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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第十九話 会いたい日の朝

この章は、雫が“会いたい”という気持ちを

初めて自分の言葉として受け取る物語です。


特別な約束があるわけでもなく、

大きな出来事が待っているわけでもない。


ただ、学校へ向かう朝の空気が

いつもより少しだけ違って感じられる。


胸の奥で静かに動く小さなざわめき。

それが何なのか、まだ名前はつかないけれど、

雫はその揺れをそっと見つめはじめます。


“会えると、呼吸が少し深くなる”

そんな気づきが訪れる朝の物語です。


第十九話 会いたい日の朝

その朝、雫は目を覚ましたとき、自分でも少し不思議に思った。

まだ布団の中にいるのに、胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなかった。

苦しいわけではない。

いやな感じでもない。

けれど、何かを待っているような、小さなざわめきがある。

天井を見つめたまま、雫はしばらく動かなかった。

そしてふと、そのざわめきの向こうにあるものへ思い当たって、少しだけ頬が熱くなった。

今日は学校で、校外学習の班の打ち合わせがある。

放課後、図書室に集まることになっていた。

ただそれだけのことだ。

班の話し合いなのだから、特別でも何でもない。

でも、そこに湊がいると思うだけで、朝の空気が少し違って感じられる。

「……そっか」

雫は、誰にも聞こえないように小さくつぶやいた。

会いたいのかもしれない。

そう思った瞬間、胸の中で何かが静かに動いた。

居間へ行くと、母がトーストを皿にのせていた。

「おはよう。今日はちょっと顔が早いね」

「顔が早い?」

「起きたてなのに、もう何か考えてる顔」

母が笑いながら言う。

雫は少しだけ目をそらした。

「そうかな」

「そうだよ」

それ以上、母は何も言わなかった。

でも、何となく見抜かれているようで、雫はトーストをかじりながら少しだけ落ち着かなく

なった。

学校へ向かう道は、昨日より少し明るく見えた。

同じ朝、同じ校門、同じ廊下。

それなのに、教室へ近づく足取りが、前より少しだけ軽い。

教室の戸を開けた瞬間、雫は無意識に視線を右へ向けていた。

湊の席は、窓から二列目のいちばん後ろ。

まだ誰もいない席を見てから、自分がまずそこを探したことに気づき、雫は少しだけ息をのん

だ。

自分でも驚くほど自然だった。

まるで、そこにいて当然のものを確かめるみたいに。

鞄を置き、椅子に座って窓の外を見る。

校庭の端にある木が、朝の風に揺れていた。

教室にはまだ人が少なく、静かな時間が残っている。

そのとき、後ろの戸が開く音がした。

振り向くより先に、なぜだか分かった。

「おはよう」

湊の声だった。

「……おはよう」

雫が返すと、湊は自分の席に鞄を置きながら、いつものように落ち着いた顔で言った。

「今日、少し涼しいな」

「うん」

「こういう日は、まだましだ」

その“まだまし”が妙に湊らしくて、雫は少し笑った。

「湊って、たまにおじいさんみたいなこと言うよね」

「それ、誉めてる?」

「半分くらい」

湊が吹き出す。

朝の教室に、その笑い声は大きすぎず、ちょうどよく響いた。

それだけで、雫の胸のざわめきは少しやわらいだ。

会えた。

ただ、それだけでよかったのだと分かる。

午前の授業は、思ったより静かに過ぎた。

黒板に書かれる文字、ノートをめくる音、窓の外の雲の流れ。

もちろん疲れはする。

でも今日は、どこかに小さな支えがあるみたいだった。

放課後、図書室へ行くと、まだ誰も来ていなかった。

長机がいくつか並び、窓から斜めの光が差している。

本棚の間には、紙と木の混ざった静かな匂いがあった。

雫は入口近くの席に座り、班のプリントを広げる。

少しして、扉が開き、湊が入ってきた。

「早いな」

「湊も」

「三村たちは、たぶん少し遅れる」

「桜井さんも?」

「さっき廊下で、先生に呼ばれてた」

そう言って、湊は雫の向かいに座った。

二人きりの図書室は、教室とも海とも違う静けさだった。

声をひそめなくても、自然と静かになる場所。

雫はその空気が少し好きだと思った。

「どこ回るか、決めるんだっけ」

湊がプリントを見る。

「うん。班ごとに候補を出して、まとめるみたい」

「地図、ある?」

雫は配られた観光マップを広げた。

すると湊がそれを引き寄せて、指先で道をなぞる。

「ここからここなら、歩いても行けるな」

「湊、地図見るの得意そう」

「わりと好き」

「へえ」

雫は少しだけ笑った。

「昨日、五歳の子が“見えてないものの地図”って言ってたの思い出した」

湊が顔を上げる。

「またその五歳?」

「うん。宙くん」

「すごい気になるな、その子」

「すごいよ。急に“心の中にも地図がいる”とか言うの」

湊は一瞬黙って、それから小さく笑った。

「それ、たしかにすごいな」

「でしょ」

「でも、ちょっと分かるかも」

その言葉に、雫は目を上げた。

湊は地図の上に視線を落としたまま言った。

「どこにいるのか分からないときって、しんどいし」

それは何でもない調子の言い方だった。

けれど雫には、そのひと言がまっすぐ入ってきた。

この人も、もしかしたら少しは、そういう感覚を知っているのかもしれない。

「……うん」

雫はそれだけ答えた。

そのあと、三村くんと桜井さんもやってきて、班の話し合いはにぎやかになった。

集合時間、見学の順番、お昼を食べる場所。

桜井さんがてきぱき決め、三村くんが「それでいいと思う」とのんびりうなずき、湊が必要な

ところだけ口をはさむ。

雫も、今日は昨日より少しだけ言葉を出せた。

「ここ、混みそうだから先のほうがいいかも」

そう言うと、桜井さんが「あ、それいいね」とすぐに乗ってくれる。

三村くんも「たしかに」と言う。

湊は何も言わなかったけれど、ペンを持つ手を止めて、ほんの少しだけ雫を見た。

その視線が、“ちゃんと届いたな”と知らせてくれるみたいだった。

話し合いが終わって図書室を出るころには、外の光はだいぶ傾いていた。

廊下へ出ると、桜井さんが「じゃ、また明日ね」と手を振り、三村くんも「おつかれ」とのん

びり帰っていく。

残ったのは雫と湊だけだった。

昇降口まで歩くあいだ、廊下の窓には夕方の空が映っていた。

薄いオレンジと青が重なって、どこか落ち着かない色をしている。

「今日、ちゃんと話してたな」

湊がぽつりと言った。

「そうかな」

「うん。昨日よりずっと」

雫は少しだけ照れた。

「……たぶん、図書室だったから」

「静かだったから?」

「うん。あと」

「あと?」

雫は少し迷ってから、小さく言った。

「湊がいたから、かも」

言ってしまってから、急に胸が熱くなった。

そんなふうに口に出すつもりはなかったのに、言葉が先にこぼれてしまった。

湊も少しだけ目を見開いた。

でもすぐに、やわらかく笑った。

「それなら、よかった」

たったそれだけの返事なのに、雫の胸の奥には静かな波が広がった。

昇降口で靴を履き替える。

二人で外へ出ると、風が少しだけ冷たくなっていた。

校門の前まで来たところで、湊が立ち止まる。

「雫」

「うん?」

「今日は、来るの楽しみだった」

雫は、思わず足を止めた。

湊は少しだけ視線をそらしていたけれど、その言葉は冗談でも軽い調子でもなかった。

「班の話し合い、面倒だなと思ってたけど。……雫がいるなら、まだいいかって思った」

夕方の風が、ふっと二人のあいだを通り抜けた。

雫は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

胸の奥が、やわらかく揺れている。

苦しくはない。

けれど静かすぎて、自分でも持て余すくらい、たしかな揺れだった。

「……私も」

ようやく、それだけ言えた。

湊は雫を見て、小さくうなずいた。

「そっか」

それ以上は何も言わなかった。

でも、その短い“そっか”には、十分なくらいのものが入っていた。

帰り道、雫は一人になってからも、歩く速さがうまく戻らなかった。

胸のどこかが少しだけ浮いていて、でも足元はちゃんと見えている。

会いたい。

たぶん、そういうことなのだ。

大きな声では言えない。

まだ恋だとは、はっきり呼べない。

けれど、朝にその人の席を探してしまうこと。

会えたときに少し息がほどけること。

帰り際のひと言が、夕方の風みたいにずっと残ること。

それはもう、ただの偶然ではなかった。

家へ戻ると、母が台所で煮物をよそっていた。

「おかえり。今日は、なんだかいい顔してるね」

雫は靴を脱ぎながら、少し笑った。

「そうかな」

「うん。少なくとも、朝よりはずっと」

母はそれ以上聞かなかった。

そのやさしさが、今夜はありがたかった。

自分の部屋でノートを開く。

雫は少しだけ迷ってから、ゆっくり書いた。

今日は、会いたいと思って学校へ行った。

その一行を見つめて、雫はしばらく動かなかった。

書いてしまうと、少し照れくさい。

でも、嘘ではない。

もう一行、書き足す。

会えると、呼吸が少しだけ深くなる。

そういう人がいる。

書き終えて、雫は鉛筆を置いた。

窓の外では、夜の手前の風が木の葉を揺らしていた。

遠くで、誰かの家の風鈴がかすかに鳴る。

名前は、まだ急がなくていい。

でも、たしかにここにあるものは、もう見失わずにいたかった。

雫はノートを閉じ、表紙の上にそっと手を置いた。

その夜、胸の奥には、小さな灯りがもうひとつ増えていた。

雫はこの日、

“会いたい”という気持ちを

初めて自分の言葉で書くことができました。


朝、無意識に湊の席を探してしまうこと。

声を聞くだけで胸のざわめきがやわらぐこと。

帰り際のひと言が、夕方の風みたいに残ること。


それはまだ恋とは呼べないかもしれない。

でも、たしかに灯りに似ていました。


大きく燃える光ではなく、

ただ、呼吸を少し深くしてくれるような

静かな明るさ。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「会いたいってね、

   灯りが胸の奥でそっと動く音なんだよ。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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