第十八話 海に似た灯り
この章は、雫が“灯りの正体”に少し触れる物語です。
学校で感じた小さなざわつき。
名前のつかない揺れ。
その答えを急がずに置いておける場所として、
雫はまた海へ向かいます。
海は、急かさず、押しつけず、
ただ静かに呼吸を思い出させてくれる存在。
そして雫は気づきます。
人の中にも、ときどき海に似た灯りがあることを。
そんな、心の奥に静かに灯る“気づき”の章です。
第十八話 海に似た灯り
その日の帰り道、雫はまっすぐ家には戻らなかった。
夕方の光が少しずつやわらぎ、町の輪郭が昼よりも静かになっていく時間だった。
学校を出てから、気づけば足は海のほうへ向かっていた。
考えごとがあるとき、そこへ行くのがもう少し自然になっている自分に、雫は途中で気づいた。
防波堤に着くと、海は穏やかだった。
空は薄い金色から青灰色へゆっくり移り変わっていて、水面にはその色が細かくほどけて映っ
ている。
波は小さく、岸へ寄せては返し、何かを急かすことなく同じ動きを繰り返していた。
雫は、いつもの場所に腰を下ろした。
胸の奥が、まだ少しだけ落ち着かない。
階段の踊り場で感じた、あのざわつき。
桜井さんが湊を呼んだとき、胸の中をかすめた、うまく名前のつかない気持ち。
嫌だったのかと聞かれたら、少し違う。
寂しかったのかと聞かれても、それだけではない。
ただ、何かがふっと動いて、風向きが変わったみたいだった。
「……なんなんだろう」
小さくつぶやくと、波がひとつ、静かに返事をしたように聞こえた。
雫は膝を抱え、海を見た。
ここへ来ると、自分の気持ちを無理に早く言葉にしなくてよくなる。
分からないものを、分からないまま置いておける。
それが雫にはありがたかった。
空の色が少しずつ変わっていく。
海はそれをそのまま受け取り、何も言わずに揺れている。
「雫ちゃん」
後ろから声がして振り返ると、吉岡さんだった。
今日も帽子をかぶり、片手をポケットに入れている。
「こんにちは」
「こんにちは。……また難しい顔してるな」
雫は少し笑った。
「そんなに分かりますか」
「海見に来るときは、だいたい何かある顔だ」
吉岡さんは雫の少し離れたところに腰を下ろした。
しばらく二人で波の音を聞いていたが、やがて吉岡さんが言った。
「学校か」
雫は少し驚いて、でもうなずいた。
「はい」
「人が多い場所は疲れるからな」
「それもあります」
「それ“も”か」
吉岡さんの声は、からかうでもなく、ただそこにあった。
雫は海を見たまま言った。
「……最近、学校で少し話す人がいて」
「ほう」
「別に、特別なことがあったわけじゃないんです。でも、その人がいると、ちょっとだけ息が
しやすいんです」
言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。
こんなことを吉岡さんに話すつもりではなかったのに、海の前だと、言葉が少しだけ素直にな
る。
吉岡さんは笑わなかった。
ただ、夕方の海を見るような目で、ぽつりと言った。
「そりゃ、いいことだ」
「いいこと、ですか」
「息がしやすい相手ってのは、なかなかいないからな」
雫はその言葉を胸の中で繰り返した。
息がしやすい相手。
それはまさに、いま自分が感じていることに近かった。
好き、というほど強くはない。
でも、どうでもいい人でもない。
その人がいるだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
名前を呼ばれると、胸のどこかが静かに動く。
それは灯しに似ている、と雫は思った。
大きな光ではない。
眩しくて、何もかも変えてしまうようなものではない。
ただ、苦しくなりすぎる前に、ひとつ深く息をつけるような、小さな明るさ。
「……灯しみたいだなって、思ったんです」
気づけば、そう口にしていた。
吉岡さんは「ふむ」とだけ言った。
「その人のことが?」
「はい」
「なるほどな」
吉岡さんはそれ以上、あれこれ聞かなかった。
その代わりに、少ししてから言った。
「灯りってのはな、別に火の形してなくてもいいんだ」
雫は顔を上げた。
「え?」
「言葉かもしれんし、顔かもしれんし、一緒に歩く歩幅かもしれん。人によっちゃ、それだけ
で夜を越えられることもある」
その言葉に、雫は胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
一緒に歩く歩幅。
まさに、昨日の帰り道の感じだった。
話しすぎなくても苦しくなくて、沈黙が沈黙のままでいられる距離。
あれはたしかに、灯りに近かった。
「でも……」
雫は少し迷ってから続けた。
「そう思うと、今度は気になってしまって。前より、その人のことを見てしまうんです」
吉岡さんは小さく笑った。
「そりゃそうだろう」
「そういうものですか」
「そういうもんだ。灯りって、気づいたら見てしまうから灯りなんだよ」
あまりにも当たり前のように言われて、雫は思わず笑ってしまった。
「なんか、すごく雑な言い方ですね」
「難しく言っても仕方ない」
吉岡さんは海の向こうを見たまま肩をすくめた。
「ただな、急いで名前をつけなくていい。灯りは灯りのまま、しばらく見てりゃいい」
その言葉は、今の雫にちょうどよかった。
無理にこれは恋だ、と決めなくていい。
特別な意味を急いで探さなくていい。
ただ、自分が少し息をしやすくなっていることを、そのまま見ていればいい。
しばらくして、吉岡さんは立ち上がった。
「暗くなる前に帰れよ」
「はい」
「お母さん、心配するぞ」
「そうですね」
吉岡さんは軽く手を上げて帰っていった。
雫はまたひとりになり、海を見た。
空はもう、夕方の色を少し深くしている。
遠くで雲が細く伸び、水面には長い光が揺れていた。
湊の声を思い出す。
“今日は、風が気持ちいいな”
“無理に元気な顔しなくても、朝は朝で終わるよ”
“今日、ちゃんと来ててよかった”
どれも大きな言葉ではない。
でも、そのどれもが、雫の中にちゃんと残っている。
静かだけれど、確かに。
海も、そうだった。
大きく何かを言わない。
でも、何度もここへ来たくなるのは、ただ静かだからではない。
その静けさの中に、少しだけ自分を戻せる感じがあるからだ。
「……似てるのかも」
雫は誰に言うでもなくつぶやいた。
海と、灯しと、湊。
どれも無理に近づいてこない。
でも、こちらが苦しいときに、少しだけ呼吸を思い出させてくれる。
それがうれしいのだと、雫はやっと少し分かりはじめていた。
家に戻るころには、空はもう夕暮れの青を深くしていた。
玄関を開けると、台所から母の「おかえり」が聞こえる。
その声にもまた、ひとつの灯しがある。
雫は自分の部屋へ行き、机の上のノートを開いた。
少し考えてから、書く。
海は、急かさない。
でも、何度でも呼吸を思い出させてくれる。
それから、もう一行。
人の中にも、ときどき海に似た灯りがある。
書き終えて、雫はしばらくその文字を見つめていた。
頬が少し熱い。
でも、それは昨日より少しだけ落ち着いた熱だった。
恋なのかどうかは、まだ分からない。
ただ、その人のことを思い出すと、胸の奥が少しやわらかくなる。
それだけは、たしかだった。
窓の外で、夜の最初の風が木の葉を鳴らした。
雫はノートを閉じる前に、最後に小さく書き足した。
急がなくていい。
灯りは、見ているうちに分かることもある。
その一文が、今夜の自分にはちょうどよかった。
雫はこの日、
湊という存在が“灯りに似ている”ことを
初めて自分の言葉で認めました。
大きな光ではなく、
眩しくて何もかも変えてしまうものでもない。
ただ、苦しくなりすぎる前に
ひとつ深く息をつけるような、
そんな静かな明るさ。
吉岡さんの
「灯りってのは、火の形してなくてもいい」
という言葉は、
雫の胸にそのまま落ちていきます。
海と、灯しと、湊。
どれも無理に近づいてこないのに、
こちらが苦しいときに呼吸を思い出させてくれる。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「灯りってね、
急がなくても、見てるうちに分かるんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




