った雫に、
湊はただ「よかった」と返すだけ。
その軽すぎず、重すぎない言葉が
雫の呼吸をそっと深くしていきます。
自分から声を出すこと。
それは、灯りのあるほうへ
一歩だけ近づくということ。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「自分から呼ぶ声ってね、
心の中の灯りが前へ歩きたいって言ってる合図なんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




