第十七話 揺れる窓辺
この章は、雫の心に“まだ名前のない揺れ”が生まれる物語です。
学校のざわめき、班分けの空気、
人の声が重なるだけで胸が浅くなる朝。
そんな中で、湊の言葉や視線が、
雫の呼吸をそっと整えていきます。
安心とも違う。
不安とも違う。
そのあいだにある、小さな揺れ。
まだ名前はつかないけれど、
たしかに胸の奥で動きはじめる感情を描いた章です。
第十七話 揺れる窓辺
次の日の朝、教室の空気は少しだけざわついていた。
一時間目の前だというのに、いつもより声が多い。
来月の校外学習の話が出たらしく、班分けの紙が黒板の横に貼られている。
誰と一緒になるのか、どこを回るのか、みんなそれぞれ好き勝手に言い合っていて、教室は朝
から落ち着かなかった。
雫は窓際の自分の席に鞄を置いて、小さく息をついた。
こういう“にぎやかな予定”は、少し苦手だ。
楽しみなはずのことでも、人の声が重なるだけで胸の奥がざわざわする。
誰が悪いわけでもない。
ただ、元気な空気の中にいると、自分の呼吸の浅さが余計にはっきりしてしまうだけだ。
「おはよう」
声がして、顔を上げると湊が立っていた。
「おはよう」
雫が返すと、湊は黒板のほうを見て、少しだけ眉を上げた。
「朝から騒がしいな」
「うん」
「こういうの、得意じゃなさそう」
図星で、雫は少しだけ笑った。
「顔に出てる?」
「ちょっと」
湊はそれ以上言わず、自分の席へ行った。
その“ちょっと”が責める感じではなく、ただ見えていることをそのまま言っただけみたいで 、
雫は少しだけ助かった。
ホームルームが始まり、担任が班分けの説明をする。
自由に組ませると偏るから、ある程度はこちらで調整した、といういつもの話。
雫は聞きながら窓の外を見た。校庭の端の木が、朝の風に少し揺れている。
班のメンバーが読み上げられたとき、雫は自分の名前のあとに、聞き慣れた名前を聞いた。
「……雫、湊、桜井、三村」
雫は一瞬だけ顔を上げた。
湊も同じタイミングで前を見ていたが、ふと視線が合い、すぐにお互い少しだけ目をそらした。
それだけのことなのに、なぜだか胸の奥が小さく鳴った。
休み時間になると、班が同じになった数人が机を寄せて簡単な話し合いを始めた。
桜井さんは明るくて、思ったことをすぐ口にするタイプの女子だった。三村くんはのんびりし
ていて、「どこでもいいよ」が口ぐせみたいな男子だ。
「ね、集合時間どうする?」
「早すぎるのはだるい」
「でも遅れるのも嫌だし」
会話はどんどん進む。
雫もちゃんと聞いているのに、言葉を差し込むタイミングが少しつかめない。
自分の中では意見があるのに、それを出すまでに一拍遅れてしまう。
「雫はどう思う?」
急に桜井さんに話を振られて、雫は少しだけ言葉に詰まった。
「えっと……」
頭の中では考えている。
でも、みんなの視線が自分へ向いた瞬間、喉のあたりがきゅっと狭くなる。
そのとき、湊がさりげなく言った。
「集合は少し早めで、移動はゆっくりめでよくない?」
桜井さんが「それいいかも」とすぐに乗り、三村くんも「それなら楽」とうなずいた。
会話が流れ出してから、湊が雫のほうをほんの一瞬だけ見た。
“それでよかった?”と確かめるみたいな短い視線だった。
雫は小さくうなずいた。
助けられた、と思った。
でも、露骨にかばわれた感じではなかった。
そこがありがたくて、同時に少しだけ胸が熱くなる。
昼休み、雫はひとりで屋上へ続く階段の踊り場にいた。
教室の空気が少し濃く感じて、静かな場所へ逃げてきたのだ。
窓の向こうには、青い空が高く広がっている。
階段のコンクリートは少しひんやりしていて、そこでようやく呼吸が落ち着いてきた。
「やっぱりここにいた」
声がして振り向くと、湊が立っていた。
片手に紙パックのジュースを持っている。
「なんで分かったの?」
「雫、音が多いと、ちょっと高い場所か窓の近くに行きそうだから」
言われて、雫は少し驚いた。
自分では無意識だったのに、湊はそれを見ていたらしい。
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすいっていうか……見てれば、なんとなく」
湊は階段の一段下に腰を下ろした。
同じ段じゃないところが、妙にちょうどよかった。近すぎず、遠すぎない。
「班のとき、助かった」
雫がぽつりと言うと、湊はジュースのストローをくわえたまま少し考えた。
「助けたっていうほどでもないよ」
「でも、私、ちょっと詰まってたから」
「うん、詰まってたな」
あっさり言われて、雫は少しだけ笑った。
「そういうとこ、正直だよね」
「変に“大丈夫?”って言うより、ましな気がして」
雫は窓の外を見た。
まし。
たしかに、そういう言い方のほうが、今の自分には楽だった。
しばらく沈黙があって、そのあと湊が何気ない調子で言った。
「桜井、話すの速いだろ」
「うん。ちょっと圧倒された」
「悪いやつじゃないんだけどな」
「うん、それは分かる」
雫がそう言うと、湊は少し笑った。
「雫、そういう言い方するよな」
「どういう?」
「誰かのこと、ちゃんと嫌いになりきらない感じ」
その言葉に、雫は返事をしなかった。
嫌いになる前に、自分のほうが離れてしまうことが多かったからだ。
でも、それを今ここで説明するほどでもない気がした。
そのとき、階段の上のほうから女子の声がした。
「湊ー、次のプリント、先生が持ってこいってー」
桜井さんだった。
踊り場まで顔をのぞかせて、雫にも「あ、ごめん、邪魔した?」と気さくに笑う。
「いま行く」
湊が立ち上がる。
桜井さんはそのまま湊に何か話しかけながら、廊下のほうへ戻っていった。
雫はその背中を見送って、なぜだか少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。
別に、変なことではない。
同じ班なのだから、桜井さんが湊に話しかけるのは当たり前だ。
それなのに、さっきまで静かだった階段の空気が、急に遠くなった気がした。
これが何なのか、雫にはまだうまく分からない。
湊は階段を上がりかけて、ふと振り向いた。
「雫」
「うん?」
「次の授業、遅れるなよ」
その言い方が少しだけ笑っていて、雫は胸のざわつきが少しやわらぐのを感じた。
「……湊こそ」
「俺は大丈夫」
そう言って、今度こそ行ってしまう。
雫は一人きりになった踊り場で、しばらく窓の外を見ていた。
風が校庭の端を渡っていく。
空は高くて、静かだった。
自分はいま、少し揺れている。
それは不安だけじゃない。
でも安心だけでもない。
まだ名前をつけるには早い、浅い波みたいなものが胸の中にある。
授業が終わって帰るころ、雫は教室でプリントを鞄にしまいながら、ふと湊のほうを見た。
湊は窓際で三村くんと何か話していて、その横顔はいつも通り落ち着いている。
その“いつも通り”に、なぜだか少しほっとした。
帰り道、雫はひとりだった。
でも、昨日みたいに寂しい感じはなかった。
むしろ、ひとりだからこそ、胸の中の小さな揺れがよく分かった。
家へ帰ると、母が「おかえり」と台所から声をかけた。
雫は返事をして、自分の部屋へ鞄を置きに行く。
机の上のノートを開いて、少しだけ迷ってから書いた。
今日は、心が少し忙しかった。
それから、鉛筆を止めて、もう一行。
静かな人が、ほかの誰かと話しているのを見ると、なぜか風向きが変わるみたいだった。
書いてから、雫は頬に少し熱が集まるのを感じた。
でも、それはいやな熱ではなかった。
少し戸惑って、少し落ち着かなくて、でもどこかやわらかい熱だった。
窓の外では、夕方の風がそっと木を揺らしていた。
雫はノートを閉じて、小さく息をつく。
まだ恋とは呼ばない。
でも、自分の心が前より少し動きやすくなっていることは、たしかだった。
それは、少しずつ呼吸が深くなってきた証なのかもしれない。
まだ、ほんの少しだけれど。
雫はこの日、
“静かな人が誰かと話していると、風向きが変わる”
そんな感覚を初めて知りました。
湊の言葉は強くも弱くもなく、
ただ雫の存在をそのまま受け取るものでした。
助けられた、と感じても、
守られた、と感じても、
それが重くならない距離感。
その距離が、雫の胸の奥に
小さな揺れを生みます。
まだ恋とは呼ばない。
でも、確かに灯りに似ている。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「名前がつく前の気持ちってね、
いちばん風に揺れやすいんだよ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




