第二十話 ただいまの灯り
この章は、雫が“会いたい”という気持ちを
家の灯りの中でそっと確かめる物語です。
学校で生まれた小さな揺れ。
胸の奥に灯った、まだ名前のないあたたかさ。
家に帰ると、甘い匂いと、母の声と、
宙くんのまっすぐな言葉が迎えてくれます。
外で生まれた気持ちを、
家の中で安心して受け取れるようになること。
それは、雫にとって“帰る場所”が
ちゃんと灯っている証でした。
第二十話 ただいまの灯り
その日の夕方、雫が家へ戻ると、玄関の戸を開けた瞬間に、甘い匂いがした。
「あ……」
思わず小さく声が出る。
台所のほうから、砂糖と卵とバターがまじったような、やさしい匂いが流れてきていた。
「おかえりー」
母の声に混じって、もうひとつ、元気な声が飛んできた。
「雫さん!」
居間をのぞくと、宙くんが座布団の上に正座していた。
今日はリュックを背負っていない代わりに、胸の前で両手をきちんとそろえていて、なぜか
“来客感”を必要以上に出している。
「こんにちは」
雫が笑うと、宙くんは大きくうなずいた。
「こんにちは。本日は、お邪魔しています」
「ずいぶん丁寧だね」
「今日は文子さんが、言葉づかいに気をつけなさいと言いました」
「その割に、いつも十分丁寧だけど」
雫がそう言うと、宙くんは少し考えてから言った。
「たしかに、ぼくは、もともと少し整っているかもしれません」
母が台所で吹き出した。
雫も笑いながら鞄を置く。
「文子さんは?」
「買い物。宙くん、うちで少し待たせてって」
母がそう言って、台所から焼きたての小さなカップケーキを皿にのせて運んできた。
まだほんのり湯気が立っている。
「わあ」
雫が声をもらすと、宙くんも目を輝かせた。
「これは、かなり良い状況です」
「毎回、その言い方なんなの」
「気持ちの整理です」
母は笑いながらテーブルに皿を置いた。
「今日はちょっと、気分で焼いてみたの。雫、疲れた顔して帰ってくるかなと思って」
その言葉に、雫は少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。
母は、こういうとき、まっすぐ「心配してる」とはあまり言わない。
でも、代わりにこうして、甘い匂いや温かいものを先に置いてくれる。
「ありがとう」
雫が小さく言うと、母は「はいはい」とだけ返して、麦茶を注ぎに戻っていった。
宙くんは椅子に座り直しながら、雫の顔をじっと見た。
「雫さん」
「うん?」
「今日は、ちょっとふわふわしています」
雫はカップケーキを手に取ったまま固まった。
「え?」
「歩き方が、少しだけ上のほうでした」
「上のほうってなに」
宙くんは真剣な顔で言った。
「足は地面についていました。でも、気持ちはちょっと浮いていました」
雫は、返事に困って思わず笑った。
母も麦茶のグラスを置きながら、「宙くん、またすごいこと言ってる」と肩を揺らす。
「そんなに分かる?」
雫が聞くと、宙くんは当然のようにうなずいた。
「はい。いつもの雫さんは、静かです。でも今日は、静かなのに、ちょっとだけ光っていま
す」
その表現に、雫はまた言葉を失った。
静かなのに、ちょっとだけ光っている。
それは自分では気づかなかったことだ。
でも、今日の帰り道の胸のあたたかさを思い出すと、完全に違うとも言えなかった。
母がカップケーキの皿を雫の前へ寄せた。
「学校で何かあった?」
いつもの母なら、もう少し遠回しに聞いたかもしれない。
でも今の問い方は、詮索ではなく、ただそっと置いてくれた感じだった。
雫は少し迷った。
全部を言うほど、自分の中で整理はついていない。
でも、何も言わないのも違う気がした。
「……班の話し合いがあって」
「うん」
「ちょっと、ちゃんと話せた」
母はそれを聞いて、小さくうなずいた。
「そっか。それはよかった」
雫は続けた。
「あと……その、クラスの子と少し話して」
それだけ言って、雫はカップケーキに視線を落とした。
母は、一瞬だけやわらかい顔をしたけれど、すぐにいつもの調子で言った。
「へえ。静かな子?」
雫は思わず顔を上げた。
「なんで分かるの」
「なんとなく」
母は笑う。
その“なんとなく”に、雫は少しだけ照れた。
宙くんはカップケーキを半分に割りながら、急に言った。
「それは、会いたい人ですか」
母の手がぴたりと止まり、雫は危うくむせそうになった。
「宙くん!」
「はい?」
本人だけがきょとんとしている。
「なんで、いきなりそうなるの」
「だって、雫さんの顔が、そういう顔です」
雫は耳まで熱くなるのを感じた。
母は笑いをこらえきれずに、台所のほうを向いている。
「もう……五歳に見抜かれるの、ちょっといやなんだけど」
そう言うと、宙くんは少し考えたあと、真面目に言った。
「年齢は関係ありません。観察力です」
「堂々と言うなあ」
雫が笑うと、つられて母も笑った。
その笑いの中で、不思議と雫の気持ちは少しずつほぐれていった。
恥ずかしい。
でも、苦しくはない。
前なら、こういう話題はすぐに胸の奥へ押し戻していたかもしれない。
でも今は、名前を急がなくても、そこにあるものを少しだけ認めてもいい気がした。
母が麦茶をひとくち飲んでから、何気ない口調で言った。
「会いたいと思える人がいるのは、悪いことじゃないよ」
雫は静かに母を見た。
母はそれ以上、何か教えるような顔はしなかった。
ただ、当たり前のことを言うみたいに続けた。
「会うだけで少し元気になるとか、息がしやすいとか。そういうのって、けっこう大事だか
ら」
その言葉に、雫は胸の奥がすっとあたたかくなるのを感じた。
“息がしやすい”
まさに、自分が海で吉岡さんに話したことと同じだった。
「……うん」
雫は小さくうなずいた。
宙くんは、カップケーキの最後のひとかけを口に入れながら、満足そうに言った。
「それは、非常に良いことです」
「どうして?」
雫が聞くと、宙くんは少し考えてから答えた。
「人は、会いたい人がいると、明日の形がちょっと見えるからです」
また、その場がしんとした。
母も、雫も、思わず宙くんを見る。
宙くんは自分では特別なことを言ったつもりがないらしく、きょろんと目をしていた。
「……宙くん」
母がようやく言う。
「その言葉、どこで覚えるの」
宙くんは首をかしげた。
「たぶん、いま思いつきました」
雫はもう笑うしかなかった。
笑いながら、胸の奥にその言葉が静かに残るのを感じていた。
会いたい人がいると、明日の形がちょっと見える。
本当に、そうなのかもしれない。
朝、学校へ行く足が昨日より少し軽かったこと。
教室でその姿を探してしまったこと。
会えたとき、息が少し深くなったこと。
全部が、その言葉の中にきれいに入っている気がした。
夕方の光は、窓の向こうで少しずつ色をやわらげていた。
文子さんが戻ってきて、宙くんが「本日は、非常に有意義でした」と報告し、文子さんが「ま
たそんなこと言ってる」と笑う。
母がその横で、カップケーキをひとつ包んで「おみやげね」と手渡す。
何でもない、あたたかな時間だった。
帰り際、宙くんは玄関で靴を履きながら、雫を見上げた。
「雫さん」
「うん?」
「会いたい人がいるときは、ちょっとだけ姿勢が良くなります」
「ほんとに?」
「はい。心が前を向くからです」
そう言って、宙くんは満足そうにうなずいた。
文子さんが「もう、どこの先生なのよ」と笑いながら手を引いていく。
門のところで振り向いた宙くんは、最後にもうひとつ言った。
「でも、急がなくて大丈夫です。良いことは、少しずつのほうが長持ちします」
その言葉に、雫は自然に笑っていた。
「うん。ありがとう」
宙くんたちの背中が見えなくなってからも、玄関先の空気は少しあたたかかった。
その夜、雫は机の前に座り、ノートを開いた。
少し迷ってから、ゆっくり書く。
会いたいと思う気持ちは、こわいものじゃないのかもしれない。
それから、もう一行。
それがあると、明日の形が少しだけ見える。
書き終えたあと、雫はその文字をじっと見つめた。
前なら、こんなふうに思ってしまう自分が少し怖かったかもしれない。
でも今は、怖さよりも、やわらかなあたたかさのほうが少し大きい。
母の灯し。
祖母のランタン。
海の静けさ。
宙くんの不思議な言葉。
そして、学校にいる、ひとりの静かな人。
そのどれもが、雫の中で明日へつながっている。
窓の外では、夜の最初の星がひとつだけ見えた。
雫はノートを閉じ、静かに息をつく。
呼吸は、まだ深いとは言えない。
でも、前よりちゃんと、明日のほうへ向いていた
雫はこの日、
“会いたいと思う気持ちは、こわいものじゃない”
そう静かに受け取ることができました。
宙くんの
「明日の形がちょっと見える」
という言葉は、雫の胸に深く残ります。
母の灯し。
祖母のランタン。
海の静けさ。
宙くんの観察力。
そして、学校にいるひとりの静かな人。
そのどれもが、雫の中で
“明日へ向かう灯り”としてつながっていきます。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「帰る場所の灯りってね、
心が前を向いたとき、いちばんやさしく見えるんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




